画廊通信 Vol.255 ペニーアーケードの転球技
「箱の中の世界」といった言葉を聞くと、否応なく浮かび上がる名前が有る。ジョセフ・コーネル──いわゆる「ボックスアート」の元祖である。特にここ千葉の地では、佐倉の川村記念美術館が予てより作品を積極的に蒐集し、数度に亘って大規模な「ジョセフ・コーネル展」を開催している事から、美術史上では極めて異端の変わり種でありながら、県内の美術愛好家の間では、かなりの度合で人口に膾炙している感がある。よって当店の北川健次展においても、壁に居並ぶボックスオブジェを前に、コーネルの名を引き合いに出す人は少なくない。確かにアッサンブラージュという手法を駆使し、箱の中に
独自の世界を創り出すという意味では、両者は共通した
制作方法を持つのだが、然りながら制作に当たっての理
念も、且つは作品を収める箱の担う意味も、実は両者に
は似て非なる、全く異質のものが有るように思える。つ
いては、この二人の芸術家の差異についての考察も、意
味の無い事ではないだろうから、以下に私なりの推論を
連ねてみたい。まずはコーネルのボックスアートから。
彼は生涯のほとんどを、母親と障害を抱えた弟と一緒
に、クイーンズの小さな木造家屋で暮らした。コーネ
ルは自由奔放なボヘミアンではなく、もっぱら地下の
仕事場で日々を過ごす、冴えないやせ衰えた男に過ぎ
なかった。つつましい生活を送り、片思いの女性から
はふられっ放しで、昔のロマンティック・バレエの踊
り子達に憧れを抱きながら、数えきれない日々を地下
室で過ごす──それはとても人生とは言えなかった。
以上はコーネルの浩瀚な評伝を著した、デボラ・ソロ
モンによる前書きからの抜粋だが、華やかな出来事とは
無縁であった芸術家の人生が、誠に簡潔に要約されてい
る。伝記によると、コーネルは創作を始める以前から、
女優やバレリーナの写真や絵葉書・様々なグッズは元よ
り、チケットの半券に到るまでの夥しい資料を蒐集して
いたと言う。この常軌を逸した蒐集癖は、創作をするよ
うになってからも衰えなかったようで、それは年譜や評
伝に記された以下のような証言からも、明瞭に窺い知る
事が出来る──「1934年 (31歳):この頃より、後
に『ベレニスの肖像』と題される、虚構の少女を巡るプ
ロジェクトが始まる。主題に関連する写真や文章の切り
抜き・コラージュ等をトランクの中に集め、以降30年
以上に亘って手を加え続けた」「1942年 (39歳):
『ファニー・チェリートのためのスーツケース』の制作
を開始、このプロジェクトにコーネルは生涯をかけ、プ
ログラムや写真・様々なメモ等をひっきりなしに付け加
えて行った。これらを入れたトランクはベッドの下に保
管され、どんどん重さを増して行く事になった」、ちな
みにファニー・チェリートとは、1800年代前半に活
躍したイタリアのバレリーナで、資料にはこのように出
ている、「ヨーロッパ各地で人気を博した、ロマンティ
ック・バレエ期を代表するバレリーナ。力強く肉感的な
踊りはエロティックですらあり、強烈な個性で観客を魅
了した」。つまりコーネルは、とっくにこの世には居な
い100年も前に活躍したバレリーナに入れあげ、一生
をかけてその美女を追い続けた訳だ。このような秘密の
トランクを、コーネルが幾つ隠し持っていたのかは知ら
ないが、それが様々なボックスアートの源泉となってい
た事は確かであり、そのような異様とも言える収集癖の
下に、どのように作品が創られて行ったのかは、制作に
おける数々の記録に当たれば如実に判明するのだが、残
念ながらその詳細を挙げている余裕はない。従ってここ
では、作品と評伝から得られた結論だけを述べるに留め
るが、結局コーネルのボックスアートとは、偏執狂的蒐
