画廊通信 Vol.260 虹の言葉
20年近くも前の事、私は浅草橋のとある裏路地に、小さなネオン管で「IPSYLON」と書かれた文字を青く灯す、怪しげな古いビルを登った一室で、人知れず秘密のように開かれている、小林さんの個展に赴いた。真っ暗なメイン会場には、諸処に小林さんの育てた大きな結晶体が展示され、正面に設置されたスクリーンには「O4 [somnium]─夢という奇蹟─」と題されたフィル
ム作品が、切れ目のないループで上映されていた。気圏
外に漂う不思議な結晶性の気体が、ある夜透明な隕石と
なって地上に降り注ぎ、人の心に夢という奇蹟を齎すと
いう、幻想的な惑星現象の物語、バックには小林さんの
作曲した神秘的なスペース・ミュージックが、懐かしい
銀河のように流れている。都会の片隅に突如出現した異
空間を、暫しの間ゆったりと揺蕩いながら、折しも純白
に煌めく無数の薄片が、雪のように絶え間なく降りしき
る画面の前で、私はこの小林さんの宇宙に抱かれた一時
を、決して忘れないだろうと思った。以下は個展パンフ
レットに添えられていた、作家自身のコメントである。
[somnium]とは物質の一種でありながら、全く物性を
持たないという矛盾律も兼ね備えています。分子式では
O4で表される酸素の同素体で、O2である酸素が紫外線
の影響によってO3 (Ozone) となるように、そのオゾン
より特異点的変化によって生成されるのです。気体であ
りながら結晶性であり、そのもの自体は大気よりも希薄
であり、地球の遥か上方を薄氷のように、あるいは消え
かかる寸前のしゃぼん玉のように漂っています。オゾン
よりソムニュームへの移行過程で重要な作用を及ぼすの
が、生命体による精神的影響であります。ですからソム
ニュームは、生命現象の存在している天体上に発生する
のです。近頃、ソムニュームにおける気晶は銀河の内に
16以上発見されていることから、その数に準じた有意
識生命現象が存在し得ると考えられます。およそ最大6
nm(ナノメートル)のソムニューム気晶層は気圏外に存在
するために、大気等の影響を受けずに成長しますが、夜
の天体における紫外線の減少による変成作用によって、
一部が分解され地上に放射されていると考えられます。
また、それらは流星群などによっても細粒となり、透明
隕石として降り注ぎ、人体を通過するときにそれぞれの
ないはずの記憶までを再生させるのです。私たちは時折
風景の中で、突然知らない景色や思い出と巡り合うこと
があります。それらはまるでキレギレとなって舞う雲の
ように、あるいは花より出でくる香や知らない言葉、出
会うはずの誰かへの切ない気持ちのように、心の中でゆ
っくりと再生されるのです。とりわけ大気上方の世界が
流星群と出会った夜など、多くの人の心の中にそれらは
現れることもあり、それが自身の体験とは由来なき上方
よりもたらされた、夢という一つの奇蹟となるのです。
初めは科学的な説明文かと思いきや、いつしか美しい
詩的散文へと変容してゆくこの印象的な解説は、あくま
で件の映像作品に寄せられたものなので、よって今回の
展示とは直接の関係は無いのだが、こうして全文を引用
させて頂いたその所以は、小林さんの驚くほど多岐に亘
る表現の奥底に、あたかも持続低音のように流れる独特
の空気感、その顕著な例がここに見られるからである。
何と言ったら良いのだろう、青く透き通るような未知へ
の憧憬、見えざる何かへの柔らかな愛惜、有りと有る神
秘への限りない共感、その哀しいほどに純粋な或る異能
の想いが、言い難い魅惑の霞のように横溢する、密やか
にして不可思議なアトモスフィア、これは小林さんの制
作するどの作品にも、共通して感じられるものだ。今ま
でこの画廊通信の場において「小林健二」という稀有の
存在を、管見にせよ様々な角度から語らせて頂いたが、
この度5回目の個展を迎えるに当たって、また私が詰ま
らない私見を繰り返すよりは、小林さんご自身が文筆家
としての一面も併せ持つ訳だから、今回は極力私の話は
抑えて、作家自身の発言や文章を掲載させて頂こうと、
そう考えるに到った。それが前述した小林さん特有のア
トモスフィアを、延いては「小林健二」という作家の本
質的なものを、最も雄弁に語るだろうと思えるからだ。
以前にも引用した事のある文章だが、以下は「ぼくら
の鉱石ラジオ」から抜粋した、魅力溢れる一節である。
空電は電気を帯びた雲と雲の間、または雲と大地の間
に起きる放電や、大気中の電気的変動によって生まれる
電波の一種の事です。たいていはクリック音(カリッと
いう鋭い音)やグラインダー音(ガラガラと連続した雑
音)などですが、中にはとても美しく感じる音もありま
す。それらは「音楽的空電」とか「滑らかに変わる音」
と呼ばれているようです。とりわけ「口笛を吹く者たち
の放電」は、10kHz以下のオーディオ帯の周波数の信
号なので、直接アンプで増幅してあげると、まるでシン
セサイザーでポルタメント(音階が連続的に変動するよ
うな効果)をかけたような音として聞く事ができます。
これらは落雷によって発生した電波のうち、可聴帯域の
成分が電離層を突き抜けて上方へと向かい、地球の磁力
線に沿って反対半球まで行き、反射されて元の場所へと
戻って来る中で、音に変化がつくと考えられています。
また「夜明けの合唱」という現象も興味深いもので、
不思議な宇宙からの音楽が明け方に降りそそいで来るの
です。これは高・中緯度の場所で午前中に観測されるも
ので、ちょうど朝の鳥たちのさえずりのように聞こえる
