李朝壺 (1996)       混合技法 ※中西和作品集(1991-1996)より
李朝壺 (1996)       混合技法 ※中西和作品集(1991-1996)より

画廊通信 Vol.252             気の因由

 

 

 この場に何度も記した事だが、中西さんの絵画はあまねく共通して、或る特有の「雰囲気」を湛える。「空気感」と言っても良い、或いは「気配」とでも言うべきか(あらゆる雑多な気配が消え去った後の気配という逆説的な意味で)、もしくは「気韻」という言葉も有るだろう、いずれにせよどんな言い方にも共通するのは「気」の一字であり、洋語なら「アトモスフィア」という言葉も有るけれど、どうもその響きが中西さんの世界には合わないようにも思えるので、ここでは単純に「気」とい

う言葉を選択するのなら、作品が風景であれ静物(とは

言っても一般の静物画とは凡そ異なるものだが)であれ

絵画ジャンルに関わりなく、そこからは一様に或る独特

の「気」が、深々と放たれるのである。これは何も、私

の独りよがりな見解という訳ではなく、一度でも中西さ

んの絵に触れた事の有る人ならば、たぶん誰もが感じる

事だろう。それがどんな気であるのかを、端的に形容す

るのは困難だけれど、試みに該当する言葉を絞り出して

みれば、それは「静寂」や「静謐」といった通常の表現

を、より深めた意味としての「寂静」であり「清閑」で

あり「幽玄」であり、更に敷衍すれば「禅定」「寂滅」

「清浄」といった宗教的な領域にまで近接するような、

言わば俗事・俗念の泥濘を離れてこそ到れるのだろう、

ある種形而上的な高みと深みを孕むものだ。いやはや、

対象が対象だけに、却って面倒な言い回しに陥った感が

あるが、要は中西さんの作品を前にした時に、誰もが持

つだろう「他とは何かが違う」という感覚、その「違う

何か」を無理に言葉にすれば、そうなってしまうという

だけの話で、やはり感覚の言語化は難しいものである。

 さて、中西さんの個展は昨年で20回を数え、今期で

21回目となった。という事は、昨年辺り「20回」と

いう記念すべき節目に臨んで、何らかのイベントやレセ

プションの類いを設けるべきであったのに、例によって

特別な企画の一つも打たず、画廊通信においても20回

展への感謝の言葉一つなく、ただ案内状の片隅に申し訳

程度に “20th exhibition” とだけ記して終わらせてしま

った、その自らの酷薄に改めて慄然とする思いである。

さておき、20回という節目を過ぎて今、再度私は「中

西和」という画家の原点を確認したいと思う。独特の絵

画構成、卓抜の描写力、それらを可能とする独創的な技

法等々、特筆すべき点は多々有るが、何よりも顕著に中

西さんを中西さんたらしめるものとして、まずはその作

品が湛える「気」を起点に考える事こそ、画家の原点を

語る事に他ならないのだと思う。忘れもしない、或る美

術誌に掲載されていた個展案内の写真で、私は初めて中

西さんを知ったのだったが、顧みればその時直感的に心

惹かれた所以は、やはり作品から音もなく滲み出して尽

きない、その霊妙なる「気」の趣であり、力であった。

 