集による膨大な資料から必然的に生み出された、偏愛と
憧憬の「窓」なのだと思う。集めれば集めるだけ醸成さ
れるだろう、決して叶う事のない孤独な望みを、密閉さ
れた箱に永遠に封じ込める事、これは言わば秘匿された
あの重いトランクに、その一端をいつまでも覗き得る窓
を穿つ事に等しい。「集めるとは本来、過去を集める事
である(スーザン・ソンタグ)」との言葉通りに、それ
は遠い昔日へと開かれた窓であり、よって窓枠のメタフ
ァーとしての「箱」も、常に歳月に風化された如くに古
びて、時に亀裂さえ伴なって創られる。手の届かない事
による憧れが作者の根源に有るのだとしたら、思うにコ
ーネルにとっての過去とは、正に最も手の届かないが故
に、最も強度の憧憬を映し得る対象であったのだろう。
この辺りで、コーネルのボックスアートと北川さんの
ボックスオブジェを、実際に比較してみたい。コーネル
の作品は、1940年代半ばに制作された「ローレン・
バコールのペニーアーケード・ポートレート」を取り上
げてみよう。これはコーネルを代表する傑作の一つで、
当時の新進女優バコールへの偏愛を主題としたものだ。
中央に妖麗なクローズアップの顔写真を配して、その周
りをマンハッタンの高層ビル・少女時代の女優・その頃
の飼い犬・映画のスチール等の写真が取り囲む。この箱
の構成は、作者が少年時代に遊んだゲームセンター(ペ
ニーアーケード)の古いゲーム機を模したもので、上部
の投入口から木製の球を入れると、箱の内部を見え隠れ
しながら転がり落ち、下部の区画へと着地する仕掛けに
なっている。つまりコーネルは、憧れの女優への讃美を
表現するその裏で、自らの少年時代と女優の少女時代を
重ね合わせ、そこに時空を超えた蜜月を封じ込めている
のだ。よって、作品を形成するモチーフは全てが有機的
に連結され、一つの統合された世界を創り出している。
さて、対する北川さんの作品は、今回の案内状に掲載
した「Sarah Bernhardt の硝子の肖像」を取り上げたい
のだが、ちなみにタイトルの「サラ・ベルナール」は、
19世紀後半を絢爛と飾ったフランスの大女優で、ユゴ
ーやコクトーといった文豪の絶讃をほしいままにし、国
際的なスターとして華麗な舞台を展開して、その豪華な
衣装や斬新なポスターは、当時の新様式アール・ヌーヴ
ォーを強く牽引するものであった。作品に使われている
写真は、おそらく何かの舞台の一場面だろう、煌びやか
な衣装を纏った騎士(だろうか)に寄り添う、ベルナー
ルの憂いを帯びた美顔が印象的だ。写真の下方には、ア
ルファベットの刻まれた立方体と幾つかの骰子が配置さ
れ、それらの前面には歪んだ曲面に光点を浮かべるガラ
ス容器──北川さんの特質は、正にこの「組み合わせ」
にあると言っても過言ではない。即ち「ベルナールの舞
台写真」「アルファベットの立方体」「骰子」「ガラス
容器」という、互いには全く無関係の諸要素が、そのま
ま同一空間内に配置されるのである。むろんその構成に
は、そのように組み合わせた事についての如何なる理由
も無い。何故ならここで作者の意図している事は、諸要
素に理由なき組成を施す事によって、要素の担う意味を
衝突させ、撹乱する事に有るからだ。正にこの一点が、
コーネルの制作とは一線を画する点であり、そこにこそ
両者を明確に隔てる、根本的な理念の差異が有るのだと
思う。以下で、その重点をもう少し掘り下げてみたい。
数日前から私の家の台所の隅に、官吏が座っている。
これはカフカの残した断章の一つだが、たった一行に
コラージュの粋を極めた、見事な一文だと思う。「数日
前」という単語、「私の家の台所の隅」という熟語、そ
して「官吏が座っている」という単文、これらの解体さ
