イヴニングドレス (2024)        石膏 / h.25cm
イヴニングドレス (2024)        石膏 / h.25cm

画廊通信 Vol.256        手の中のミニマリスト

 

 

 1m╳1mで1㎡──常々思うのだけれど、絵の大きさ=面積というものは、この1平方メートル以内で充分ではないだろうか。それ以上の大きさは、表現上その大きさに何らかの必然性が有る場合は別として、通常の絵画表現においては不要であろう。油彩の標準寸法で言えば、50号が1平方メートルを僅かに超える位だから、それ以内の号数で凡そあらゆる表現が可能な筈だ。もしその大きさでは不足なのだとしたら、それは作者の実力が不足している事の、純然たる表れと考えた方が良い。試みに過去の名画を概観してみると、例えば「モナ・リザ」が77╳53=4081c㎡、つまり20号に満たない大きさである。他にも、思い付くままに挙げてみると──ラファエロ「大公の聖母」25号弱、レンブラント「自画像(1655~8)」10号弱、フェルメール

「牛乳を注ぐ女」約8号、ミレー「落ち穂拾い」50号

弱、モネ「印象・日の出」12号相当、ゴッホ「アルル

の跳ね橋」15号、セザンヌ「カード遊びをする人達」

10号強、ピカソ「ヴァイオリンと葡萄」約12号、デ

・キリコ「通りの神秘と憂愁」30号弱、モンドリアン

「赤、黒、青、黄、灰色のコンポジション」12号、ク

レー「幻想喜歌劇『船乗り』の死闘場面」8号強、ダリ

「記憶の固執」4号、モランディ「静物(1960)」

6号強……といった具合、切りが無いからこの辺りで止

めておくが、このような美術史上紛れもない傑作の悉く

が、1平方メートル以内の画面に描かれているという事

実は、必然的に冒頭のような結論を導くに到る、よって

これは決して極論ではない。むろん「大水浴図」や「大

睡蓮」や「ゲルニカ」の如く、巨大な画面に描かれた傑

作も在るだろう、しかしながらそれらは、各々の作家が

探求して来た手法の集大成・完成形としてのモニュメン

トを志向したものであり、むしろ美術史上に足跡を残す

エポック・メイキングな革命は、それに先立つ実験的・

前進的な制作において為されたものであり、前述のよう

にそれらの多くは、1平方メートルに満たない画面で実

践されたものであった。ちなみに、団体展における歯止

めなき巨大化の愚については、これまでにも度々触れて

来たので繰り返さないが、100号どころか150号・

更には200号と、無意味な拡大の未だ止まない誠に馬

鹿らしい珍傾向には、ただただ空いた口が塞がらない。

 

 さて、平面=絵画における考察はこの位にして、そろ

そろ立体=彫刻の分野に論旨を移したいと思う。古来か

ら彫刻は、建築と切り離せない関係にあった事もあり、

元々モニュメンタルな大型の制作が主であった、これは

教会や宮殿等の大規模建築に附随・設置された、幾多の

有名彫刻を思い起こせば明らかな事だ。それが近代に入

り、絵画が純粋な「平面表現」に昇格したのと同様に、

彫刻もまた純粋な「立体表現」として考えられるように

なった事から、建築という軛から解放された事による、

独立した芸術作品としての小型化が、時と共に必然的に

見られるようになった。メダルド・ロッソ「病める子」

26╳23╳16(高さ╳幅╳奥行、以下同)cm、ブ

ランクーシ「眠れるミューズ」19╳28╳20cm、

ジャコメッティ「ディエゴの肖像(1954)」27╳

21╳11cm等、これらはその最も顕著な例だが、三

者共にそんな30cmにも満たない小さな作品で、彫刻

界に新たな革命を引き起こし、美術史上に消える事のな

い足跡を刻んだ訳である。折しもアーティゾン美術館が

「ブランクーシ展」を開催中との由、例によって例の如

く、私は日々にかまけて未見なのだが、これは一見の価

値が有る貴重な展示会であろう、会期は7月7日(日)

