旅の窓 (流民) -部分-    混合技法 / 3F
旅の窓 (流民) -部分-    混合技法 / 3F

画廊通信 Vol.262       寄り添える天使の如く

 

 

「モノクローム」という言葉は、通常白から黒へと到るグラデーション、いわゆるグレースケールによって作られた画像を指す。色相・彩度・明度という三属性の観点では、色相を持たず彩度はゼロ、よって明度のみで表される事から「無彩色」と呼称される。また、物理的に捉えるのなら、黒は全ての可視光線を吸収し、白は反対に全てを反射するという性質を持ち、その吸収から反射へと到る階調のみでスケールが成立する事から、特定の波長によって齎される色感覚とは全く関係しない。つまり

色彩学的にも物理学的にも、モノクロームは「色」の範

疇には属さない概念と言える訳だが、一方で「混色」と

いう観点からそれを捉え直した時、グレースケールの両

端である白と黒は、上記とは全く違った側面を見せる。

そもそも、色には「光源色=光自体の色」と「物体色=

光が物体に当たって生じる色」の二種がある訳だが、周

知のように前者の三原色(レッド・グリーン・ブルー)

を混合すると「白」になり、後者の三原色(シアン・マ

ゼンタ・イエロー)を混合すると「黒」になる。三原色

が、言わば全ての色彩の素因数である事を考えると、光

学的には無彩色であった筈の「白」も「黒」も、実はあ

らゆる色彩を内包した混合色であり、ならばその間に明

度の階調を形成するグレースケールにも、あらゆる色彩

が含有されるだろう事が推論される。換言すれば一見は

色彩が消去された表層の下に、有りと有る色彩を孕んだ

深層が横たわる事になり、ここに「無彩色」であると同

時に「有彩色」でもあるという相反する二つの側面が、

モノクローム表現の特性として導き出されるのである。

 

 先日舟山さんから新作の収納された梱包が届き、開い

た後に一見して驚いた点は、そのほとんどが白と黒の対

比をクッキリと際立たせた、斬新なモノクローム表現で

あった事だ。次回の制作は、あまり色を使わない表現に

なるかも……というご本人の意向は、確かに以前から聞

いてはいたのだが、ここまで徹底したモノクロームへの

挑戦は、正直予想だにしていなかった。むろん諸処に鮮

やかな差し色が、効果的に配される事は有るにしても、

ベースが極めて鋭利なモノクローム表現である事は、全

ての作品に共通する要点だ。言うまでもなくそのテーマ

は、画家が生涯を通して描き続けて来た、あの天幕の下

の別世界「サーカス」である。この一貫して揺るがない

テーマを通して、舟山さんは正に今日この日まで、有り

と有る表現に挑み続けて来た。ある時は出品作品の全て

が「人物」であったし、反対に「風景」のみに主題を絞

られた展示もあった、またある時はラインアップに「静

物」の並ぶ時もあれば、様々な「動物」がその姿を垣間

見せる事もあった。そしてそれらが、毎回新たな傾向の

色彩と技法で描き出されて、玲瓏の光彩が緻密に煌めく

事もあれば、巧みなコラージュが部分を飾る事もあり、

時には勢いの良い筆跡が縦横に飛翔して、荒々しい情念

が画面を吹き荒れる事もあった。場合によっては人物の

衣装等に、華麗な色彩が鏤められる事は有ったにせよ、

元来は極力に色数を抑えた表現が舟山さんの持ち味であ

り、近年はそんな本来の傾向がいよいよ顕著になって、

渋く抑制された深みのある色使いが、出品の大半を占め

るようになっていた。その更なる延長として今回の新作

が有るのだとすれば、黒と白の大胆に際立つかつてない

作風は、むしろ舟山さんの続けられて来た飽く事なき挑

戦の、必然的な帰結と言っても過言では無いのだろう。

 

