画廊通信 Vol.263 月影の下で
「安元亮祐」という名前を聞くと、私はいつも月の光を思う。人物・動物・静物・風景等、描かれるモチーフは多岐に亘るが、何を描こうともそこには、常に澄み渡るような月影が落ちている。逆に言えば、安元さんの世界そのものが、月の光が生み出した幻影なのだ、という見方も出来るのだけれど、それにしては登場する種々のモチーフは、幻の淡いイメージとは程遠い、確固とした手
触りを持って描き出される。むろんその世界が、架空で
あり虚構である事に間違いはないにせよ、一旦それが絵
画という明確な形を取れば、そこにはやはり或る種のリ
アリティーが宿る、言うなればそれは画家自身のリアリ
ティーが、現実よりは虚構の側を在処とする故だろう。
作品を見れば直ぐにも分かるように、安元さんの内な
る世界では、描かれる全てが等価である。それが人物で
あれ、動物であれ、植物であれ、建物であれ、有りと有
るモチーフが同じ質量と密度で描き出され、そこには如
何なる上下も無い。もう一点、顕著な特色を挙げるとす
れば、登場するキャラクターの全てが、固有の物語を纏
う事だ。そのユニークな姿容を見ているだけでも、様々
なイメージが脳裏に湧き上がるのだが、そこに画家特有
のタイトルを添える事で、取り留めのない心象は物語と
なって動き始める。試みに、過去の画集からタイトルを
拾い出してみると──白い訪問者、やさしい別れ、知り
すぎた鳥、詩人からの手紙、風を占う、伝説の奇術師、
月を呼ぶ猫、海の箱、旅芸人の記録、遠い約束、星の降
る日、夜明けのリハーサル、風の番人、月が赤い時、人
形のめざめ、夜の操り、道化の日、黒いギャンブラー、
風の遊園地、黄昏ののらねこ、Y氏のメモワール……と
いった具合、拾えばまだまだ有るのだけれど、切りが無
いので已めておくとして、これらの詩的なタイトルが絵
画と相俟って、そこからは固有の物語が生き生きと立ち
上がるのである。そしていつしか見る者も、物語の中に
生きる時、そこはもはや虚構ではない、画家の内なる世
界は見る者の内奥に、確かな手触りで顕現するだろう。
以前にも引いた事のある文章だが、そのような安元さ
ん特有の世界を、極めて適切に述べた一文が有るので、
あらためてここに掲載させて頂こうと思う。以下は故・
松永伍一(詩・評論)の「純粋な音がきこえる」から。
安元さんの絵を見せられたとき「うらやましいな」
と思いました。画家に対する詩人の嫉妬だったのかも
しれません。安元さんは、夢の世界を伸びやかに描い
ていて、何の気負いもなくあたりを散策しています。
そこいら中を歩きまわっても疲れる様子もなく、無心
の少年のように足どりも軽く、星の光とそっくりの澄
んだ目で風景と向き合っています。
安元さんは、見えるものすべてを歌わせる、シンフ
ォニーのコンダクターです。しーんと静まりかえった
あたりの空気が光を呼んで、光は何の計らいもなく空
気を聖化していきます。物も街も木々も人間も犬も、
みんなが素直な光によって安らぎ、あらゆるものが馴
染み合い、共生し合い、さまざまな対立関係にあった
ことが、まるで嘘のように融合していくのです。安元
さんは、それらのすべてが息づいてきた時間の流れを
止めたのです。それなら、時間は無くなったのでしょ
うか。そんなことはありません。俗の中を縫ってきた
汚れた時間が光によって聖化され、そこに永遠という
得難い時間がよみがえったのです。コンダクターはそ
のとき、神のような魔術師に昇格していました。
耳を澄ましてください。ほら、静まりかえった風景
の中から音がきこえるでしょう。永遠という時間だけ
が産み出す、純粋な音です。ここでは絵が詩になって
おり、文字のない詩は純粋な音を、観る人の魂に届け
てくれます。私は、安元さんの描く聖化された虚構に
