画廊通信 vol.231 モノクローム私論
もう四半世紀ほども前の話になるが、写真の制作に熱中した時期があった。デジタル・カメラの普及にはまだ間があって、カメラと言えば即ちフィルム・カメラを指した時代の話である。どの分野でも言える事だが、一つの技術が終わって新しい技術が取って代わろうとしている時期は、終焉を迎えようとしている古い技術が、正にこの先は無いと言えるほどの完成度、言わば最後の円熟を誇る時期でもある。よってどのメーカーも、最高度の完成を見せる名機や機材を取り揃え、市場は最後の活況を呈するかのようであった。そんな時勢において、私は敢えて電子制御技術を用いない、極めてシンプルな機械
式カメラを選んだ。Nikon New FM2、マニュアル・フ
ォーカスはもちろんの事、絞りもシャッター速度も全て
手動で設定すると云う、完全なメカニカル・カメラであ
る。車で言えばマニュアル・シフトのようなもので、自
動制御に慣れてしまった身には不便かも知れないが、片
や全てを自分で操作すると云う真っ当な撮影を望む身に
は、カメラ本来の魅力を存分に味わえる機種であった。
休みの日になるとカメラを持って、大方は都内へと向
かう。そして、まだ降りた事のない駅で下車し、見知ら
ぬ街の中へと分け入ってゆく。大きな街路を逸れて、細
い路地の奥へと迷い込むと、角を曲がった先の古いアパ
ートの壁に、えも言われぬ見事な樹影が落ちていたりす
る。早速露出計を取り出して測光し、その場に合った適
正なEV値を決定して、絞りとシャッター速度の組み合
わせを算出してカメラに設定し、ファインダーを覗いて
フォーカスを合わせてゆく訳だが、この一連の工程に没
頭している時だけは、日常の雑事から綺麗に解放されて
いた。今回の本題ではないので、撮影に関しての委細は
省くけれど、大概は36枚撮りフィルムを一本撮影して
帰路に付く。何しろ、現在のように幾らでも画像を撮れ
る時代ではなかったから、限りあるフィルムを無駄には
使えない、よってベスト・ショットだけを狙う成り行き
となり、36枚を撮り終える頃には、既に陽が傾いてい
るのであった。その日の夜は、撮影済みフィルムを現像
する。滞りなく作業が進めば、翌日は暗室作業である。
プリント現像、いわゆる暗室作業とは、密室における
もう一つの撮影に他ならない。引き伸ばし機にネガフィ
ルムを装着して露光し、拡大されたプリント画像を撮影
する。それをバットに張った現像液に浸けると、セーフ
ライトの赤色光の下に、モノクロームの画像が浮かび上
がる。それは押し並べて、脳裏にある完成形とは程遠い
ものだから、マルチ・フィルターによる階調の調節や、
焼き込み等々のテクニックを駆使して試し焼きを繰り返
し、徐々に理想形に近付けて行く訳だが、当時私はプリ
ント作業の終着点としての完成形とは、撮影時に目撃し
た或る特別な一瞬の、心象的再現である事を信じて疑わ
なかった。従って、撮影時の感動にギリギリまで画像を
近付けてゆく事が、自分の中では最要の課題と考えてい
たのだが、今こうしてその時分を思い出すに連れて、果
たしてそうだったのだろうかと、今一度自らの心理を振
り返ってみるのである。あの時、セーフライトに浮かぶ
プリントの画像を見ながら、確かに私は、前日に出会っ
たあの掛けがえのない風景を脳裏に描きつつ、それを何
処までも追いかけていた……と、ここまで思い返してみ
た時、いや、そうではなかったのではないか、そう思い
込んでいただけではないのかと、自らへの疑いが俄に浮
上するのだ。前日、細い路地を曲がったその先に、見事
な樹影を映していた古い壁、対面には路地を覆う鮮緑の
葉叢が在って、見上げれば陽光に透ける枝葉の彼方に、
真っ青な天空が高く広がっていた。しかしながら私は暗
