アカシア (2025)        Acryl / 8F
アカシア (2025)       Acryl / 8F

画廊通信 Vol.266           巧まれた戯画

 

 

VISA Card「カードのご利用が停止されました」

JCB Card「ギフト券30,000円分が当たります!」

Master Card「カードのご利用を制限させて頂きます」

ヤマト運輸「お荷物の配達が出来ませんでした」

野村證券「資産保護のためにセキュリティの確認を」

Amazon「プライム会員資格の更新を解除します」

ANA マイレージクラブ「マイル加算のお知らせです」

NHK「受信料のお支払いの確認が取れておりません」

ETC 「利用照会サービスの重要なお知らせです」

えきねっと「カード連携でポイント2倍!」

××.co.jp「貴方のPCは既にハッキングされています」

国税庁「税金滞納のため、差押え処分を実施します」

 

……といった具合でまだまだ有るのだが、パソコンを開

けると連日のように入って来る、雑多なメールの一部を

挙げてみた。もちろん、悉くが詐欺メールである。カー

ド会社から偽通知が来る程度ならまだ良いとして、天下

の国税庁から脅迫まがいの警告まで戴いた日には、何と

も開いた口が塞がらない。念のため申し上げておくが、

我が家は受信料も払っているし、相も変わらぬ逼迫財政

の中から、何とか税金も捻出し納付して来た、くれぐれ

も誤解なきよう。それにしても、これら次々と湧き出て

来る害虫の如き詐欺集団を、やりたい放題に跳梁跋扈さ

せ、野放しにしている現状を、我々はどう理解したら良

いのか。この低劣を極めるような状況に、いい加減慣れ

てしまったからいいようなものの、ロゴからホームペー

ジのデザインに到るまでを、巧妙に再現する彼等の手口

には舌を巻くばかり、これではネット環境に不慣れな人

などは、その手口に簡単に引っ掛かってしまったとして

も、何の不思議もないだろう。という訳で、今や世情は

玉石混淆を通り越して、善悪までもが混濁してその見分

けが付かない。のみならず、現代はスマホという多分に

中毒性の高いツールを通して、この紛い物の危うい電脳

環境と、無数の人々が常時密接に繋がっている事から、

ふと周囲を見回してみた時、常識的な価値判断基準さえ

極めてあやふやなものに成りつつある現況が、嫌でも目

に付く事が多くなって来た。先日知事選の政見放送を見

ていたら、例の兵庫県知事選を引っ掻き回した挙句に、

今しも千葉県知事選までを攪乱せんとしている某氏の、

下品に喚き散らす姿が放映されていたが、これを見てつ

くづく思わざるを得なかった事は、彼の言動にスマホで

接して我も我もと同調した、多くの人々の「衆愚」とし

か言えない行動である。有り体に言えば私位の年齢層、

つまりは還暦を過ぎて以降の人間であれば、おそらくそ

の相貌や言動を数十秒も見れば、彼が単なるごろつきの

山師である事ぐらいは、当たり前に感じ取る筈だ。それ

が幼少の頃からスマホを与えられ、善悪が混濁したネッ

ト環境に浸り切って成長した人間には、そんな価値判断

の当然の感覚さえもが、発達せずに欠如したままなのか

も知れない。それら多くの未成熟な人々が、新聞等の公

的な論調に一切触れる事もなく、真偽の著しく混乱した

SNSのみで妄断するとどうなるかは、あの関西の知事

選の顛末が如実に示す通りである。だいたい TikTok と

云ったような幼稚なお遊びメディアで、時には一国をも

左右する選挙の候補を判断すると云うのは、それ自体が

まともな社会人の行動とは言えないだろう。さて置き、

有りと有る情報を際限なく混淆する事によって、自ら良

否の区別を消失した電脳環境は、今やパソコンやスマホ

の領域から易々と侵出し、折しも経済界を席巻する新自

由主義と合体しながら、世界のあらゆる価値基準を狂わ

せつつある、これは大仰な物言いに過ぎないだろうか。

 