事でそう呼ばれます。この現象は電子や陽子や重水素イ
オンが、地球の磁力線に巻きつきながら発している長い
波長の電波によって起こります。オーロラが発生する時
に、バンアレン放射帯の辺りから通信して来るのです。
どうだろう、一見これも或る特殊現象の説明文なのだ
が、読んでいると次第にその行間から、小林さんの少年
のような心のときめきが、自然への大いなる共感を伴っ
て滲み出し、遂には一編の美しい詩となって、雄大な歌
を奏でるようではないか。もはや科学用語の意味など分
からなくても良い、ただ私達は天空を飛び交う不思議な
信号を脳裏に響かせ、磁力線を震わせる地球の歌に耳を
澄ませば良いのだ。もう一節、同書から引いてみよう。
1873年ブラウンが鉱石に単方偏導性を発見して、
これがラジオを生み出すきっかけの一つとなりました。
同じ年、電話の発明者となるベルの助手スミスが、セレ
ニウムを電話用の電気抵抗として実験している最中、た
またま窓から入る太陽光線によって抵抗値が変化する事
に気がつきます。これはやがてテレビジョンの発明へと
つながる光導電セルの最初の発見となりますが、それら
は共に時期だけでなく偶然によって発見されたところに
も、不思議な共通性を感じさせます。電気や電子、電磁
波を扱う世界は、他のいかなる場合よりも理論的でまた
実証的な側面を感じさせますが、実はこれらの世界ほど
偶然によって人類と邂逅してきた世界もないのです。そ
してこれらの背景には、いつも不思議を感じる実験者た
ちのこころが存在していた事を忘れてはならないでしょ
う。ひとしきり姿を現し、その後再び大いなる闇の中へ
消えていきそうになるちょっとした偶然の出来事を注意
深くすくい上げ、見つめ、そして磨き上げてゆく。彼ら
のその地道な日々の努力を支えていたのはきっと、ほん
の一瞬別世界と出会ったという確信だったのでしょう。
子供の頃、雨上がりの風景の中に虹を見つけ、まるで
異世界から出現したような大きなアーチは、その足下に
ある町からはどのように見えているのだろうと考えた人
も少なくないはずです。みなさんは最近、虹を見た事が
ありますか? 不思議な世界はきっとぼくらのすぐそば
で「早く私に気がついて」、そんなふうにあなたに話し
かけているかもしれません。そしてその奇跡の国へのチ
ケットは決して特権的な方法によって入手するものでは
なくて、あなたの心の中にいる少年少女たちが、当たり
前に持っている不思議を感じるこころによって、いつで
も旅立つことができるようにと用意されているのです。
いわゆる「センス・オブ・ワンダー」、その最も鋭敏
な精神が表現に向かう時、あらゆる分野に不思議は遍く
潜在するものだから、当然「美術」という範疇を軽々と
超えて、より広範な分野へとその領域を拡大する事にな
る。以下は「PROXIMA ; INVISIBLE NUPTIALS」から。
今ではネオンのおかげで、目を凝らさなければ夜空の
星は見えないけれど、かつて夜の風景に星しかない時代
があったはずです。その時代の人々が、その星空を見上
げながら話していたことが、やがて神話になった。そし
て古来の根元的な神秘を証そうという欲求から生まれた
のが、科学だと思うのです。神話と科学が別個のものだ
というのは、それぞれを学問としてだけとらえている人
の考え方だと思いますね。だから、アートや科学を分け
隔てることは、ぼくの中では難しい。近代になって、い
ろんなものが各論化して行ったけれど、本来哲学や物理
学などの科学、そしてアート、あるいは信仰といったも
のは、はっきり分けられるものではないと思う。それら
は、ともに人間が生きていく上において、天然との交通
を試みるための、大切な行為のような気がするのです。
そんな独自の理念を基に、小林さんはあらゆるボーダ
ーを超えた活動を展開して来た。画家・造形作家・写真
家・映像作家・詩人・作曲家・科学技術者・博物学者・
歴史家・鉱石研究家等々、常人の通念など軽く吹き飛ば
されてしまうような、驚くほど多岐に亘るそのユニーク
な表現は、ファンであれば誰もが知る所のものだ。その
小林さんが、近年はまるで「画家」という原点に立ち戻
るかのように、表現の主軸を絵画制作に絞られている。
しかも前回の展示を顧みた限りでは、以前は必ずと言っ
ていいほど作品に附随していた、あの特徴的なローマ字
の詩的コメントが、一切添えられてなかった。つまり、
一切の意味付けを排した純粋な視覚表現として、絵画作
品は目前に提示されたのである。この純粋絵画への回帰
が何を意味するのかは、もはや論ずる紙面が無いが、一
つここで言える事は、その表現が通常の「絵画」表現と
は、明らかに異なる事だ。むろん絵画であれば、それぞ
れに異なるのは当然の理だが、ここで言う「異なる」と
はその謂ではない。個性の違いと言うよりは、より根底
を成すパラダイムが異なると言うべきか、一見して誰も
が感じるだろう「違い」の所以は、そこに有るのだと思
う。それはやはり、あらゆるボーダーを超えて来た人だ
からこその、未踏の地平とも言うべき領域なのだろう。
最後に、文集「みづいろ」の最後を飾る一節を。読み
返す度毎に、私はこの超えて大きな世界と、透き通るよ
うに太虚を満たす遥かな哀しみに、いつも心打たれる。
ぼくらがいつか もういちどめぐり逢い
永い時間のへだたりをくぐり抜け
きみが夜明けで ぼくが大地であったときにさえ
巨きな地軸を廻しているエネルギーの源に
朝がみづいろのかげを おとしているよ
(24.09.26)