画廊通信 Vol.265 「彼岸の眼」再論
このところ、数十年前に読んだ本を再読する事が多い
のだが、全く覚えてないような箇所が随所に有って、改
めて忘却の強力な作用に驚く。甚だしくは、新刊の書を
読んでいるとしか思えない時もあって、これも年齢の為
せる業なのだろうか。先日も久しぶりに小林秀雄を読み
返していたら、例によって読んだ記憶が綺麗に失せてい
た故か、新鮮な印象を覚えた一節が有ったので、ここに
少々の抜粋をしてみたい。以下は「私の人生観」から。
美しい自然を眺めてまるで絵のようだと言う、美しい
絵を見てまるで本当のようだと言います。これは私達の
極く普通な感嘆の言葉であるが、私達はわれ知らず、大
変大事な事を言っている様だ。要するに、美は夢ではな
いと言っているのだが、この事を反省してみる人はまこ
とに少ない。それは又こういう事にもなると思う。海が
光ったり、薔薇が咲いたりするのは、誰の目にも一応美
しい、だが、人間と生まれてそんな事が気にかかるとは
一体どうした事なのか。現に、展示会場に絵を並べた画
家は、何十年間も海や薔薇を見て、未だ見足りないと言
う。何という不思議だろう。そういう疑問が、沢山な鑑
賞者のうちの誰の心に本当に起っているだろうか。そう
いうい疑問こそ、絵が一つの精神として諸君に語りかけ
て来る糸口なのであり、絵はそういう糸口を通じて、諸
君に、諸君は未だ一っぺんも海や薔薇を本当には見た事
もないのだ、と断言している筈なのであります。私は美
学という一種の夢を言っているのではない。諸君の眼の
前にある絵は実際には、諸君の知覚の根本的革命を迫っ
ているのである。とすればこれは、驚くべき事実ではな
いのですか。(中略)知覚は認識を構成する一定の要素
でもないし、恰も写真でも撮るように外物が知覚で捉え
られるものでもない。私達が生きる為に、外物に対して
どういう動作をとるかに準じて知覚は現れるのである。
鹿を追う猟師、山を見ずで、猟師は山なぞ知覚していて
は商売にならぬ。成る程鹿は知覚するが、それも狙って
撃つという行動に必要なだけの鹿の形を見るのだ。これ
は対象を見るというより寧ろ、可能的動作の外物への投
影を経験するという事なのである。私達の命は、実在の
真ッ只中にあって生きている。全実在は疑いもなく私達
の直接経験の世界に与えられている筈なのであるが、そ
の様な豊富な直接経験の世界に堪える為には、格別な努
力が必要なのであり、普通私達は日常生活の要求に応じ
て、この経験を極度に制限しているのだ。見たくないも
のは見ないし、感じる必要のないものは感じやしない。
つまり可能的行為の図式が上手に出来上るという事が、
知覚が明瞭化するという事である。こういう図式の制限
から解放されようと、ひたすら見る為に見ようと努める
画家が、何か驚くべきものを見るとしても不思議はある
まい。彼の努力は、全実在が与えられている本源の経験
の回復にあるので、そこで知覚は真に解放されるのだ。
周囲を見回せば、未だに「絵を読み解く」「絵画の謎
を解く」云々といった書物が宣伝欄に載り、書店にも平
積みされていたりする。まあ、色々な見方はあって然る
べきとしても、一つ踏まえておいたほうがいいと思われ
る大前提は、絵はあくまでも絵であって、読むべき書物
でもなければ、解くべき数理でもないという事、まして
や謎解きの推理問題と同視するなど以ての外、そんなに
謎を解きたければ、エラリー・クイーンの一冊でも読ん
だ方が余程面白いだろうし、それでも物足りなければ、
数学の難問にでも挑んでみてはどうか。絵の題材が何を