まで、興味あらば是非のご高覧をお奨めしておきたい。

 ジャコメッティに関しては、2006年の川村記念美

術館、2017年の国立新美術館と、計2回の大規模な

個展を実見する幸運に恵まれたが、いずれも「見る」と

言うよりは「体験する」と言った方が妥当のような、強

烈な印象を伴うものであった。特に後者の個展では、僅

か3センチ程度の小品から、片や3メートル近くに及ぶ

大作まで、幅広い大きさの作品を比較・細見する事が出

来たので、ジャコメッティの立体表現を一望し得る展示

となっていたが、私見ではあるにせよ、会場に高々と屹

立する大型の作品よりは、高さにして50センチ以内位

の比較的小振りの作品に、やはり優れた表現が多かった

ように思える。図録によると大型の作品は、ニューヨー

クの或る銀行に設置するモニュメントとして依頼を受け

たものだったとの事、つまりは作家自身の能動的な制作

ではなかったようで、その辺りの事情から推し量ってみ

ても、たぶんジャコメッティ自身は50センチ程度の上

限で、何の不自由も感じなかったのではないだろうか。

 メダルド・ロッソを教えてくれたのは、他でもない三

木さんである。三木俊博展は今期で6回目となるが、当

初制作に関して色々とお聞きする中で、影響を受けた作

家として挙げられていたのが、その名前との出会いであ

った。ロダンとほぼ同時代の彫刻家で、本邦では圧倒的

にロダンの方が人口に膾炙しているが、私自身不勉強で

未知の作家だったゆえ、あまり知ったような事は言えな

いにせよ、もしかしたらロダン以上に独創的な作家と言

えるのかも知れない。何よりも特徴的なのは、その「大

きさ」である。巨大彫刻の顕著なロダンに比べて、ざっ

と概観してもロッソの作品は、30センチに届かないも

のばかりである。彫刻の制作では、まだまだモニュメン

タルな要素の色濃かったであろう時代に、僅か20数セ

ンチ程度の彫刻で勝負を挑むというのは、当時としては

極めて大胆な行為だったのではないだろうか。他にも革

新的な点は挙げられるのだが、残念ながらそこまで論ず

る誌面は無いので、そろそろ結論に入らせて頂ければ、

やはり彫刻の分野も絵画と同様に、或る一線以内の大き

さであらゆる表現が可能であり、逆に言えば、或る一線

以上の大きさは不要なのである。但し、立体の場合は体

積で考えなければならず、よって面積よりは複雑な計算

を要する事から、ここで明確な数値は提示出来ないが、

試みに上述の作家を顧みるだけでも、自ずから大凡の一

線は推知し得るだろう。そして三木さんもまたその一線

下において、自在の表現を成して来た作家なのである。

 