 言うまでもない事だが「気」は描けない。そもそも、

見えない現象を描ける筈もないし、ましてや、そこから

醸し出される精神的情趣を描き出す事など、単純に考え

て物理的に不可能である。よって画家は、何らかの可視

的な物体を用いて、不可視の現象を暗示する他ない。つ

まり直接に描き出す事=明示の不可能な対象は、暗示を

駆使して見る者にそれを「感じさせる」という、間接的

な手法を用いるしかない訳だが、これは多々ある表現手

段の中でも、最も高度かつ困難な手法と言えるだろう。

問題はその「暗示」を為すための方法なのだが、ここで

はそれを「モチーフ」「構図」「画法」の3点に絞って

考えてみたい。むろん実際の制作においては、それらは

決して別々に為される訳ではなく、三者が渾然一体とな

って進行してゆくものと思われるが、この場では便宜上

ファクターを分けた上で、各々を考察出来ればと思う。

 まずは「モチーフ」について。これも今までに何度も

書いて来た事だが、中西さんのモチーフはそのほとんど

が、日常の生活圏にありふれて散見される物である。時

に特定の建造物等が題材になる事も有るが、少なく見積

もっても描かれるモチーフの9割以上は、私達の周囲に

当たり前に存在する物ばかりと言っても過言ではない。

即ち、野菜や果実・野の花といった四季の風物、碗や壺

・様々な器物等身の回りの調度類、或いは炭や柴・石塊

等々、通常絵の題材としては顧みられない物まで、私達

の日常を形成する有りと有る物、その悉くが中西さんに

とっては掛けがえのないモチーフとなる。しかし、それ

ら取るに足らない物達が画家の手を通して「描かれた」

時、つまりは常々在る場所を離れて画面の中に置き直さ

れた時、それらは明らかに今までとは違った佇まいを見

せる。いや、それらは決して殊更の演出を施されている

訳ではなく、ごく坦々と何の衒いも無く描かれているだ

けなので、むしろ絵の前に立つ私達の方が、そこに平生

とは違う佇まいを「見る」のだろう。これはあたかも、

ありふれた野花や樹枝が剣山に留められ、何らかの器に

生けられた時、それらが平素の見慣れた姿容を離れて、

俄に特異な品位を放ち始めるのに似ている。つまり中西

さんは、普段気にも留めない日常茶飯のモチーフを、絵

の中に「生ける」のである。と言うよりは、そもそも中

西さんにとって「描く」とは「生ける」行為に他ならな

いのだと思う。この「生ける」という言葉もまた、様々

な解釈が可能だろうけれど、この場合は面倒な思考をあ

れこれと弄ぶ前に、中西さんはただ「花を生けるが如く

にモチーフを生けている」と言えば、それで十分であろ

う。おそらく中西さんの為す「生ける」とは、物を本来

の姿に「蘇生させる」事、その行為に等しいのである。

 

 次に「構図」について。ちなみにここで言う「構図」

とは、一般概念としての「構成」という意味ではなく、

画面における「物の置かれ方」といった程の意である。

元来中西さんは、如何にも「構成しました」といった体

の、計算が丸見えの作画を好まない人だから、従来の構

図法にもさほど信を置かない感があり、よってその作品

を見回してもあまりに自然な構図ゆえ、計算の痕跡など

は微塵も感じられない。むろん潜在的な計算は有るのか

も知れないが、もし仮に有ったにせよ、それは通常の構

成手法とは凡そ異なるものだ。思うに中西さんの制作で

は、モチーフは構成要素として「配置」されるのではな

い、ただそこに「置かれる」のである。問題はその「置

かれ方」なのだが、これもその作品に接した経験の有る

人ならば、多かれ少なかれ、誰もが共有する感覚と思わ

れるが、如何なるモチーフであっても、それは中西さん

によって画面上に「置かれる」事で、何か言い難い尊厳

を放つ。この「物を置く」という行為について、かつて

中西さんはこんな話をされていた、「神社では神事の折

りに、複数の白菜を三方に載せて、神前に供えたりしま

すが、そうすると白菜は、それだけで『尊く』なるもの

です。それは時に、神のように見えますよ」と。このお

話に倣えば、中西さんは絵画の中で、モチーフを「供え

て」いるのだと言っても、あながち誤謬ではあるまい。

おそらく中西さんにとって、物を「置く」という行為は

「供える」事に他ならない。例えばそれが大根であれ、

独活であれ、葱であれ、水菜であれ、普段は食材としか

見られないような野菜達が、画家によって画面上の或る

絶妙な位置に置かれると、それらは正に「供えた」とい

う様相を呈する。するとただの食材に過ぎなかった野菜

達が、俄に或る掛けがえのない命としての「尊厳」を、

いつか音もなく放ち始める、そんなある種言い難い現象

を、私達は何度も目にして来た。そこに画家の「置く」

という行為の真意があるならば、それは即ち「供える」

事に等しいと言える、ならば「何に供えるのか」とつい

問いたくもなるが、それは愚問であろう。供える対象は

無い、供える事によって、何かが現れるのだろうから。

 

