画廊通信 Vol.225 北のカマリ
高橋竹山に「津軽三味線組曲〈十三潟〉」というアルバムがあって、録音は1974年との記録があるから、かれこれ50年近くも前に発売されたものだ。竹山が十三湖に臨む十三村を訪れた際に、その印象を即興で演奏して組曲としたものだが、通常の三味線演奏の他に尺八の自演や語りも加えた、味わい深い組物になっている。
その中の「語り」とは、日本海の荒い波音をバックに、
竹山が十三村に寄せる思いを訥々と語ったもので、実は
その聞き書きをここに載せようと目論んでいたのだが、
何しろ竹山は生っ粋の津軽弁で、つまりはひどい訛りの
ゆえ、言っている事の三分の一は意味不明である。これ
ではとても聞き書きにはならないので、無念ながらそれ
は断念し、代わって解説の中に、ちょうど十三村につい
ての記載が有ったので、まずはそれを抜粋してみたい。
十三潟──いつの頃からか「十三湖」と呼ばれるよう
になったが元は十三潟と言い、秋田の八郎潟と同じく
湖ではなく潟である。「十三の砂山」の十三であり、
「十三の砂山米ならよかろ、西の弁財衆にただ積まし
ょ」と謡われているように、かつては北前船の寄港で
賑わった良港だったが、今は昔の面影一つないさびれ
た村である。正確には青森県北津軽郡市浦村十三(現
在は五所川原市の飛地)。この地には、古くからこん
な俗諺があるらしい、「田がなくても米がたくさん、
山がなくても木がたくさん。春になってもカッチョを
取らぬ、夏になっても蚊帳いらぬ」。前半の二つは、
かつて港として繁栄した時代の事だろう。カッチョと
いうのは防風柵と雪囲いを兼ねた木柵の事。ヤマセと
呼ばれる偏東風が強いため、夏は涼しく蚊も少ない代
わりに、冬期はシベリアからの強烈な北西風が吹きす
さび、酷い積雪になるので、カッチョは一年中取り除
けない。砂に埋もれたような家々が、このカッチョに
堅固に取り囲まれている光景は、日本海の波涛と海鳴
りの中で、いっそう荒涼たる印象を与える。今は出稼
ぎに出ているのか、村に入った道でも一人の人間にも
出会わなかった。猫も居ないという感じであった。湖
のほとりには、何艘かの廃船が打ち捨てられていた。
歩きながら竹山が、昔はボサマ(盲目の旅芸人)の嫁
は、津軽のこの辺りから多く貰ったものだった、とポ
ツンと言った。かつて、嫁の来手のなかった貧しいボ
サマと、同じように貧しかったこの地方の娘と、貧し
い者同士が結ばれ、肌を温め合って生きて来たのだ。
厳しい気候と貧困とが二乗され、まるで吹雪の後の吹
き溜まりのように折り重なったこの風景の中で、正に
そこを生き抜いて来た竹山の耳に聞こえたもの、見え
ない眼に映ったものは、どんな情感であったろうか。
以上は、竹山を世に広めたプロデューサーである佐藤
貞樹氏の筆だが、津軽の辺境・十三の風土はここに尽く
されているだろう。先述のアルバムは、実際にこの十三
村で録音されているので、この風土があってこその演奏
だったと言える。ちなみに私、竹山は昔から好きだった
もので、CDも何枚か持っているのだが、中でもアング
ラ劇団の拠点として先鋭的な若者達の集った「渋谷ジャ
ンジャン」に、竹山が三味線一本持って乗り込んだ時の
録音は、中学の頃から何百回聞いて来たか分からない。
当時竹山は63歳、前衛芸術の発信地ともなれば、観客
は民謡などには縁もゆかりもない若者ばかり、そこに竹
山は津軽の土臭い民謡を引っさげて、真正面から斬り込
んだ訳だ。今でこそ有能な若手演奏家によって、三味線
の古臭いイメージも一新されたが、当時は三味線奏者が
前衛劇場の舞台に立つなどと云う事は、あたかも侍が現
代に迷い込んだかの如く、かなり異様な光景だったので
はあるまいか。しかし演奏が佳境に入るに連れて、熱い
血潮が滔々と流れゆくような竹山の三味線に、世代を超
えて観客もグイグイと引き込まれ、やがて溢れんばかり
の共感が会場一杯に満ちて、竹山の独壇場がそこに現出
しゆく様が、録音を通してであれ手に取るように分かる
のである。演目の合間に、竹山はこんな話をしている。
私はこの三味線と云うものを、あまり好きではなかっ
た。しかしその当時は、盲学校と云うものも有りませ
ん。我々目の見えねえ者は、生活するに困りました。
目の悪い人とか、足の悪い人とか、三味線弾いて「も
らい」に来たもんですよ。乞食ですね、要するにね。
中には立派な芸人もあったかも知れませんが、我々の
当時は芸が上手で歩いたんでありません、生活に困っ
て歩いたんですよ。私達は、そうでありました。三味
線弾く者は、汚い名前で呼ばれたもんですよ、「ボサ
マ(盲目の旅芸人を指す蔑称)」なんてね……。今は
三味線弾いて「芸人様」なんて、とんでもねえ話だ。
吐き捨てるようにそう言った後、竹山はおもむろに弦
の調子を合わせて、不意に「よされ節」を弾き出すのだ
が、その一種消し難い怒りを秘めて、哀しい血潮のたぎ
るが如く流れる津軽の古い唄は、虐げられし者達の慟哭
する魂が、それでも生きると云う強靭な意志を、切々と
しかし悠揚と歌い上げるようで、いつ聞いても心が震え
る。この時竹山の胸中には、昔年に独り歩いたあの貧し
き村の、酷寒の風雪が吹き荒んでいたのかも知れない。