 先段にて、モノクロームに「無彩色的側面」と「有彩

色的側面」の二種が有る事を述べたが、さて舟山さんの

モノクローム表現は、そのいずれになるのだろうか。考

察に当たっての一例として、今回の作風を最も顕著に表

す「旅の窓(流民)」と題された作品を挙げてみたい。

画家独自の混合技法によるF3号、道化師と思しき若者

が窓に凭れて、何を想うのか虚ろに放心している図だ。

塗り後の凹凸を残す漆黒の地と、その面を幾何学的に区

切る窓の白枠、道化師の帽子を飾る菱形模様、羽織った

衣装の襟周り、それらの全てが明確な白と黒のみで描か

れ、顔だけが柔らかいグレーの明暗で表現されている。

目を凝らせば、濃淡の狭間に淡いモスグリーンが見え隠

れするが、それも最小限に押さえられているので、決し

て目立たない範囲だ。よって一見するところ、モノクロ

ームと言っても差し支えないレベルに在るのだが、おそ

らくこの絵を見て単なる「無彩色」と感じる人は、極め

て少ないのではないだろうか。それが、僅かに滲む差し

色が他の色彩を誘発する故か、或いは黒地から浮き出る

グレーの階調が微かに色彩を暗示する故か、反対に背景

の黒が独特の凹凸と相俟って、示唆に富む多様な表情を

喚起する故か、見る者に齎されるそこはかとない色彩感

覚の要因は、結局のところ「分からない」としか言いよ

うが無いのだが、こうして作品を実見しつつ確言できる

事は、舟山さんの描き出すモノクローム表現が、紛れも

ない「有彩色的側面」を、自ずから具現するという事実

だ。繰り返すようだが、この物理的には有り得ない心理

現象を、どう理由づけてどう解釈するのかは、もはや私

のリテラシーを超えた範疇にある。だから、せめてその

アナロジーぐらいは語れないものかと考えあぐねていた

ら、不意に或る映画が脳裏に浮かんだ。たまたま先日、

何十年振りかに見返した古い作品である。脇道に逸れる

が、過去に観られた方も少なくないと思われる故、以下

でそれを巡る余談に、少々お付き合い願えればと思う。

 

「ベルリン・天使の詩」──1987年に公開され、同

年のカンヌ国際映画祭において、最優秀監督賞を受賞し

た名作である。監督はヴィム・ヴェンダース、まだ壁に

分断されていた頃のベルリンを舞台に、人間を愛してし

まった天使の運命を綴るファンタジーなのだが、主人公

の天使は通常のイメージとは掛け離れて、物静かな中年

男性の姿に設定されている。むろん天使に寿命という概

念は無いので、何千年もの歳月を人間と共に過ごして来

た訳だが、それでは人に何を成し得るのかと言えば、彼

に出来る事はただ人に「寄り添う」事のみ、よって悲哀

や絶望に沈む多くの人々に、一切の救済を成し得ない。

その上目に見えない存在なので、結局人間にとっては居

ても居なくても同じであり、これはそのまま現実にも当

て嵌まる事だから、その哲学的もしくは宗教的な解釈は

様々に可能だろうけれど、それはさて置くとして、ある

日天使はサーカス小屋で、空中ブランコを巧みに操る若

い女性に巡り会う。ちなみに裏寂れたサーカス小屋と言

い、おどけた衣装の曲芸師や道化師と言い、宙空を舞う

美しいブランコ乗りと言い、そこは正に舟山さんの舞台

とも言える場所なのだが、そこで団員達の生活と心情に

寄り添う日々を通して、天使はブランコ乗りの女性に、

いつしか有るまじき恋をする。やがて彼は長い思案の末

に、天使という見者を辞めて人間界に降り、いずれは死

に到る生身の人間となって、愛する者と共に生きるとい

う決断を選択する──というのが、荒涼と巡らされた冷

たい壁の内側で展開する、麗しき幻想譚の概要である。

 

