風積砂 (2022)        油彩 / 8P
風積砂 (2022)        油彩 / 8P

画廊通信 Vol.238          虚無に抗う

 

 

 このような仕事をしていると、よくオークション・カタログが勝手に送られて来たりする。それをパラパラとめくっていると、同じ美術分野でありながら、私達とは全く異なるマネーゲームの世界を垣間見る事が出来て、暫し開いた口が塞がらない心地を楽しんだりしている訳だが、近年はそのような段階を通り越して、見ていると

沸々と怒りが湧いて来て、思わず破り捨てたくなるよう

な内容が多い、無料で配布してくれるオークション会社

には申し訳ないのだけれど…。特に昨秋のカタログはそ

の極め付けで、最早怒りを通り越してただただ唖然とし

てしまったので、これは捨てるに忍びないと思い、現在

も大切に保管しているのである。参考までに内容の一部

を紹介させて頂くと、例えば、小学生が描いたようなお

目々パッチリの頭のデカい女の子の絵に、1300万~

1800万という笑ってしまうような落札予想価格(エ

スティメイト)が付けられている。30センチ四方位の

紙に色鉛筆で描かれたもので、作者は奈良美智。他にも、

やっぱり小学生が描いたとしか思えないようなヘタクソ

な女の子の絵に、1500万~2500万という驚愕の

エスティメイト、高級車数台分の価格である。6号程の

アクリル画で、これはロッカクアヤコの筆。まあこの辺

りは、以前から相当の価格で取り引きされていた訳だし、

内容に全くそぐわない冗談のような価格設定も、ある程

度致し方ないとは思うのだが、もう少しページをめくっ

て行くと、今度は可愛い少女がコンバースのスニーカー

を持って、ペロッと舌を出している作品が出て来る。つ

い最近まで県立美術館でやっていた江口寿史(漫画家)

を彷彿とさせる作風で、ちなみにこれは上述のお二人と

は違って、とても上手で完成度も高い。約50×40セ

ンチのシルクスクリーンで、エスティメイトは90万~

140万、作者は「Backside works.」と有る。全く知

らない作家だったので少々調べてみたら、ここ3年程で

俄(にわか)に注目されるようになり、時によってはあ

の村上隆を超える高額落札を叩き出す、年齢不詳のイラ

ストレーターらしい。オークション会社のサイトで、件

(くだん)の作品のハンマープライスを見てみたら、軽

くエスティメイトを超えて160万円(手数料を含める

と200万近い)で落札されていた。「イラスト」とい

うよりは、要するに「漫画」である。いつの間にかオー

クション会場では、名だたる芸術家と全く同様の扱いで

新進の漫画家が居並び、しかも芸術作品を軽々と超える

価格で取り引きされているのだ。まあオークション会社

自体が、偉そうな顔はしていても、所詮は「売れる物な

ら何でも売りまっせ」という競売業者に過ぎないのだか

ら、そこに良識など求めるべくも無いが、それにしても

この怒りを覚えずにはいられないような状況が、現在の

美術シーンを象徴する紛れもない現実である事は、否定

の仕様がない。補足すれば、同じオークションにジャコ

メッティのリトグラフも出品されていて、これは60~

100万のエスティメイトが付けられていたが、落札は

それに届かず55万円という結果だった。さて、こんな

不条理を極める逆転現象の背景には、一体何が有って、

それは何を意味しているのだろうか。

 

 私は慣れ親しんだものから身を引き離し、芸術と芸術

 でないものとの間に横たわる境界線を新たに引き直そ

 うと試みるアーティスト達と、繰り返しゼロから出発

 するのが好きなのだ。だから、彼らが次にどんな作品

 を創り出すのか、私は息を詰めて待ち焦がれている。

 

