谷戸の一隅 (2022)  混合技法 / 90x60
谷戸の一隅 (2022)  混合技法 / 90x60

画廊通信 Vol.226            閑を巡って

 

 

 今回の案内状に掲載した中西さんの新作は「閑日」と名付けられている。至って簡素な命名だが、この場合日本人であれば、それを「閑な日」と解する人はまず有るまい。それは、作品の湛える中西さん特有の或る雰囲気が、何かしら「閑」を「ひま」とは読ませないからで、つまりは見る人が絵の中に、この「閑」という言葉の孕む言い難いニュアンスを、そこはかとなく感じ取るからだろう。実際、中西さんの作品には「閑」或いは「寂」といった言葉が、時折見受けられるのだが、上に「日本人であれば」と限定した所以は、この「閑」や「寂」に該当する概念が、例えば西欧の思考に存在するのかどうか、それがどうにも疑問だったからである。近年の中西さんの画集には、英訳も併記してあるので、紛れもない翻訳の実例を見る事が出来るのだが、ここでは「閑」と

いうタイトルが「Calm」と訳されている。Calm ──

落ち着く、冷静、平穏、平静  etc、確かに近いニュアン

スではあるだろう。しかし、やはり「閑= Calm」とは

言えない、英語に疎い私が言うのもおこがましいが、英

訳はその辺りが限界なのかも知れない。ならば日本語で

はどう説かれているかを顧みると、これもまた妥当な解

釈にはなかなか行き当たらないから厄介だ。試みに「閑

日」を引いてみると、手元の辞典にはこう有る──ひま

な日、用事のない日。これでは話にならないので、天下

の広辞苑に当たってみたところ、驚いた事に寸分違わず

同じ説明で、あの浩瀚の厚さが一体何の役に立っている

のか、いつもながらさっぱり分からない。という訳で、

結局「閑」の一時に絞って引いてみたのだが、大辞林に

このように出ていた──ひまな時間。また、ゆったりと

落ち着いて静かなさま。やっとマシな解説に辿り着いた

か、と暫し安堵の感に浸っていたが、しかし気が付いて

みれば何の事はない、これでは「Calm」の意義と同じ

ではないか。詰まるところ、英語であれ日本語であれ、

この「閑」という言葉は自ずから訳し難いものを内包す

ると思われるが、それでもやはりその「訳し難いもの」

は日本語特有のものであり、とすれば日本人固有の或る

感覚がそこには在るのだろう。閑静・閑素・閑雅・閑寂

といった熟語の使われ方を鑑みると、確かにそこには日

本人であれば「感覚」として分かる、或る確かな情趣が

感じられる。思うにそれは、古来より私達の奥底を貫い

て来た感覚であり、その顕著な証左を一つ挙げるとすれ

ば、蕉風俳諧の肝心である「さび」という理念に極まる

だろう。芭蕉は「閑寂」を「さび」と読んだのである。

 

 さび:美的理念。閑寂ななかに、奥深いものや豊かな

 ものがおのずと感じられる美しさをいう。単なる「さ

 びしさ」や「古さ」ではなく、さびしく静かなものが

 いっそう静まり、古くなったものが、さらに枯れ、そ

 のなかに、かすかで奥深いもの、豊かで広がりのある

 もの、あるいはまた華麗なものが現れてくる、そうし

 た深い情趣を含んだ閑寂枯淡の美が「さび」である。

 