意味するとか、誰々のモデルは誰だったとか、その誰に
は誰にも言えない過去があって、それを画家は暗号化し
て絵の中に秘めたとか、X線を当ててみたら更なる重大
な秘密が浮かび上がったとか、定説ではヨハネとされて
いた人物が、修復してみたらマグダラのマリアだったと
か、いずれにせよそんな類いばかりで、下手な探偵小説
にもならないような、拍子抜けするようなものがほとん
どだ。絵の場合、探偵小説やミステリーとは違って、解
ける程度の謎に大したものはない。極言すれば、絵画に
謎は無い、絵画が謎なのだ。ならばそれが「見る」もの
である限り、絵の謎は「見る」という行為の先にあるだ
ろう。見るほどに滲み出す不可思議なもの、見るほどに
深まる尽きない魅力、そのような、絵が自ずから身に纏
う解き得ないものこそ真の謎であり、同時にそれは描い
た作家からの、言葉にならないメッセージなのである。
前頁で小林秀雄の語っていた事も、そのような絵画自
体の持つ不思議であり、なかんずくはそれを描く画家の
不思議である。文中で著者は「知覚」という言葉を用い
ているが、絵画に特化すれば即ち「視覚」であり、正に
この画家の視覚こそが、絵画における真の不思議ではな
いか、と著者は語りかけているのだ。事実、この視覚の
不可思議に比べたら、一般に言われる絵画の謎などと言
うものは、取るに足らない瑣事瑣末に過ぎないだろう。
小林秀雄に言わせれば、画家は私達には見えない「何か
驚くべきもの」を見ているのであり、その驚くべきもの
を再現したとも言える絵画作品は、見る者の知覚に根本
的革命を迫るほどの威力を持つのである。という訳で、
この辺りでやっと本題に入らせて頂くが、そんな絵画に
おける不思議の道理を、最も端的にそして明瞭に表わす
のが、我らが中西さんの描き出す世界である。この事に
ついては、今までにもこの場を借りて、何度も記して来
た事なので、長くお付き合い頂いている皆様には、あま
り新味のない話かも知れないが、しかしながら中西和と
いう画家を語るに当たっては、これは特筆してもし過ぎ
る事のない要点であろうから、今一度この場で触れさせ
て頂きたく思う。過去の拙稿をひっくり返していたら、
その辺りを概括した箇所が有ったので、その部分を再度
引いておきたい。以下は、2019年の画廊通信から。
ご存知のように中西さんは、身辺のあらゆるものをモ
チーフにする画家である。常々目にしているような野菜
やら果物やら、道端に人知れず咲いている野の花やら、
或いはその辺りの草叢や雑木、果ては通常なら描こうと
も思わないだろう取るに足らない物品まで、そのモチー
フは驚くほど多岐に亘る。実際これまでの個展の中で、
何度驚かされ瞠目させられた事か。一束の素麺、一本の
鰹節、一本の独活、一本の長葱、一椀の粥、一個の毛糸
玉、一巻の蚊取り線香、まだまだ有るけれど、これらの
一つでもいい、この凡そモチーフにもならないモチーフ
に、真摯に向き合って描こうとした画家が、果してどれ
ほど居るだろうか。しかしながら、その描かれた姿容を
目にした時、見る人はこの世に「取るに足らない」物な
ど無い事を、むしろ私達が「取るに足らない」見方をし
ていたに過ぎない事を、澄み渡る気韻の中に悟るのであ
る。斯様にそこには、独創的な「物の見方」があった。
そんな曇りなき白紙の眼差しで眺めれば、遍く世界は驚
くような存在の美に満ちているのだと思う。そこでは一
束の素麺が清々とした気品を放ち、一本の独活が朴訥と
した尊厳を湛え、一巻の蚊取り線香が幽玄の情趣を燻ら