 これは、アメリカン・ポップアートの立役者として知

られる画商、レオ・キャステリの言葉だ。自分のギャラ

リーに所属する、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテ

ンシュタインを擁護する言説とも取れるが、これはこれ

で現代アートを牽引する者としての信念が感じられる、

素晴らしい言葉だと思う。ご存知のように、ウォーホル

もリキテンシュタインも、当時のコミック=漫画を用い

て作品を制作した。ここで注意すべきは、彼らは漫画を

制作の「素材とした」のであり、漫画そのものを制作し

たのではない。つまり、彼らは「芸術」と「芸術でない

もの(漫画)」との間に横たわる境界線を明確に意識し

つつ、その上でその線を新たに引き直そうと試みたのだ

と言える。たぶんその行為の根底には、伝統の重圧から

脱却してその権威を否定せんとする、先鋭的な反逆精神

が有ったと思われるが、いずれにせよそこには、明らか

な「境界線」が存在していた。そして創る側も見る側も

双方が、それを共通概念として認識していたからこそ、

既成の美術をくつがえす革命が可能となったのだろう。

 現在に話を戻せば、漫画が信じられないような高額で

取り引きされるという前述の現象を鑑みると、最早そこ

には「境界線」が存在していない事が分かる。「線を新

たに引き直す」どころか「線」自体がとうに消失してい

るのである。村上隆が戦略的にアニメを作品化した時か

ら、サブカルチャーとハイカルチャーの境界は消滅し、

即ち芸術と非芸術の境は無化していた訳だが、今にして

思えば、その頃から「芸術」という言葉も使われなくな

って、現在はほぼ死語と化してしまった。境界が無くな

ったのだから、境界を成立させていた概念も無くなるの

は、まあ当然と言えば当然の事象であり、代わって人口

に膾炙したのが、例の「アート」という曖昧かつ浅薄な

る単語である。この言葉の及ぶ範疇たるや誠に広大で、

今やお目々パッチリのアイドルお姉さん達でさえ、自ら

を「アーティスト」と呼ぶぐらいだから、先述の漫画作

品が「アート」として扱われ「アート」としての価格で

売買され、その作者が「アーティスト」として活躍する

のは、これも当然と言えば当然の成り行きなのだろう。

 という訳で、同じ漫画を扱いながらも現在の状況は、

前世紀に興隆したポップアートとは、大きく異なってい

る。境界があるからこそ、それを破ろうとする革新が有

るのだとすれば、破るべき境界のとうに消失した現代に

おいては、革新も革命も有り得ない。既成の境界が無い

という事は、それに対する反逆の精神も無く、現実には

未だ画壇や団体の権威が残存するにせよ、今を時めくア

ーティスト達にとって、そんなものは前時代の遺物に過

ぎないだろうから、今や反逆の精神自体が何ら必要とさ

れない。こうして、前頁のレオ・キャステリの言葉は無

意味となる。おそらく現在の高額落札を更新するアーテ

ィストの中で、彼の言葉を理解する者は皆無であろう。

 

