画廊通信 Vol.243 アイム・オールド・ファッション
ロック・グラスに角砂糖を一つ落とし、そこにアンゴスチュラ・ビターズを2~3ダッシュほど振りかける。アンゴスチュラ・ビターズとは、ラム酒にリンドウ等のハーブやスパイスを配合した、強い苦味とエキゾチックな香りを特徴とするリキュールだが、そのビターズを染み込ませた角砂糖の上にロック・アイスを詰め込んで、バーボンをダブルで一気に注ぎ、グラスの縁にオレンジ
・スライスを挿し入れる──名にし負う「オールド・フ
ァッションド」の完成である。オールド・ファッション
ドは最も古典的なカクテルで、一説には19世紀半ば、
ケンタッキー・ダービーが開催される競馬場の、バーテ
ンダーによる考案と言われる。より繊細に手の込んだレ
シピも有るが、私は上記のようなザックリとシンプルな
作り方が好きだ。この方法の場合、砂糖もビターズもグ
ラスの底に有るから、飲み始めはバーボンの風味だけな
のだが、氷が融けるに連れて徐々にビターズのアロマが
香り立ち、やがて溶けた角砂糖の甘味も加わって、あの
独特の香味が現出するのである。そんな味と香りが緩や
かに移り変わる、ゆったりとした時間が良い。こんな話
をしていると、随分と結構なご身分のように思われるだ
ろうけれど、日々あくせくと台所で火の車を回している
分際だからこその、ささやかな一時の逃避とご理解頂け
れば幸いである、何しろ自宅でも簡単に作れる事だし。
言い訳はその位にして、何故こんな話題から始めたの
かと言えば、今回で9回目となる中佐藤さんの個展に際
し、出品予定の作品画像を先日送って頂いたのだが、そ
の新作の数々を拝見している内に、不意に「オールド・
ファッションド」という言葉が脳裏に浮かび、連動して
あのカクテルの味と香りが、いきいきと蘇るように感じ
たからである。ニヒルでクールな相貌を気取りつつも、
どこかユーモアとペーソスの滲む紳士達、疾うに見られ
なくなってしまったレトロな車や街並み、煙突から煙を
棚引かせる河べりの町工場、路地裏を我が物顔にうろつ
く藪睨みのドラ猫達、天井からゆらゆらと下がった白熱
球、その下に展開する多様な卓上の風景──模型があり
玩具があり遊具があり、カップがありグラスがありボト
ルがあり、皿があり薬缶がありフライパンがあり、その
上では目玉焼きや魚料理が、ジュウジュウと熱い湯気を
立てている……。そんな中佐藤さん特有の世界を、一言
で表わせという問題が有ったとしたら、私は即座に「オ
ールド・ファッションド」と答える、それ以上に相応し
い言葉は無い。オールド・ファッションド──古風な、
昔気質の、時代遅れの、流行遅れの、古いスタイルの、
古いやり方。しかしながらその「時」に媚びないスタン
スこそが、軽佻浮薄に流れゆく今風のトレンドの中で、
何処かしら渋く朴訥とした魅力を放つ。この一種気骨の
入ったノスタルジーを感じさせる言葉が、ディスプレイ
に映し出された中佐藤さんの絵画に重なる時、あの同名
の苦味の効いたカクテルが、私の中に彷彿と浮上するの
である。中佐藤さんには、古いカクテルが良く似合う。
中佐藤さんの世界を語る時に、必ずと言っていいほど
持ち出される「ノスタルジー」という言葉。事実、私自
身も数行上の辺りで同語を使ったばかりなのだが、さて
改めて考えてみると、ノスタルジーとは如何なる観念を
孕む言葉なのか。むろん言うまでもなく、郷愁・懐古・
懐郷といった言葉がその訳ではあるのだが、ならば郷愁
とは何か、懐古とは何か、もっと平たく言うのなら、そ
もそも「懐かしい」とはどんな意味を持つ言葉なのか。
辞書にはこのように出ている。【懐かしい】①昔の事が
思い出されて、心がひかれる。②久しぶりに見たり会っ
たりして、昔の事が思い出される。③過去の事が思い出