 そして「画法」について。既にご存じの方も多いと思

うが、中西さんは描画を「洗い流す」という、極めて独

自の技法を用いる。これについては画家自身の説明が有

るので、少々の抜粋をしたい。以下は画集『素』から。

「墨でモチーフの輪郭や陰影を描き、乾燥させたのち洗

い落とします。その後彩色をしながら制作を進めて行く

のですが、その間にも何度か洗いつつ調子を整えます。

描いたものを洗うと言うと、何か逆戻りしているように

思われるかも知れませんが、作品の最終的な仕上がりを

決定づけたりするもので、描く事と同じ意味を持つ工程

です」、こう記した上で、画家はこのように締め括って

いる。「以上の技法は、何か独自のものを意図して創っ

た訳ではなく、『描きたいものを描きたい風に』と思っ

て、色々試した中で出来上がったものです。一見難しい

ように感じられるかも知れませんが、私にとっては最も

簡単な技法なのです」、つまり中西さんは「洗い流す」

という技法を、描きたいものを描こうと探究を重ねる過

程で、ごく自然に辿り着いたものとしている。言うなれ

ば画家の描きたいものが、その技法を必要としたのだ。

ならば、画家の言う「描きたいもの」とは何であったの

かを考える時、言うまでもなくその答えは、現在の絵の

中にある。この曇りなき世界、穏やかに澄み渡る時空、

清々と広がる楽土……と思いを巡らせていると、不意に

中西さんの言う「洗い流す」とは「清める」事ではない

かと思えた。画家自身は、制作上の技法としか語っては

ないのだが、作品を見れば一目瞭然、明らかにそこには

或る「清められた」何かが存在する。むろんそれは物理

的に「洗い流す」という作業から、つまりはその技法を

用いた結果として現前したものではあるけれど、しかし

それだけでは無いだろう、確かに私の眼前には物理的な

ものだけではない何かが、こうして「在る」のだから。

おそらく中西さんは「絵具を洗い流す」という行為と共

に、あらゆる浮世の塵芥も洗い流したのだ。洗い流す事

で筆跡を消し、同時に筆跡を付けた思いも消して、全て

は物心共に洗い清められる、そしてあの清々と澄み渡る

画面が現出するのである。そんな大層な事ではないよ、

あくまでも技法上の事ですよ、と画家は笑うだろうか。

 

 そろそろ結論に到りたい。「モチーフ」「構図」「画

法」の3点から、これまで分析じみた考察をして来た訳

だが、結果それぞれのファクターから「生ける」「供え

る」「清める」という行為が生起した。敷衍すれば、そ

の三者は決して別々の義ではなく、即ち「生ける」事は

「供える」事に等しく、また「供える」とは「清める」

に同義であり、更には「清める」とは「生ける」義に通

ずる事から、三者はそのまま渾然一体となって、先に記

した如く、画家の為す「暗示」を形成するのだと思う。

 画面に或るモチーフが生けられる。それは同時に、或

る位置に置かれる事で供えられ、更には画面ごと全てが

洗い流されて清められる、その時絵画は自ずから何もの

かを「暗示」して、尽きる事なき霊妙の情趣を放つのだ

ろう。それは即ち、生け、供え、清める事によって現れ

た「何か」であり、そんな「見えざる対象」を言葉にす

るのが、所詮不可能に近いのならば、ただひたすら「感

じる」他にない。事実、中西さんの作品に暫くでも対す

れば、そこから音もなく滲み出すだろうあの不可思議の

「気」が、言い難い何かを十全に伝えてくれるに違いな

い。そして、その見えざるものを飽和した「気」の響き

を通して、私達は一人の比類なき精神を知るのである。

 

                     (24.02.15)