ロマンチックな風景 (1965)     ドライポイント・ルーレット・エッチング / 36.2x33.7cm
ロマンチックな風景 (1965)     ドライポイント・ルーレット・エッチング / 36.2x33.7cm

画廊通信 Vol.110             女神に捧ぐ

 

 

「人は誰でも、一流の芸術を創ろうとする。私は、二流

の芸術で沢山だと思う。二流には、一流にはない自由が

あるからだ」、かつてこんな言葉で美術界を挑発し、二

流画家ばかりが群れ集う、権威だけは一流の既成画壇に、

敢然と反旗をひるがえした不世出の反逆児、彼こそは紛

れもなく一流の芸術家だった。

 櫛を入れた事もないようなボサボサの頭髪、天真爛漫

の人懐っこい笑顔、その野生児の如き独特の風貌を思い

浮べる時、何か熱くヴィヴィッドな奔流が、干からびた

精神に勢い良くみなぎる。それでいいのか、本当にその

程度か、あきらめるな、歩みを止めるな、天衣無縫に生

きた一人の芸術家は、私にそんな言葉を投げかけて止ま

ない。

 池田満寿夫 ── 1900年代後半のアートシーンを

鮮やかに駆け抜け、「天才」の名をほしいままにしたマ

ルチ・アーティスト、版画・油彩・水彩・コラージュ・

陶芸・書道・小説・映画に到るまで、その旺盛な活動は

驚くほどの多岐に及んだが、しかしまずは何よりも、彼

は稀代の卓越した版画家であった。

 

 1950年代初頭、野望を胸に長野から一人上京した

青年は、場末の酒場を廻って酔客の似顔絵を描き、僅か

な収入を得ながら芸大に挑戦する。しかし、3度の受験

ことごとく合格ならず、絶望の中で次には銅版画に活路

を見いだし、極貧の生活を続けながら制作に励む。23

歳、遂に東京国際版画ビエンナーレにて入選、以降その

斬新な版表現が、特に海外審査員の大きな注目を浴び、

同展で立て続けに受賞を重ねてゆく。

 60年代、変革の潮流が時代を激しく揺るがす中で、

30代を迎えた池田は予想外の大きな飛躍を遂げる。ま

ずはMoMA(ニューヨーク近代美術館)にて、日本人

としては初の個展を開催、その高評覚めやらぬ翌年には、

国際美術展の最高峰と謳われるあのヴェネツィア・ビエ

ンナーレにおいて、何と版画部門グランプリを受賞、日

本人では棟方志功に続いて2度目の獲得となった。一躍

時代の寵児となって凱旋公演を果した池田は、以降も次

々と革新的な版画を発表して行く事になるが、ちなみに

それから現在に到るまでの約半世紀近く、日本人のグラ

ンプリ受賞は皆無のままである。

 70年代、国際的な版画家となった池田はアメリカに

アトリエを構え、飽く事なき制作を続けて40代を迎え

る。この辺りからの展開がまた、常人の思惑を超えて凄

い。42歳で発表した小説「エーゲ海に捧ぐ」が、翌年

驚くべき事に芥川賞を受賞、2年後にはそれを自らが監

督となって映画化し、カンヌ映画祭に出品するという快

挙を成し遂げる。よって40代半ばで帰国する頃は、池

田は美術という範疇を軽やかに超えて、多才なマルチ・

アーティストへと変貌を遂げていた。

 80年代、いよいよその活動の幅は広がり、50歳を

目前にして作陶を開始、その伝統から逸脱した型破りな

陶表現は、今に到るまで賛否の決着が付かない。他、脚

本や書にも意欲的な挑戦をしながら、ブロンズや壁画制

作等の大規模な表現も、池田は果敢に手掛けてゆく。

 そして90年代、その独創的な活動はマス・メディア

にまで及び、美術啓蒙においても大きな貢献を果したが、

郷里に新設された池田満寿夫美術館の開館を前に、惜し

くも心不全で急逝した。享年63歳、決して長くはなか

ったその生涯をあらためて顧みる時、その休みなく走り

続けた飽くなき「表現」への希求に、私は天才というも

のの性(さが)を見る思いがする。たぶん彼は休めなか

ったのだ、たとえそれが命を縮める結果になろうと、安

穏とした休息よりは危険な疾走を選んだ、それがこよな

くピカソを敬愛したという芸術家の、正にピカソ同様ど

うする事も出来ない性向だったのだろう。

 そんな激しく流転した人生の中で、池田が最も心血を

注ぎ、生涯を貫いて挑み続けた表現形態は、結局出発点

の版画に他ならなかった。40年という限られた作家活

動の中で、1000点を優に超える作品を残した事実を

考えてみても、どんなに多様な表現をどう展開したにせ

よ、やはり彼の本質は「版画」にあったのだと思う。

 