はげしく嫉妬します。健康体に奢っている人間の愚か
さが、つくづく恥ずかしくなります。あれもできる、
これもできるという我侭は、実は何一つ発見していな
いということです。あらゆる音を耳にしているのに、
永遠が放つ純粋な音を、聞き取れずにいるじゃありま
せんか。俗世の苦味にいよいよ耐え難くなったとき、
私は安元さんの描く夢の世界を散策し、あの澄んだ音
をききたいと思うのです。
今年の不忍画廊における個展パンフレットに、誠に簡
潔なプロフィールが掲載されていたので、ご参考までに
一部を抜粋すると── ”YASUMOTO GRAY” と呼ばれ
る色彩で、詩的世界を展開しながら進化を続けるアーテ
ィスト。幼少期の発熱で聴覚を失うが、美術館で観た松
本竣介に感動し「音のない世界は雑音も聞こえない」と
画家を志す──こんな紹介文だったが、この「松本竣介
が画家を目指す契機となった」という話は、安元さんの
世界を考える上で極めて示唆的である。周知のように、
松本竣介もまた聴覚の無い画家であるから、その意味で
も安元少年はシンパシーを感じたのかも知れないが、あ
らためて若年より現在に到るその長い画業を顧みる時、
竣介の影響が単なる共感や憧憬には留まらない、より直
接的なものであったように思えるのだが、どうだろう。
履歴を見ると松本竣介は、1940年(28歳)に初
個展を開催して ’48年(36歳)には死去しているか
ら、画家としての活動歴は10年に満たない。言うまで
もなくその間には、約4年に亘る大戦が挟まるので、昭
和の最も困難な時期が、そのまま竣介の活動期だった事
になる。しかし、世の動乱など物ともしないが如く、竣
介は常に新たな表現を模索して、その都度にスタイルも
変遷させてゆくが、さて、安元さんの源泉はどの辺りの
作風にあるのだろう、と思いを巡らしつつ図録を辿って
みると、あくまでも私見の域を出ない推測ではあるが、
初期の「都会」や「街にて」に代表される、街景と人物
による構成を追求した連作期と、その後に続く「Y市の
橋」や「ニコライ堂」といった、良く知られた寡黙な風
景連作期の二期が、最も影響の有った時期として挙げら
れるのではないかと思う。ちなみに美術ジャーナリズム
では、ちょうどその二期に挟まるようにして制作された
「画家の像」や「立てる像」といった自画像を、竣介の
代表作として挙げる向きが多いようだが、果たしてそう
だろうか。同時期に竣介は美術誌「みずゑ」に、当時の
翼賛体制への批判を寄稿している事から、おそらくこの
辺りの作品は「強い反戦の意思を胸に、竣介は凛々しい
抵抗の姿を描いたのだ」という美談を作り易い事から、
画家の生涯を語る上で、格好の題材になって来たのだと
思われる。しかし、作品自体を純粋な芸術表現として見
た場合、それらは本来の「松本竣介」という個性とは程
遠いものであり、言うなれば芸術表現に何らかの思想や
プロパガンダを紛れ込ませた時、それが如何に硬直した
詰まらない表現に堕してしまうか、私にはそんな芸術上
の大原則が、如実に具現化された事例としか思えない。
さておき、右に2点の作品を挙げてみたので、見比べ
て頂きたい。上は松本竣介「建物と人」、街景と人物を
構成した連作の中でも、最初期の作品である。下(ここ
では「REVIEW」のページに掲載)は安元亮祐「灰色の
風の中で」、画家30代前半の秀作だが、この50年ほ
どを隔てて制作された両者に、共通して響き合う同じフ
ァクターを見出すのは、私だけだろうか。
以下、共通する要素を3点ほど述べてみたい。一つに
は、いずれも「街」を舞台としている事、竣介には同じ
風景画でも自然や田園に取材したものは極めて少なく、
人物画を除いた作品の多くは、建物や橋梁・運河といっ