されて、いつまでも離れたくない。──といった語釈だ
が、ここに私達が通常「懐かしい」という言葉を用いる
時の、あの独特の情感が説かれているだろうか。思うに
これは「情感」の問題なのだ、「意味」が宰領する範疇
ではない。と考えれば、当初から語釈には無理があり、
上記のお粗末な釈義にも酌量の余地はあるのだろうが、
それにしても、もう少しましな説明はないものかと他も
当たってはみたのだが、悲しいかな、どれも似たような
ものであった。ならばこの際は、自分なりに考えてみる
他ないのだけれど、とは言え、それが論理で解き明かせ
る問題ではないのであれば、むしろ考える事自体を止め
るべきか。そしてそれよりは、懐かしい──と感じた時
のその情感の有り様こそを、玩味すべきなのだろうか。
例えば私は今、数十年ぶりに故郷の街に帰り着いた。
しかし、かつて見た町工場はその姿を消し、その脇を流
れる運河も今は塞がれて見えない。時代の波がそのよう
に諸所を変えつつも、何処か昔日の面影を残す街並み、
往時を彷彿とさせる空気の匂いと肌触り、思わず湧き上
がる、ああ、懐かしい……という感慨。この時「懐かし
い」という言葉の奥で、私は何を思い、何を感じている
のだろう。まずは、故郷に帰って来た事から齎される、
しみじみと深い安堵だろうか。馴染んだ街に、今こうし
て帰り着いたという、子供の頃のような安心感。これは
一種の喜びであり、穏やかな愉悦であり、麗しい安楽な
のだろう。それは確かな事だが、それだけだろうか。そ
れだけでは、未だ何かが欠けているようにも思える。も
う少し、故郷の街に立つ自分を、その心持ちを、想像し
てみなければならない。そこには、静かな喜びとは別種
の何かが有って、おそらくはそれが有って初めて、あの
「懐かしい」という思いは醸成されるのだ。帰り着いた
街、思い出の地、遥かに霞む追憶の日々……。いつしか
「時」という概念が湧き上がる。そこには「時」という
如何ともし難い隔たりがあるだろう。場合によっては、
既に父母は亡く、家は建て替えられ、友は去り、遠い記
憶だけが宙を彷徨う。数十年というこの時間の距離だけ
は、どうしたって取り戻す事は出来ない──そう否応も
なく悟らされた時、人は何を感じるだろう。柔らかに漂
う儚さ、最早触れ得ないものへの愛しさ、そこはかとな
い虚しさ、そんなある種淡い哀しみが、密やかに津々と
滲み出す様を、自らの心に見るのではないだろうか。そ
れが欠けていた何かなのだとしたら、そこには相反する
感情が、まるで樹葉の表と裏のように並存する、即ち戻
り得た「場所」への喜びと、戻り得ない「時」への哀し
みと。それらがアンビヴァレントに渾然と融合した姿が
「懐かしい」という情感の正体であるのなら、前述した
「ノスタルジー」も、その奥深い意義を明かすだろう。
中佐藤さんの作品に再度視点を戻せば、そこには作家
の故郷である東京下町の風情が色濃く漂い、それが中佐
藤さん特有のノスタルジーを醸し出している。ただ、作
家のお話では、急激な時代の変化に伴って街並も変貌を
重ね、やはりあのような風景は残ってないのだと言う。
だから中佐藤さんの描く風景とは、記憶をさかのぼった
遥かな昔日にのみ存在する、内なる追憶の風景なのであ
る。よって上述の言い方を借りれば、戻り得た「場所」
とは現実の街ではない、作家の内奥に息づく遠い日の街
だ。今回の展示会タイトルでもある「あの頃のように」
或いは単に「あの頃」といった言葉は、作家自身が作品
のタイトルに良く用いられる語句だが、これは正しく、
そんな「遠い日の街」を象徴する言葉と言えるだろう。
画家は「描く」という行為を通して、幾度も幾度も追憶
の故郷=「あの頃」へと戻り続ける。そしてそこに、戻