 海外の批評家をして「マスター・テクニシャン」と言

わしめた池田満寿夫は、その名の通りあらゆる版画技法

を駆使し、特に多様な技法を誇る銅版画に到っては、時

にドライポイント・ルーレット・メゾチント等の直刻技

法と、エッチング・アクアチント等の腐蝕技法を自在に

併用させるという、驚異的なテクニックを用いた。

 ヴェネツィア・ビエンナーレの受賞後、60年代から

70年代にかけてのアメリカ時代に、池田の版表現は一

つの頂点を迎えるが、当時隆盛したポップアートの洗礼

を受けて、彼はコラージュ技法を多用した、新たな作風

へと歩を進める。良く知られている事だが、池田はコラ

ージュのモチーフを、市井で大量に消費されるグラビア

雑誌や、当時解禁されて巷に氾濫していたポルノ雑誌に

求めた。つまり「芸術」のイメージとはほど遠い、極め

て低級・低俗なメディアに、あえてそのモチーフを求め

た訳だが、そのような雑誌類を好きだったかどうかはさ

ておき、それは彼にとって、れっきとした「方法論」

あった。当時の池田は語っている──私は、消費されて

捨てられるだけの「娼婦」を、「聖女」にしたい──こ

うして数々の傑作が生み出され、池田の手で聖女に変貌

した女性達は、今も作品の中で永遠の女神となって、妖

しい魅力を放ち続けている。

 このコラージュという技法を用いるに当って、池田の

採用したアプローチは、他作家とは全く違うものであっ

た。通常コラージュは「切り抜き」によって成されるの

で、版画に取り入れる場合は、モチーフをそのまま転写

する方法が一般的だが、池田は安易な写真製版は一切使

わず、あくまでも時間のかかる手作業に終始した。しか

も、時には下地作りだけで数週間も要するという、銅版

技法の中で最も手間のかかる「メゾチント」を、あえて

選択し多用しているところに、私は彼の徹底した作家魂

を見る。結局池田満寿夫という芸術家は、時代の最先端

を颯爽と先導しながらも、その根には古典的な手作業へ

の信頼を、終生持ち続けた人であった。

 ただしその反面、彼は手作業の延長としての技巧主義

に陥る事を嫌い、常に技巧の成熟に警戒を怠らない人で

もあった。彼のメゾチント技法は、他の技法と併用して

使われるのが常であったが、70年代中盤に到って遂に

全面に及び、一つの完成された頂点を形成する。しかし、

彼はその極限にまで達した技法をあっさりと捨て去り、

翌年には自由奔放な描線による軽妙な作風へと自らを解

放し、180度の転換を成し遂げている。

 現在「メゾチント作家」と称される一群がいるが、池

田の最も嫌った典型が、このような人種だったと思う。

小さな版面に、動植物や静物等のモチーフを精巧に刻む

その作品は、一見繊細な美しさを湛えて見事ではあるが、

そこには最早いかなるひらめきも無く、沈滞した見せか

けの静けさと、工芸的な保守主義があるだけである。彼

らに比較して、創造と破壊をいさぎよいほどに繰り返し

た池田の生き様は、何と真摯な求道の精神に溢れている

事か。

 更に一点補足をすれば、彼は精巧なメゾチントの版面

そのものにさえ、破壊の手を加える事を厭わなかった感

がある。美しく精妙に刻まれた女性像の上に、彼特有の

引っ掻くようなドライポイントの描線が、何の戸惑いも

なく荒々しく刻まれているのを、私は何度か目撃した。

もしかしたらそれは、メゾチントの版とは違う版上で為

されたものかも知れない。しかし私は思うのである、何

日もかかって息詰まるような思いで彫り上げた版面に、

突然エイッとばかりに、狂ったかのように引っ掻き傷を

入れるぐらいの事は、池田満寿夫ならやりかねないと。

 こんな暴挙とも言える行動は、メゾチントの大家と謳

われる浜口陽三や長谷川潔なら、死んでもやらなかった

事だろうが、それを軽々とやってのけるところに、池田

満寿夫という芸術家の比類なき個性があったのである。

 