 一つ断っておきたいのだが、私は決して漫画を卑下す

る者ではない。むしろ無能の画家よりは遥かに有能な、

優れた漫画家やイラストレイターが存在する、その事実

をしっかりと踏まえた上で、それでもやはり「漫画」と

「絵画」は違うものだと考えている。ならばどう違うの

かと問われれば、そもそも絵画とは何かという地点から

始めなければならなくなり、それだけであと数ページは

費やしてしまうので、解答はまた次の機会に譲らせて頂

きたい。その上で、補足として言及しておきたい事は、

現在のような美術シーンが生み出された、その時代背景

に関してである。詳細する紙面は無いが、音楽がウェブ

上で配信され、文学もウェブ上のコンテンツとなり、映

画もそのほとんどがウェブ上で鑑賞可能となり、遂には

それらが無償化されるに及んで、文化・芸術は固有の存

在価値を剥奪され、単なる「情報」にまで零落した、そ

れがここ20年程の動向である。つまりITの急速な発

達・普及と共に、文化や芸術が急激にその重みを失い、

次々に消費されるだけの軽い娯楽に変質した事から、い

つしか人々が芸術に精神性を求めなくなり、そこに折か

らの市場原理主義・新自由主義の風潮が相乗された事に

よって、文化や芸術といった精神の産物までもが経済機

構に組み込まれ、今や一般の投資対象にまで成長して、

そこに利潤を希求する事を、全く恥じない輩を生み出す

に到っている。ザッと概観させて頂いたが、そのような

世情を呼吸して来た者にとっては、漫画と絵画の違いな

どはどうでも良い事で、そもそもそんな思考自体に、最

早意味が無いのだろう。長くなったが、現在の美術シー

ンは斯様な時代背景の落とし子であり、ならば当分はこ

の現状変わりそうにない。今、正に空っぽなお遊戯が美

術界を跋扈し、そこに空っぽな人々が群れ集っている。

 

 ここでやっと本題に入るが、以上の如き虚無的な美術

シーンから、最も遠い地点に位置する作家が、言うまで

もなく「森幸夫」という画家である。如何なる風潮にも

惑わされず、如何なる時流にも乗らず、ただひたすらに

自らの画道を追求するのみ、従って流行らない。しかし

この何百年来「真に良きものは流行らない」という現象

は、あらゆる芸術に付きまとうジレンマであって、逆に

言えばこの何百年来、流行りものに碌なものは無いので

ある。よって現在、この「流行らない」という事実こそ

が、画家にとっての最高の勲章であり、結果的に空っぽ

な時代への最大の反抗であろう。だから森さんの作品に

は、現代のアートに欠けているものが、濃密に潜在して

息づいている。非芸術の持ち得ないものとは何か、換言

すれば、絵画だけが表し得るものとは何か、そもそも絵

画とは何か、それは森さんの作品を見れば分かる、これ

は大仰でも何でもない。その理解した事を言語化し、論

理化してゆく事は、かなりの困難を伴うだろうけれど、

畢竟「絵を見る」とは感性の為せる業であるから、ゴチ

ャゴチャと理屈を捏ね回すよりは「見れば分かる」、こ

れで充分ではないか。森さんの絵を見る人は、その謂を

正に「直感的」に理解するだろう。そこに在るものは、

今誰もが用いる「アート」という軽い言葉では、到底捉

え切れないものであり、やはり「芸術」という確たる重

みを持つ言葉が有って、初めて捉え得るものなのだと思

う。そして芸術とは、ただの綺麗な装飾でもなければ、

単なるお洒落な遊戯でもない、やはり精神を高め、深め

ゆくものであるという、至極真っ当な古来からの大原則

が、そこには未だ脈々と流れている事を知るのである。

こんな言い方をしていると「絵はあんなに大胆なのに、

森さんは保守派の人なのか」と、そう訝(いぶか)る方

も居らっしゃるかと思う。保守派で結構、芸術への信頼

を決して失わない者をそう呼ぶのなら、森さんも、そし

て斯く言う私も、紛う方なき保守主義者である。思うに

この虚無の時代にあって「保守」ほど「革新」を成し得

る者が在るだろうか。今「保守」とは、抵抗と反逆の異

名である。

 

 何だか今回は、現代のトレンド批判を軸とした、半可

な芸術論のようになってしまったが、それもこれも現在

の美術シーンに占める、森さんの「位置」をご理解頂き

たかったがゆえ、長広舌のほどご容赦頂きたい。あらた

めて今、森さんは特異な画家だと思う。ここまで純粋で

ここまで求心的な画家は、この浮薄を極めるが如き時代

に、誠に稀有と言う他ない。森さんの絵と向き合う時、

私はいつもそこに「描く」という行為を信じ、「表現」

の可能性を信じ、「芸術」の力を信じる人の、或る透徹

した魂を感じる。大方そこには北辺の風土が描かれ、時

には吹き荒れる風雪が、辺境の大地を凍らせているけれ

ど、しかしながら吹雪に煙る風景の底には、何かしら強

靭に脈打つ鼓動が有って、それは絶える事なく世界を肯

定し続ける。そして茫漠と霞む大気はいつか虚無をも包

摂し、やがて豊潤たる虚空をそこに現出するのである。

              

                     (23.01.16)