た都市の風物を題材としたものである。言わずもがな、
これは安元さんの世界にも共通するファクターで、数々
の資料に当たってみても、自然の風物よりは建物や街路
を舞台とした作品が、圧倒的に多数を占める事から、間
違いなく両者は共に、人が不在である自然風景よりは、
人が存在する人為の風景を好む、街の画家なのである。
2点目として、煌びやかな整然たる街景よりは、風雨
に朽ちたような古い街景を、好んで題材とする事が挙げ
られる。竣介の場合は、先述した「Y市の橋」や「ニコ
ライ堂」に代表される連作にそれは顕著で、そのほとん
どは華やかさとは凡そ無縁の、蕭条たる寂れた風景であ
る。古色の情趣という点では安元さんもまた同様で、時
に浸蝕された西欧の集落を彷彿とさせるような建物は、
数あるモチーフの中でも、重要な位置を占めるものだ。
そして3点目、それは背景の空である。竣介の作品を
全て見た訳ではないにせよ、一目瞭然、そこに「晴れ渡
る青空」といった設定は皆無に近い。その多くは鈍色や
錆色に曇る陰鬱な空で、敢えて時刻や季節を感じさせな
い表現をしているが、これはやはり安元さんにも顕著な
傾向性で、ご本人の「雨が降りそうな色は好きだが、真
っ青な空は生理的に合わない」との弁も有るように、そ
の作品に青空の描かれる事は、まず無いと言って良い。
以上、両者の共通点をざっと挙げてみたが、安元さん
はむろんそれらのファクターを、単なる影響に留める事
なく独自の作風へと変容させ、類例のない表現へと進化
させている。即ち、1点目の「街を舞台とする」という
共通項は、竣介が作品タイトルにも有るように「都会」
を舞台としたのに対し、安元さんの描く街は無国籍的で
はありながら、どこか西欧の辺境を思わせる小さな街並
みへと、その佇まいを変えている。2点目の「古色」に
関しては、竣介のそれが後年の「Y市の橋」といったシ
リーズに極まるように、索漠とした硬質の情趣を湛える
のに対し、安元さんは初期の俊介が持っていた柔らかな
ファンタジーを、より自由に拡大する方向へとその色合
いを変え、結果的に同じ古色傾向を持ちながらも、全く
異なる空気感を生み出すに到っている。そして3点目、
安元さんは竣介が描かなかった青空を反転し、夜の空へ
と変えた。よってそこにはいつも月が掛かり、場合によ
っては描かれずともそれは暗示され、街並みはその透徹
した蒼い月影の下で、不可思議な陰影をその膚に宿す。
こうして画家特有の朝の来ない街に、いつしか謎めいた
虚構の香気が満ちて、誰知らぬ物語が始まるのである。
先日、安元さんの窓口である不忍画廊から、数点の新
作画像が届いた。さてどの作品を案内状に使うべきか、
いつも迷うところなのだが、今回は或る一点の画像に、
目が惹き付けられるようであった。「鎧を着た猫」とい
う作品で、画面一杯に大きな猫が描かれ、遥か遠くへと
想いを馳せている。その立ち姿が、よく眠りから覚めた
時などにおもむろに立ち上がり、思い切り四肢を突っ張
らかして伸びをする、あの猫特有のポーズを思わせるよ
うで、そんな連想を暫し巡らしていたら、猫が伸びをし
たまま段々と膨らみ出した。やがてそれは、天空を満た
すまでに膨張したかと思いきや、徐々にその輪郭を無く
してゆるゆると宙空に溶け去り、その後に怪しげな光を
放つオレンジ色の月が掛かった。いつの間にその下には
異国の街並みが広がり、風雨に晒されたような石造りの
壁には、月影が柔らかな郷愁の陰影を落としている。気
が付けば街角には人々が集い、魅惑の無言劇が密やかに
幕を開けたようだ。ここは安元さんの内なる劇場、有り
と有る存在は月に憑かれて、蒼い幻想の街路を軽やかに
浮遊する……。ふと我に返った時、よもや個展のタイト
ルは、これしか有るまいと思えた──猫の膨らむ夜に。
(24.12.17)