れた諸部分は、それだけなら何の変哲もない只の分節に
過ぎないが、それが一行に連結された時、突如不思議な
アトモスフィアに満ちた文章へと変貌し、反芻する程に
そこからは、一種異様と言ってもいい奇怪なイメージが
滲み出す。文学における一例を挙げたが、これが即ちア
ンドレ・ブルトンの提唱した「デペイズマン」であり、
以前もそれについては記したけれど、再度ここに定義す
れば「無関係な要素を自由に組み合わせる事によって、
思いも寄らない意外性を生み出し、受け手に混乱と困惑
を齎す方法」の謂である。言うまでもなく、コラージュ
・アッサンブラージュといった手法はその実践であり、
言わば北川さんの制作するボックスオブジェは、現代的
なセンスを随所に取り入れながらも、その手法を極めて
正統的に展開したものと言えるだろう。比較してコーネ
ルには、デペイズマンの理念が希薄である、と言うより
は、端からそんな考え方を、持っては居なかったのかも
知れない。前述した作品を見ても、そこには意味の衝突
や撹乱といった意図は無く、むしろ偏狂的な愛惜という
概念の下に統一された、濃密な小宇宙が在るだけだ。そ
れは極めてシンプルな、言わば子供が宝箱に愛玩物を蒐
集する行為に近いとも思われるが、然もありなん、あの
ベッドの下に秘匿されたトランクは、コーネルにとって
は生涯をかけた宝箱に、他ならなかったのだろうから。
対象に付随する意味を全て剥ぎ落とし、一塊の無意味
な実存として描き出す事、それは純粋絵画においての究
極の表現だが、片や事物に執拗に付着する意味を逆手に
取り、却って積極的に用いて錯綜させ攪乱し、意味の混
乱と混迷の中から、個々の要素とは全く異質の新たなイ
メージを喚起する事、論点を「意味」に置くのなら「デ
ペイズマン」とは、そのような行為なのだろう。案内状
の北川作品も、互いには全く無関係な諸要素が交錯する
その響きの中から、何かしら言葉にし難い浪漫を豊潤に
湛えた、不可思議な異次元の物語が立ち上がる、これは
正しくそのような理念に基づいてこその、幻惑と幻影の
魔術なのだと思う。私見だが、ボックスアートを制作す
る他作家の中で、真に魔術を駆使できる者は至って少な
く、その大方は次の三種に大別出来るのではないか。様
々なパーツを組み合わせてはみても、結局は似たような
要素の寄せ集めに終わる人、または意表を突く事を目的
とする余り、気を衒った作為が見え透いてしまう人、或
いはやたらと物品を詰め込んで、箱の中の陳列収納のみ
に終始する人、いずれにせよこれらの作家による作品か
らは、何一つ新たなイメージが生起しない、つまり魔法
が掛からないのである。北川さんの制作はその辺りの加
減が絶妙で、見る者は知らず知らずの内に作家の術中に
嵌まり、気が付けば脳裏は謎めいたイリュージョンに侵
されている、これはやはり「北川健次」という作家の卓
越した直感と、天性の鋭敏なセンスの為せる業としか言
いようが無い。所詮北川さんの「箱」とは、そんな汲め
ども尽きぬマトリックスから派生した端末装置であり、
古のイリュージョンを象徴するあのカメラ・オブスクー
ラの、最も先鋭的なメタファーとは言えないだろうか。
ふと思う、もし北川さんがあのペニーアーケードの遊
具を題材にしたら、どんな作品を創るのだろうと。もち
ろん、上から球を入れたら下から出てくるなんて、月並
の仕掛けはしない。それは懐かしいゲーム機の形状を取
りつつも、一度球を入れたが最後、パーツの狭間を無窮
動に転がり続け、コラージュされたモチーフを永遠に攪
乱し続ける。やがて世界の断片は複雑に錯綜し、全ては
幻惑のイリュージョンと化して、北川さんのアーケード
は或る黄昏の薄闇に、異次元の街へと変容するだろう。
(24.05.10)