 示唆に富んだ奥深い物語と共に、観る者に忘れ難い印

象を残すのが、そのユニークな映像表現だ。ヴェンダー

スはフィルムの編集に当たり、天使の視点で見る世界は

モノクロームで、人間の視点で見る世界は逆にカラーで

表すという、誠に心憎い仕掛けを施した。それゆえ、始

まって暫くは天使の視線なので、陰鬱なモノクローム映

像が続くのだが、ある場面で視点が移動した一瞬、不意

に画面が鮮やかなカラー映像に変わり、それが観る者に

鮮烈なインパクトを齎す。以降もモノクロームをベース

として、時折視点の交替と共に、短いカラー映像を交え

つつ物語は進展するのだが、後半天使が人間界に降り立

った時点で、視点は人間の側に移る事から、冒頭とは対

照的なカラー映像で、映画の終盤は彩られている。この

ような映像体験の後に、改めてこの映画におけるモノク

ローム映像を顧みる時、それが次第にグレースケールに

よる無彩色の映像から、その直下に潜むだろう豊かな色

彩を、そこはかとなく喚起する映像へと、見え方が大き

く転換されていた事に気付く。おそらくそれは映画の中

に、しばしばサブリミナルの如くに挿入されるカラー映

像が、モノクローム自体の内在する有彩色的側面を、誘

発する事によって起こる効果なのだろうが、結果的にこ

の映画はモノクロームの場面でさえも、観る者はそこに

鮮やかな色彩の内在を感じてしまうという、見事な視覚

のマジックを具現するのである。思うにこれはヴェンダ

ース監督が、カラー表現が当然となった時代に敢えて仕

掛けた、モノクロームの静かなる反逆だったのだろう。

 

 脇道が長くなった。絵画に話を戻せば、舟山さんの新

たなモノクローム表現から受ける感覚は、上述したモノ

クローム映像から受ける感覚と、正に共通するものとし

て響き合う。前頁に記した通り、今回の新作における表

現は、所所で僅かに入る色彩が、鮮やかな効果を生み出

しているのも確かだが、全てのベースとなっている根幹

の手法は、やはり黒と白が大胆に際立つモノクロームで

ある。しかもそれを、鉛筆や墨といったそもそもが無色

の画材ではなく、敢えて豊富な色数を誇る油彩とアクリ

ルで成したという事実は、ヴェンダースがカラー映像の

時代に向けて仕掛けた挑戦と、正しく軌を一にする行為

と言えるだろう。再度申し上げれば、両者の表現が物理

的にモノクロームである事は確かだ、しかしそれを見る

私達は物理的な事実に関わりなく、そこに豊潤な色彩の

確かな潜在を感じ取る。それが果たして視覚的な幻影な

のか、或いは心理的な錯覚なのかは知らないが、いずれ

にせよ観る者は、知らず知らずの内に作者の術中に嵌ま

り、その見事なマジックに陶然と魅せられるのである。 

優れたモノクローム表現には、二種のタイプが有ると思

う。一つは見る者に「色彩の概念」を忘却させる表現、

もう一つは見る者に「色彩の不在」を忘却させる表現、

舟山さんは言うまでもなく後者の画家だろう。色数を極

限まで減らした帰結として、今回のモノクローム表現が

有るのなら、画家は決して色彩を排除した訳ではない、

色彩を究極まで凝縮したその果てに、そこに無い筈の色

を有り有りと喚起させるという、困難な離れ業をここに

成し得た、今回の新作群はその紛れもない証左である。

 

 ヴェンダースの演出に倣うのなら、舟山さんのモノク

ローム絵画は、天使の視点で描かれている。ならばその

漆黒の中に、見えない姿で人間に寄り添う天使が、ひっ

そりと隠れている筈だ。きっと彼は長く遥かな歳月を、

描かれた人物と、延いてはその絵画と共に生きて来た。

決して描かれる事は無いけれど、常に寄り添って来た存

在──思うにそれは、そのまま作家自身の姿と重ならな

いだろうか。画家としての天使、そして天使としての画

家、ヴェンダースならこの類い稀なる絵画の作者を、そ

のように解するだろう。これ以上の推論は舟山さんも居

心地が悪いだろうから、この辺りで已めておくとして、

最後に補足の一言を。ベルリンの天使達は、寄り添うだ

けの無力な存在であったが、絵画における天使は然に非

ず、視点を人間=見る者の側に移した時、そこに人は限

りなく豊かな、尽きる事の無い光彩を見出すのだから。

 

                     (24.11.24)