 以上はインターネットから拾った「日本大百科全書」

の解説だが、文中の「華麗なもの」という言葉が、一体

何を指しているのかは不明としても、総じて「さび」の

理念が分かり易く概括されている。むろん、これだけで

は単なる抽象理念に過ぎないのだが、結果として芭蕉の

残した秀句・名句の数々は、その見事な実践であり展開

であったと言えるのだろう。一例として「古池や蛙飛び

こむ水の音」という、誰もが知る一句が有る。あまりに

も知られ過ぎて、例示を躊躇する程だが、むしろそれ故

に、この句が改めて吟味される事は少ないのではないだ

ろうか。ちなみにこの句は、芭蕉の存命中から好評を博

したようで、これは作者自身の自負に加えて、門人の称

揚・鼓吹に負うところが大きいと言われている。それが

近代に入ると、かの正岡子規が「歴史上の重要性はあっ

ても、第一の佳句とは言えない」といったひねくれ者特

有の見解を打ち出し、それに乗じて「もしや駄作に過ぎ

なかったのではないか」といった極論を持ち出す輩も出

て来たのだそうな。評価は人それぞれで然るべきだが、

それにしてもこの句を「駄作」と切り捨てて恥じないよ

うな徒輩は、私には感性が歪んでいるとしか思えない。 

 以下は全くの私見だが、この句は「古池」に象徴され

る無音の静止した時空に、小さな生物が飛び込んで微か

な音を立てるという、極めて微小な動きを投じる事によ

って、そののちに訪れるであろう更なる静穏・寂寞の情

趣を、見事に暗示し得た名句であると思う。ここには正

に「さび」の理念が具現化されているが、換言すれば、

この句の眼目は「閑」である。前頁の辞書に有った「ゆ

ったりと落ち着いて静かなさま」では足りないものを、

そして「Calm」の意義だけでは及ばないものを、言わ

ばその一字に内包された言い難いニュアンスを、この句

は或る細末な光景を描写するだけで、暗黙の内に醸出し

て已まない。よってもし「閑とは何か」と問われたら、

この句を提示すればそれで事足りるだろう。むろんこれ

は言語による表現、なかんずくその最も純粋な形態であ

る「詩」を用いた事例だが、思うにそれを視覚表現にお

いて、中でもその最も純粋な形態である「絵画」で成し

得たのが、冒頭に記した中西さんの新作、即ち今回の案

内状の作品である。よって再び「閑」を問われたとした

ら、芭蕉の句と同様にこの絵を指し示せば、人はその義

を沈黙の中に感じ取るだろう。タイトルを見るまでもな

く、この作品の醸し出すものこそ「閑」に他ならない。

 