せている。(中略)そんな中西さん特有の眼差しを、仮
に「彼岸の眼」と呼ぶ事は可能だろうか。ただしここで
言う「彼岸」とは、一般に言う「あの世」といった意味
ではない。私達の生きる日常を「此岸」とした場合の、
対義語としての概念である。加えて言うなら、この「彼
岸の目」こそが、中西さんを他作家と隔て、類例のない
世界を成立させている、最も大きな要因なのだと思う。
辞典を紐解くと「彼岸」はこう出ている──「迷いを脱
し、生死を超越した世界。解脱・涅槃の境涯」。何しろ
いつも迷妄の渦中に在って、それが常態化している身と
しては、この煩悩渦巻く六道の巷は、慣れ親しんだ泥沼
のようなものだ。故に「泥中の蓮華」の故事を思い起こ
せば、さながら「彼岸」とは、暗い泥沼から見上げる白
蓮のようなものだろうから、それはとても凡人には手の
届かない高みに在って、遥かな蒼穹の中に咲き香ってい
る。それが私達の彼岸を望む視点なのだとすれば、中西
さんはこの同じ蓮華を、たぶん私達とは反対の宙空から
見下ろしているとは言えまいか。するとあの清らかな白
蓮は、やはり泥沼の中に見える。即ち、彼岸とはこの煩
悩の巷と住処を同じくするものであり、換言すれば、彼
岸は此岸の只中に在ると言えるのだろう。だから中西さ
んの眼差しは、此岸=日常のあらゆる物に注がれる。そ
れは決して崇高な形而上へと向うのではなく、生活の周
囲を形成する極めて日常的な、いわゆる「取るに足らな
い」物へと注がれるのである。それら改めて目を止めら
れる事さえないような、誠に凡々たる題材に画家の目が
注がれ、一枚の絵としてこの世に蘇った時、それらは何
と奥深い尊貴の情趣を、その身に湛えていた事だろう。
眼差しを変えるというその事だけで、周囲のありふれた
日常は、寂静の気韻を放ち始めるのである。斯様にして
彼岸とは、凡夫の辿り着けない遼遠の浄土に在るのでは
ない、その辺に打ち捨てられた空き地の、貧しい草叢に
こそ在るのだという哲理を、私は中西さんの絵に教わっ
た。前頁に「彼岸の眼」と呼ばせて頂いた所以である。
抜粋が長くなった。手前味噌ながらこの「彼岸の眼」
という呼称は、誠に的確な命名だと思う。何十年か後に
「日本の美術─平成・令和編」といった全集が刊行され
たとして、当然そこには「中西和」という巻も入るだろ
うから、その巻末の解説欄を開いたとしよう。おそらく
そこには「彼岸の眼」というタイトルが、当然の如くに
冠されている筈だ。今から言っておくが、それを考えた
のはこの私である。まあ、それはどうでもいいとして、
上掲は今回の出品作中の一点で、「石に日のいる」とい
うタイトルの下に「蕪村 蕭条として石に日のいる枯野
かな」というメモが添えてあった。冬の枯野に弱い日差
しが落ちている。蕭条とは「ひっそりとして物寂しい」
の意であるから、この句は深い静けさの中に、寂寥の心
情を湛えて尽きないのだが、中西さんの描いた枯野には
不思議とそのような哀感は感じられない。それよりは寧
ろ、蕭条や寂寥といった情趣が綺麗に抜け落ちた後の、
澄み渡るような安寧がある。この絵の安らかな佇まいを
見ていると、私達の中で絶え間なく明滅する、喜怒哀楽
といった感情でさえ、一種の迷いに過ぎなかったかのよ
うに思われてしまう。これが即ち「彼岸の眼」であり、
名句もその眼差しで見れば、このような世界になるのだ
ろう。片や、変わらず此岸の虜囚である私は、今日も絵
の前で「ああ、こんな所で死ねたらいい」なぞと呟いて
いる。枯野にはただ、柔らかな寂光が落ちるばかりだ。
(25.02.21)