 8年ほど前に開催した「池田満寿夫展」の折、お買上

げ頂いたあるご婦人の家に、作品を取り付けに伺った事

があった。仮にAさんと呼ばせて頂くが、当時Aさんは

50代、ご自営の会社を経営しながら海外ボランティア

にも積極的に関わり、辺境の地に学校を開設したりする

ような人で、ご自宅にはいつも多くの留学生が絶えず、

文字通り世界中に知人・友人を持つ国際派である。

 その時Aさんに買って頂いた作品は、池田らしい軽妙

洒脱な銅版画だったが、ある意味大胆な絵とも言えた。

若い裸婦が後ろ向きに横たわっていて、それだけならど

うという事はないのだが、プリンと出したお尻の間から

少しヘアーが見えて、彼ならではの洒落たエロチシズム

が、しなやかに香りたつような作品である。開かれた感

性であれば何の抵抗もない絵だが、中には眉をひそめる

偏狭の堅物もいるだろう、でもそんな奴に限って内心は

嫌らしかったりするのだし、まあ、そんな事はどうでも

いいのだが、いずれにせよそれから数日後、私はAさん

のマンションへ、その絵を取り付けに伺う事になった。

 作品を車に積んで画廊を出る直前に、Aさんから電話

が入った。仕事で帰れなくなってしまった、ついては私

がいなくても家族がいるので、勝手に掛けて来て欲しい

と言う。この時私は少し嫌な予感がしたのだが、そうい

う事情であれば仕方がないので、ご家族の待つマンショ

ンへと向ったのだった。

 部屋に通されると、本当にご家族がいた。90歳を超

えられたというAさんのお母様、会社役員と思われるA

さんの弟さん、そしてAさんのお孫さんらしい小学生の

男の子、それに加えてお手伝いのおばさん達までが、絵

を取り付けに来るという一報がAさんからあったのだろ

う、私を総出で迎えてくれた。

「この度はお世話になりまして…」と一礼し、一家全員

が固唾(かたず)を呑んで注視する中、私はおもむろに

箱から絵を取り出したのだが、この時の心境、お分り頂

けるだろうか。孤立無援──こんな時のための言葉だ。

「池田満寿夫です」と作品を披露した瞬間、一座の空気

が凍り付く音を私は確かに聞いた。しばしの沈黙の後、

最初に口を開いてくれたのは、ご高齢のお母様だった。

「お洒落じゃない」、このひと言で私は、彼女を一遍に

好きになった。その後で、黙って下を向いていた小学生

の男の子が、伏し目のまま「エロ~い」とひと言、会社

役員の弟さんは無言のまま厳格な表情を変えず、お手伝

いさんはその脇で「池田満寿夫が連日タダ飯を食べに来

たせいで、シェフが自殺して潰れた店があるの」等と、

張り倒したくなるような大嘘をささやき合っている。

 面白い事にそんな四面楚歌の中にいたら、次第に度胸

が据わって来て、なに、私だって世界の池田を扱うギャ

ラリストだ、エロチシズムのどこが悪い、芸術は自由な

んだ、矢でも鉄砲でも持って来い、そんな気持ちになっ

て泰然自若、手際も鮮やかに金具を壁に取り付け、おご

そかに作品を掛けて「素晴らしいでしょう」と自讃して

から、意気揚々と引き上げて来た。数日後、画廊に見え

たAさんの言うには「あの子にエッチ、エッチって言わ

れてるのよ、アハハハハ」、私はその呵々大笑を聞きな

がら、なるほど女神というものは、何も池田満寿夫の絵

の中にだけいる訳じゃない、ここにもいるじゃないか、

そう思った。きっと女神は、女神を呼ぶのである。

 

                    (12.11.18)