室の作業で、その記憶に画像を近付けようと模索しなが
らも、実は「緑」や「青」と云った現実の色彩を、全く
考えてもいなかったし、思い浮かべる事すらなかった、
それを今頃になって気が付いたのである。改めて顧みれ
ば、あの時印画紙上に私の追っていた映像は、決して記
憶に残る現実の風景ではなかった、何故なら目前には現
実の色彩が綺麗に消去された、言わば非現実の風景が投
影されていたからである。黒から白へと到る無限のグラ
デーションだけで創られた、いわゆる「モノクローム」
の映像を前に、私はその「明度」のみで形成された極め
て純粋な世界に、我知らず魅せられていたのだと思う。
そこは、非日常の異界であった。暗室の仄かな赤色光の
下には、正に別次元の小宇宙が広がっていたのである。
「写真」と云う技術は19世紀前半、フランスのダゲー
ルやイギリスのタルボット等によって、ほとんど同時期
に発明されたと言われている。カメラ・オブスキュラと
呼ばれる暗箱装置を用いて、何らかの支持体に画像を定
着させたのが初まりで、特にタルボットは1839年、
ネガ・ポジを原理とした今日に繋がる技法を編み出し、
数年後には「自然の鉛筆」と名付けた世界最初の写真集
を刊行している。言うまでもなくそれらはモノクローム
=白黒写真として世に登場した訳だが、この「最初の」
写真を目にした人々が、何を感じたかを想像してみるの
も、意味のない事ではあるまい。もちろん当時の人々を
瞠目させたのは、世界が絵画描写の媒介によるのではな
く、そのまま直接的に写影・定着されていた事だろう、
何しろそれまでは、カメラ・オブスキュラのスクリーン
を覗く事は出来ても、その画像を定着させる事は出来な
かったのだから。その「カメラ・オブスキュラのスクリ
ーン」と云う言葉から、それは当然の事ながら「カラー
映像」であった事に、ふと思いが到った。カメラ・オブ
スキュラの歴史は意外と古く、既に15世紀には描画の
補助装置として、画家に使われていたと云う史実がある
から、ならばカラー映像は当時の人々にとって、それほ
ど驚愕すべきものでもなかったように思われる。そんな
時世に写真が登場した時、人々は初めて色の無い世界を
目撃した事になる。むろん、デッサンや版画は遥か以前
から存在した訳だから、色の無い画像は疾うに身近に有
ったにしても、しかしながら「絵画」ではなく「現実」
が直接に写影された無彩色の世界は、当時の人々は初め
て目にした訳である。自分が今まで見て来た現実から、
一切の色彩が消去されて、モノクロームに変換された世
界を目撃した時、人々はそれをどう感じた事だろう。思
うに当時の人々は、それが現実の写影である事は理解し
つつも、目前に非現実の別世界を感じたのではないだろ
うか。そしておそらくは、その魅惑の異界に見入る時、
人はそこに現実の色彩を当て嵌めようとは、考えてもみ
なかったに違いない。何故なら、かつて私自身が写真制
作の最中で、黒から白へと到る無限のグラデーションだ
けで創られた世界、その不思議な異空間に入り込んでい
た時、現実の色彩を思い浮かべる事すらなかった経験を
思い返せば、当時の人々もきっと同じ感覚を共有したに
違いないからである。今にして思えば、それは「モノク
ローム」画像そのものが或る魔力を孕むと云う事実を、
初めて衝撃的に意識させられた事件だったのだと思う。
古くはダ・ヴィンチやミケランジェロによる、精巧に
描きこまれた人物デッサン(それらはデッサンの範疇を
疾うに超えているが)、或いは「メランコリア」に代表
されるデューラーの謎めいたエングレーヴィング、或い
はピラネージの細密的な風景銅版等々、写真の登場以前
にも魅力的なモノクローム表現は数多いが、それらが一
様に湛える特有の幻惑的な匂いが、正にモノクロームそ