 三木さんの彫刻芸術を考える際のキーワードとして、

「欠損」と「変容」という言葉を、これまでに私は度々

用いて来た。簡単に再述すれば、「欠損」とは敢えて全

体を造らず、或いは造っても削り落とす事によって、見

る者に明示を超えた豊かな暗示を齎す事、「変容」とは

或る塊から何らかの形象が現れ出る途中の如く、或いは

その形象が再び塊へと融け行く途中の如く、生成と消滅

の狭間を流動するようなイメージを、見る者に強く喚起

させる事、これらの手法はいずれも単一の完成形を拒否

する事から、却って見る者に自由な想像力の飛翔を許す

のである。これだけでも三木さんの独創性は充分に伝わ

る事と思うが、ここで更なるキーワードを付け加えると

すれば、言うまでもなくそれは、制作における徹底した

「ミニマリズム」である。この言葉は、1960年代の

アメリカン・コンテンポラリーを象徴する「ミニマル・

アート」を直ぐに連想させるが、それはフランク・ステ

ラ、ドナルド・ジャッド、ソル・ルウィットといったアー

ティストが主導した、極限まで単純化された幾何学的な

抽象を指すので、ここで言うミニマリズムとはその意味

ではない。不要なエレメントを排除し、必要最小限の要

素で最大の効果を目指す事──そもそもの原義はこんな

意味かと思うが、正にこの原義を制作上のスタンスとし

て、こけ威しの大きさを不要なものとして排し、自らの

表現を一貫して必要最小限のサイズで成して来たのが、

三木俊博という芸術家なのである。その意味で三木さん

は、前述のメダルド・ロッソやジャコメッティといった

偉人達の、正当的な継承者なのだと思う。具体的な数値

を申し上げれば、三木さんのブロンズ作品もそのほとん

どが、高さにして10数センチから20数センチ、稀に

30センチを超えるといった程度の大きさである。この

大きさで正にあらゆる表現を可能として来た、のみなら

ずそれ以上の大きさを全く必要としなかった、これは現

在も等身大からそれ以上の大きさが主流の、未だモニュ

メンタルな傾向の強く残る本邦においては、極めて異端

の制作姿勢と言えるのだろう。しかし、一度でもその作

品に触れた事のある人ならば、その大きさに不足を感ず

るどころか、如何に豊かな情感がその大きさの中で横溢

・躍動しているかに、目を瞠る思いをした方も少なくな

いと思う。「欠損」「変容」そして「ミニマリズム」、

これらのファクターが形作る強固な三角形の中で、三木

さんの表現は今現在も、大胆な進化を続けて止まない。

 念のため補記すれば、私は何も「小さい事」を良しと

したい訳ではない。絵画にしろ彫刻にしろ、不要な大き

さは文字通り「不要」であり、それは表現に何物も齎さ

ない、と言いたいだけだ。たったそれだけのために、こ

こまで長々と書き連ねてしまったが、思うにそれは取り

立てて主張するような事でもなく、あらゆる表現におい

て至極自明の原則であろう。顧みれば「ミニマリズム」

といった言葉を敢えて持ち出さずとも、古来美術史に足

跡を残す大家の多くは、必要最小限の大きさで最大の成

果を上げて来た、屈指のミニマリストだったのだから。

 

 高さにして10数センチから20数センチ──という

サイズから必然的に導かれる特質は、それが「手に持て

る」大きさであるという事だ。「手に持つ」という事は

青銅=ブロンズの手触りと硬度を感じ、そのズッシリと

手中に沈む金属の重さを感じながら、作家の表現を文字

通り「体感」する事が出来る、即ち視覚芸術でありなが

ら「視覚」を超えた複合的な感覚で、作品との触れ合い

が可能になる事を意味する。もう一点を付け加えれば、

作品を「手に持つ」という行為は、作品を色々な角度か

ら任意に鑑賞し得るという、絵画の平面表現では持ち得

ない利点を派生させる。という事は、それを制作する作

家側にもまた、様々な視点からの変化相を可能とする、

自由度の拡大を齎す事になり、換言すればそれは、作家

自身へもそんな自由度への新たな挑戦が、否応なく要求

される仕儀にもなるだろう。ちなみにこの立体特有のメ

リットを利用して、右側面から見た表情と左側面から見

た表情を、意図的に違えて創り出すような表現は、それ

こそ三木さんが自家薬籠中の物として来た手法である。

 好きな作品を手に抱き、ブロンズ特有の手触りと重さ

を感じながら、様々な角度からためつすがめつ、ゆった

りとその形象に魅入るという体験、それは表現形態の特

性上、絵画では味わう事の出来ない贅沢かと思う。近年

は若い世代の作家によって、アニメのフィギュアからイ

ンスパイアされたような、樹脂による小振りの塑像等も

発表されていて、それはそれで新しい表現ではあるのだ

ろうが、しかしながらこの「ブロンズ」という古代から

の素材が湛える存在感は、自ずから柔な追随を許さない

強度を放つ。その古の感触を味わいつつ、暫し作品の声

に心を澄ます内に、いつしか見えない筈の「欠損」が未

知のイメージを再生し、止められた「変容」が不意に何

らかの時点へ向けて、緩やかに動き出すような錯視を覚

える時が来る、その時人は三木さんの生み出す浪漫と官

能の物語が、手中の青銅から響き出す様を見るだろう。

 

                     (24.06.06)