り得た「場所」への喜びが宿る時、それは上質の洒脱な
ユーモアへと転換され、一方の戻り得ない「時」への哀
しみは、さりげなく漂うペーソスへと転換される。この
決して情感に溺れない或る種乾いた佇まい、それがユー
モアであれペーソスであれ、いずれにせよクールでシッ
クな姿容を装うのが、中佐藤さんの持ち味だ。ともあれ
中佐藤さんのノスタルジーは、そのようにして描き出さ
れた「あの頃」の中に、いつまでも消える事なく香り続
ける。前回の画廊通信に、私はこのように記している。
中佐藤さんの描く「あの頃」とは、決して過去の一時
期を指すものではない。よってそれは過ぎ去った或る
時代への懐旧でもなければ憧憬でもない、画家の中で
長い時間をかけて抽出され純化された「懐かしさ」、
言わば純粋な「ノスタルジア」そのものの表象なのだ
と思う。だから中佐藤さんの世界に触れる人は、たと
えその人が画家の生きた時代を知らずとも、生きた背
景を知らずとも、必ずやそれぞれの「あの頃」を、い
つしか脳裏に想起し得るだろう。ならば絵の中の赤錆
びた橋を越え、煙を吐く町工場の脇を抜け、狭い路地
裏へと分け入ったその先で、私達はきっと巡り会える
筈だ、誰もが記憶の彼方に持つだろう「あの頃」に。
補足して言うのなら、ここまでは主に風景について論
じて来たが、むろん「あの頃」は風景にだけ宿るのでは
ない、数多く描かれて来た「人物」や「卓上の風景」に
も、ほぼ全てのモチーフに共通して宿るものだ。だから
中佐藤さんの世界では、全てが同軸上に連なっている。
風景であれ、人物であれ、静物であれ、それらは決して
別々のものではなく、同じアトモスフィアを纏って「あ
の頃」を形成するのである。事実、それらは時によって
自由にミックスされ、例えば卓上に置かれたポットの脇
を鉄道の引き込み線が走っていたり、フライパンの向こ
うに煙突から煙を吐く町工場が在ったり、テーブルの縁
には運搬船が浮いていたりするのだが、それが不思議と
何の違和感もなく融け合って、あの特有のノスタルジー
を醸し出している。当初私はそんな中佐藤さん特有の表
現を、一種のシュルレアリスムと解釈した。現実には無
い風景である事は確かなのだし、シュルレアリスムの視
点から見ても斬新な表現なので、それはそれで間違った
解釈ではないのだが、今はそのように考えるよりは、モ
チーフの全てが同軸上に連なるが故の、ごく自然な帰結
なのだと思いたい。シュルレアリスムなどと肩肘を張る
前に、遠い日のモチーフがいつしか入り混じり、融け合
ってしまった、それは画家にとっても至極順当な経緯に
過ぎなかった、中佐藤さんはそんな画家なのだと思う。
「フライパンのある食卓」──以前買ってしまった中佐
藤さんの作品である。サイズは4号、私の狭い部屋には
ちょうど良い。それを壁に掛け、好きなカクテルを自作
する。銘柄はもちろんオールド・ファッションド、ベー
スのバーボンはウッドフォード・リザーブが定番だが、
今夜は強めにワイルドターキーで行こう。音楽はずばり
「アイム・オールド・ファッション」、1940年台の
古いスタンダードだ。流麗に歌うコルトレーンも良いが
ここは一つ、さりげなく瀟洒なポール・デスモンドで。
柔らかなギターコードに乗せて、デスモントのアルトは
こう歌い始める──私は月夜が好き、古風な物が好き、
窓ガラスに当たる雨音、4月の唄う星明かりの歌……。
絵画の中の食卓にはウィスキーボトルが置かれ、その
前には目玉焼きを乗せたフライパン、どうやらこの食卓
の主人はご婦人には非ず、孤独を楽しむ紳士だろうか。
そんな夢想に浸る内に、グラスでビターズが香る頃、バ
ックに流れる歌の中から「どうせ時代遅れだよ」、そう
言って笑う画家の声が、不意に聞こえたように思えた。
(23.06.03)