 さて、この辺りで現在の美術シーンに話を移せば、こ

こもまた御多分に洩れず玉石は混淆し、良否はいよいよ

混濁を極めるばかりだ。その原因の一端は、やはりスマ

ホを舞台としたInstagram等のSNSに有ると思われる

が、これに関しては以前にも書いた事があったので、こ

こでの深入りは避けたいと思う。代わって今回は、美術

シーンにおける価値判断の劣化を物語る一例として、美

術ジャーナリズムに少しだけ触れておきたい。近年一部

の美術誌で「完売作家特集」と云ったような企画が組ま

れ、それが業界やファンの間では好評を博しているらし

いが、端的に言わせてもらえば、実にくだらない企画だ

と思う。書籍が売れないと言われる現況において、それ

が一般の通俗な興味を引き付け、売上アップに繋がる得

策である事は分かるのだが、そもそも芸術において、作

品の「完売」と云った現象に、果たして如何なる意義が

有るのか。表現の内容よりは、作品の売れ行きを価値判

断の基準にして、売れ行きの良い作家こそが優れた画家

であると祭り上げるその考え方は、売れて儲かる物が優

等であり、それによって稼いだ者が勝者であるとする思

考、いわゆる昨今の新自由主義と軌を一にするものだ。

むろん画廊にしても、画家にしても、作品が売れる事は

誠に有り難い事だし、斯く言う私だって、画廊の入口に

「完売御礼」の札を掲げる事は生涯の夢である。しかし

ながら仮にいつの日か、それが実現する日が来たとして

も(来ないだろう)、それはあくまでも一時の商売上の

結果であり、たまたま巡って来た僥倖に過ぎない。よっ

てそれが芸術表現の判断基準になる事は無いし、画家の

優劣の判断材料にもなり得ない、言うまでもない事だ。

 数年ほど前、或る若い画家が訪ねて来た事があった。

まだ20代の女性だったが、新進作家として徐々にその

名前を見る機会が、増えつつある頃だったかと思う。話

の中で、当時美術誌上によく取り上げられていた、アニ

メ風の美人画作家に話題が及び、例によって私がそれを

批判したところ、彼女は「でもあの人は凄い画家です、

完売作家だから……」と云う言い方をした。その口調に

密かな敬意と羨望を認めた時、私は美術ジャーナリズム

が若い作家達に、如何に歪んだ認識を齎し、間違った判

断基準を与えているかを、目前にまざまざと見た思いが

したのだが、そんな低劣な競争へと彼らを煽り立てる風

潮は、その表現をいたずらに惑乱するのみならず、いず

れは画家としての自己を、見失う仕儀へと到らせるだろ

う。その時私は、確かこんな意味の事を、彼女に言った

かと思う──優れた作家の感性は、一般の人よりも先を

ゆくものだ。だから見る人がそこに追い付くには、多少

の時間がかかる。よって展示会においても、直ぐに売れ

る事にはならない。そう考えると「完売作家」と云うの

は、一般大衆とレベルが同じと云う事ではないか。なら

ば貴女は完売しない事に、むしろ誇りを持つべきだ──

たぶん極論ではあれ、曲論ではなかったと思う、分かっ

てもらえたかどうかは、分からないままなのだけれど。

 前回の画廊通信で、小林秀雄「私の人生観」からの抜

粋を掲載したが、ここで再度同書から、その結びを引用

させて頂きたく思う。またか……と食傷気味の方もおら

れようが、この文章が戦後4年しか経ってない頃に書か

れた事を思うと、あらためてその慧眼に驚くのである。

 

思想が混乱して、誰も彼もが迷っていると言われます。

そういう時には、人間らしからぬ行為が合理的な実践力

と見えたり、簡単すぎる観念が信念を語る様に思われた

りする。けれども、ジャアナリズムを過信しますまい。

ジャアナリズムは、屢々現実の文化の、巧まれた一種の

戯画である。思想のモデルを、決して外部に求めまいと

自分自身に誓った人、平和という様な空漠たる観念の為

に働くのではない、働く事が平和なのであり、働く工夫

から生きた平和の思想が生れるのであると確信した人、

そういう風に働いてみて、自分の精通している道こそ、

最も困難な道だと悟った人、そういう人は隠れてはいる

が、到る処にいるに違いない。私は、それを信じます。

 