 清々と柔らかな陽の入る室内に、素焼きの壺と古風な

木箱(トンケと呼ばれる収納箱で、李朝家具の一種らし

い)だけが置かれた、極めて簡素な風景。地も背景も、

一切の説明が省かれているため、具体的な部屋の作りは

不明だが、描かれたモチーフの前方に僅かな影が落ちて

いるという事は、光源は後方の上部に有るのだろう。い

や、影の輪郭が仄かに滲む所をみると、それは光源とい

うよりは、障子等を通して拡散された、淡い間接光なの

かも知れない。穏やかに澄んだ空気の中、上下の中央線

からは幾分上方に位置し、ほぼ左右対称に置かれた二つ

のモチーフは、見ていると「置かれている」と言うより

は「定位している」という感を持つ。ただ置かれている

だけではなく、揺るぎなく定まっていると言うべきか、

在るべき物が在るべき場所に位置し、静やかに泰然と動

じない、そんな印象を見る者に齎すのである。構成のバ

ランスとパースペクティブ、加えてモチーフのフォルム

・カラー・テクスチャー、それらが絶妙に相俟ってそん

な印象を作り出すのだろうが、それ故にこの絵画を満た

す時空間は、静寂や静謐といった形容詞だけでは言い表

せない、或る独特の情趣を孕む。思うに静寂や静謐とい

う状態には、時に憂愁や悲哀・寂寥といった情感が滲む

だろう。しかし、この中西さんの描き出す時空では、そ

のような情感が綺麗さっぱりと消し去られているのであ

る。情感がない──と言うと、何か無機的なものを連想

させるが、決してそのような意味ではない、情感が喜怒

哀楽等の感情から湧き上がるものだとすれば、それらの

感情からは清爽と離れている、その謂と言えば、ご理解

頂けるだろうか。今回の案内状に、私はこのように書い

た──「(ここには)音も無く、動くものも無く、時も

なお動かず、全ては穏やかに澄み渡り、もはや如何なる

迷乱も無い」。所詮は喜怒哀楽の感情も迷いの内に在る

のだとしたら、ここには喜びもない、然りながら哀しみ

もない、楽しい訳でもなければ、苦しい訳でもない、そ

のような一切の迷執を超えて、坦々として安らかな、ひ

たすらに曇りのない世界が広がるのである。蛇足ながら

「穏やか」「安らか」といった言葉には、何処となく弛

緩したイメージも感じられるのだが、ここにはどう見て

も一抹の弛緩も感じられない。しかしながら、何かしら

硬く張り詰めたものが有るのでもない、矛盾した言い方

になるけれど、凛として背筋の伸びた安寧が有る、その

ように言えば、少しはこの情趣に近付き得るだろうか。

 我ながら、何をくどくど書き連ねているのだろうと思

うのである。そもそも、言い難いものを言おうとする事

自体に無理があるのだが、それでも中西さんの世界が湛

える「閑」の輪郭ぐらいは、浮かび上がらせる事が出来

たのかも知れない。しかし、言葉は輪郭を示すだけであ

り、そこが言葉の限界でもある。言うまでもなく、輪郭

の内部を満たす実質は、人それぞれに「感じて」得る他

ない。同じ「閑」でも、芭蕉のそれが何処か漠とした陰

翳を感じさせるのに対し、中西さんのそれはあくまでも

晴明である。むろん、色調によっては深い陰翳に染まる

作品もあり、そこは画家ならではの多様なヴァリエーシ

ョンが展開される訳だが、今回の案内状に掲載した新作

のような、明るい白日の採光に満ちてなお、そこはかと

ない寂静の気韻を感じさせるその表現は、中西さんだけ

に可能な稀有の技と言えるだろう。この作品を見ている

と、俗事を離れた閑寂の心とは、何も山深い古刹にのみ

住まうものではない事が分かる。おそらくそれはこの俗

事にまみれた巷間の、白日の平生にこそ宿るのである。

 

 先述したように、中西さんの作品タイトルには「閑」

の他にも「寂」という言葉が時折見受けられる。どちら

も「静けさ」の意を持つ事から、共に同じように用いら

れる場合も多いが、一方で「寂光」や「寂滅」といった

熟語にも用いられる事から、それが涅槃や彼岸の意も併

せ持つ一字である事が分かる。言うまでもなく日本人で

あれば、「寂滅」をそのまま「寂しく滅ぶ」と読む人は

居ないだろう。「ニルヴァーナ」というサンスクリット

原語から推量しても、解脱や生死に関する意義が「寂」

の一字には含まれており、ならば私如きの浅慮が到底及

ぶ所のものではない。よって襤褸の出る前に分外の論及

は已めておくけれど、但し「論ずる」よりはそれが「感

ずる」ものだとしたら、私にも可能な範疇と思われる。

何故なら「寂」も「閑」と同様、極度に言い難いニュア

ンスを孕むので、所詮はそれもまた、理論よりは感覚の

領域に属する義であろうから。以下僭越ながら、それに

関するささやかな体験を記して、本稿の結びとしたい。

 10年ほど前の話になるだろうか、鎌倉のアトリエを

訪ねた折、あたかもパノラマのような大作が置かれてあ

った。横1.5m 程、その全面が見渡す限りの枯野原、

その中を緩やかにうねる野路が、彼方へと続いている。

「こんなものを描きましてね」と、画家は事も無げに微

笑んでいたが、私はその絵を見た瞬間に「これはもう、

この世には何の未練も無い人の絵だ」と思った。上手く

言えないが、そんな絵だったのである。通常なら蕭条と

した感慨を齎す筈の眺望だが、不思議とそこに悲哀はな

かった。寂寥もなかった。正に彼岸の如きその風景は、

むしろ爽快でさえあった。その後、予期せぬ罹患をされ

て、困難な闘病の経緯もあったけれど、幸い画家は現在

も、この世に留まって画業に邁進されている。今にして

思えば、あの澄み渡るような世界は、如何なる局面に在

っても、常に画家の心奥に開けていたのだろう。実はあ

の時、私はこうも思ったのだ、「ああ、こんな所で死ね

たらいい」と。絵のタイトルはついぞ聞かず仕舞いだっ

たが、聞くまでもなく目前に広がる風景は、その眼目を

ありありと映し出すように思えた。あの瞬間、確かに私

は触れ得たのだと思う、あの言い難き「寂」の真意に。

 

                     (22.02.17)