のものの魔力から来る事を、むろん当時の画家達も感じ
ていたに違いない。ただ、その決定的な認識は、やはり
写真の登場を待たなければならなかっただろう。そして
現代にはもう一つ、モノクローム表現そのものを徹底し
て追求する、新しいジャンルが生まれている。言うまで
もなく、我が河内さんの活躍する鉛筆画の世界である。
いつもの事ではあるけれど、前置きが大変長くなって
しまった。河内良介と云う画家の魅力については、今ま
でも様々な角度から語って来たので、ここでその詳細は
繰り返さない。ただ、今回「写真」を端緒として「モノ
クローム」と云うテーマに絞ってここまで書いて来たの
は、初めて河内さんの作品に触れた時に、まずはそのモ
ノクローム表現の美しさに魅せられたからである。17
~8年ほど前の話になるだろうか、銀座日動画廊で初め
てその作品に出会って以来、オペラシティや東武等のア
ート・スペースで、数々の新作を見せてもらう度毎に、
私はその「黒」の美しさに、正確には鉛筆=グラファイ
トによるグレー・グラデーションの美しさに、いつも目
を瞠る思いをした。小さな窓の向こうに広がる、驚くよ
うな細密度で描き出された別世界、それは直ぐにも手の
届くような近さでありながら、私達の生きる現実とは遥
かに隔たった、遠い非現実の異界なのであった。そこで
は有りと有る多様なモチーフが、現実を爽快に離れた自
由度で交錯し、突き抜けるような無礙の軽やかさで、白
昼のイリュージョンを繰り広げている、その魅惑溢れる
光景の全てが、グラファイト特有の銀光沢を放つグラデ
ーションで、豊かに自在に描き出されていた、それを目
にした時のときめきは、つい昨日の事のように思い出さ
れるし、それは14回展を迎えようとしている今でも全
く変わらない。そして今ふと思うのは、もしこの世界が
鉛筆以外の画材を用いた、鮮やかな「カラー」表現で描
かれていたとしたら、これほどの魅力を私達にもたらし
ただろうかと云う事だ。もちろん、絵の中に展開される
イリュージョンの魅力は変わらないだろうけれど、おそ
らくそれは非日常的な幻想劇ではありながらも、より近
接的なイマジナリーの範疇となって、あの非現実を極め
た妙味は、却って薄れる事になるのではないだろうか。
現在エンターテインメントの世界では「チームラボ」
に代表されるような、デジタル技術を駆使した極彩色の
イリュージョンが隆盛を誇っているが、それがどんなに
めくるめくような感興をもたらすものであれ、いずれ必
ず「慣れる」時が来るだろう、色彩とは私達にとって、
現実に他ならないからである。つまり「カラー」とは、
私達のごく自然な視覚に他ならず、対して「モノクロー
ム」とは非現実の視覚なのである。非日常の幻想劇が、
非現実の視覚で描き出された時、それは正に最強のイリ
ュージョンとなるだろう。こうして河内さんの世界は、
色褪せる事のない無彩色で描き出される、それは絢爛た
る極彩色のデジタル視覚表現を、遥かに凌駕する強度を
孕むものだ。思うに真のモノクロームとは、色彩を消去
した表現ではない、もはや色を想起する必要すらない、
言わば色彩と云う「概念」を消去した表現なのである。
今回の案内状には、5連の意欲的な新作が掲載されて
いる。但し有ろう事か、印刷へ出すに際して、連作の配
列を間違えてしまったのである。画廊にあるまじき大失
策、画廊通信なんぞで知ったような事を書き連ねておき
ながら、実はこんな失態をやらかす戯け者である、よっ
て作家にも皆様にも平身低頭、深く陳謝申し上げたい。
そして願わくば、この一見は「正しい」配列の、何処を
どう入れ違えたのか、それをぜひ確認に来て頂けたらと
思う。然すれば、案内状から更にグレードアップされた
イリュージョンに、必ずや出会う事が出来る筈だから。
(22.07.11)