 試みに、この文章中の「働く」を「描く」に、且つは

「平和」を「芸術」に変換すると、このようになる──

描く事が芸術なのであり、描く工夫から生きた芸術の思

想が生れるのであると確信した人、そういう風に描いて

みて、自分の精通している道こそ最も困難な道だと悟っ

た人、そういう人は隠れてはいるが、到る処にいるに違

いない──こう読み換えた時、正にその一人が「増田泰

子」と云う画家である事を、私は信じて疑わない。いや

はや、前置きが長すぎて、増田さんには申し訳ない事を

したが、前頁に長々と連ねた美術ジャーナリズムには、

全く影響されない歩みを地道に体現されて来た軌跡が、

つまりは増田さんの画業なのだと思う。次々と飽く事な

く繰り出される、俗悪な情報の洪水を尻目に、ひたすら

に自身の表現とのみ向き合って来た、その長い時を経た

成果が、現在の独特の表情を湛える人物像なのである。

そのほとんどは「少女」と呼ばれる年代の女性像なのだ

が、何処の国──と言うのでもない、何時の時代──と

言うのでもない、無国籍的・汎時代的な少女達(所詮は

画家の内奥に生きる存在なのだから、国籍や時代から超

越するのは当然なのだろうけれど)が、止められた時の

中で密やかに息づくその画面は、いつも何処か謎めいた

陰影を醸しつつ、見る者を静かに強く誘って已まない。

 現代の文化一般に顕著と言える「幼稚化現象」を象徴

するかのように、現在特に人気を博しているジャンルの

一つが、少年少女よりも更に年齢を下げた、幼い子供を

モチーフにした絵画である。あどけない男の子、愛らし

い女の子、それらの幼児達が一貫して身に纏うファクタ

ーが、いわゆる「カワイイ」と云うキーワードだ。今や

国際語にもなったその概念の具現として、大概はお目々

パッチリの小綺麗な幼児達が、様々なシチュエーション

で描き出される訳だが、ただ、ここで必然的に発生する

課題は、シチュエーションを案出するにしても、どのみ

ち限界が有ると云う事実だ。言うまでも無く、いわゆる

「アイディア」と呼ばれる抽斗を、無限に持っている作

家など居ないのだから、それらカワイイ系の絵画もまた

同様に、やはり類似したパターンのリピートにならざる

を得ない。カワイイ系に限らず、現代の「売れている」

作家の表現には、アイディアを売り物にした作品が散見

される、私は「子供」で行こう、私は「動物」で行こう、

私は「妖怪物」で行こう、私は「レトロ系」で行こう、

と云った具合に。しかし、最初からそのように「企図」

された表現は必ず行き詰まり、それが深化熟成する事も

有り得ない、そこに自分との対話は無いからだ。所詮表

現とはアイディア勝負ではない、極限すればアイディア

など皆無であっても、優れた表現は成り立つのだから。

 

 右に掲載した増田さんの新作は、見事に可愛い表情で

はありながら、上述したカワイイ系作家とは、明らかに

異なる雰囲気を湛える。おそらくこの絵は、可愛さを企

図して描かれたものではない、長い時間をかけて画面と

向き合う内に、自ずから生まれ出た表情なのだと思う。

独特の清らかな気品を、密やかに放ちながら、その眼は

遥かに霞む何ものかへと、柔らかな夢のように注がれて

いる。このような懐の深い表現は、やはり自分との真摯

な対話を経て、初めて現れるものであろうし、故に近年

世を賑わせる完売作家達には、到底描く事の出来ない表

現と言える。企図やアイディアとは別の次元で、直向き

に自己と向き合う時間から生まれ出たもの、その曇りな

き精神の結晶を、私達は再び目にする事になるだろう。

 

                     (25.03.19)