閑話休題、竹山を通して「津軽」を顕現したいと思っ
ていたら、話が長くなってしまった。言うまでもなく、
上述した津軽の寒村「十三」の地こそが、我らが森さん
の舞台である。50代の半ば頃から、毎年欠かさず通い
続けているとのお話なので、かれこれ16~7年ほどに
なるのだろうか、さすがに今季は行けず仕舞いとの事だ
ったが、昨季は困難な状況下ながら、頃合いを見計らっ
て一足飛びを決めたらしい。ただ、冬場は感染増加によ
る移動規制が予想されたため、普段よりは早めに秋の半
ばに赴いたとの事、案の定まだ雪も冬の気配もありませ
んでしたと、画家は残り惜しい風であった。先に「毎年
欠かさず通い続けている」と記したが、詳しくは年に3
度は足を運ぶそうなので、全体今までに何度通われた事
になるのだろうか。その度毎に、画家は独り画材を抱え
て、更にうら寂れた村外れの砂山へと向かう。私自身は
未訪のゆえ、知ったような事は言えないのだが、絵や画
像を見る限りでは、村の傍らには十三湖が広がり、湖面
はそのまま日本海へと繋がって、そこには幾重にもうね
る砂丘が何処までも続く。この地に立ち、正にこの地で
描かれた素描が、今回の出品作品である。この現地に取
材した素描を元に、画家はアトリエで油彩画を起こして
ゆく訳だから、それは確かに「素描=デッサン」と言っ
ても、特に問題は無いのだろう。従って、今回の展示会
タイトルも「素描展」と銘打った訳だが、そうしておき
ながら、私には今もなお、それは妥当だったのかと云う
逡巡が残る。果たしてこれは「素描」なのだろうか。よ
く用いられる「デッサン」や「ドローイング」と云う呼
称は、完成された油彩画を指す「タブロー」の対義語と
して、通常は「エチュード=習作」と云うニュアンスを
孕む。「エスキース=下絵」と云った言い方もあるが、
いずれにしろそこに、完成された作品としての意義は稀
薄である。それを踏まえつつ、改めて今回の作品群を見
渡すと、これはどう見ても「素描」と云う言葉に甘んず
るべき作品ではない。油彩を「カンヴァス・ワークス」
と呼ぶのなら、これらは「ペーパー・ワークス」と呼ぶ
べきものだ。ここには、カンヴァスとは異なるペーパー
ならではの表現があり、言うまでもなくそれはれっきと
した完成度を湛える。木炭・ペン・コンテ・パステル・
水彩・アクリル・インク等々、様々な描材を駆使して描
き出された作品には、現地の制作だからこその瑞々しい
息吹が宿り、しばらく目を凝らしていると、今しもその
呼吸が聞こえて来るかのようだ。ここには明らかに、素
描を超えた表現がある。思にそれは、森幸夫と云う画家
の卓抜の描写力と相俟って、通えども通えどもなお画家
を惹きつけて已まない、辺境・津軽の地が津々と放ち続
ける、強靭なアウラの為せる業とも言えるのだろうか。
一昨年の初回展は、全点津軽を描いた油彩作品による
展示であった。今回は上記の通りペーパー・ワークスに
よる展示となるが、テーマは同じ「津軽」である。さて
ここで考えるべきは、森幸夫と云う画家において、油彩
表現と素描(便宜上そう呼ばせて頂くが)表現の、肝心
の差違は何かと云う問題だ。前頁に「現地に取材した素
描を元に、画家はアトリエで油彩画を起こして」云々と
書いたが、より正確を期すのなら、森さんにとっての素
描とは、決して油彩画の下絵ではなく、むしろ油彩画の
起点とも言うべき位置にある。よって素描から出発した
油彩は、長い時間を経る中で深く熟成され、限界まで抽
象化されて、多くは起点とは掛け離れた終点へと到る。
言うなればそれは「津軽」と云う具体的な地名を、作家
の心奥にのみ存在するだろう或る心象の地へと、ひたす
らに普遍化する道程なのだ。対して素描による表現は、
具体的な「津軽」と云う風土性を、どの作品も濃厚に宿
す。中には砂丘を描いただけの作品もあって、それは何
も津軽に非ずとも、何処の砂丘にも共通する光景に思え
るが、仮に他の砂丘を描いたとしたら、やはりこうはな
らないだろう。ここには油彩による抽象化を経る前の、
言わば新鮮な「生 (き) 」の風土が在り、それは生々しい
現地の手触りを感じさせるものだ。私は何度かこの稿で
「風土」と云う言葉を使わせて頂いたが、改めて思うに
風土とは、その土地の自然のみでは形成されない。そこ
に人間が居て、自然との共生・攻防等々の様々な交わり
を、長い星霜の中で重ねゆく事によって、自ずから醸成
され培われてゆくものだ。その意味で、森さんの素描に
は色濃く「人間」の気配がある。そこに具体的な人間の
描かれる事は稀にせよ、画紙より滲み出す津軽の風土か
らは、そこに生きる人間の息遣いが聞こえるのである。
竹山は弟子の指導に、よく「カマリ」と云う言葉を使
ったと言う。カマリとは、津軽弁で「匂い」の事だ。津
軽のカマリが無ければ津軽の歌ではない、そう説いて已
まなかったと聞くが、ふと彼は津軽を愛していたのだろ
うかと思う。「ボサマ」と蔑まれつつ、辛苦に生きざる
を得なかった土地、それでも竹山にとって津軽とは、お
そらくは愛憎を超えた、自らの寄って立つかけがえの無
い地であったのだろう。それを「故郷」と呼ぶのなら、
森さんにとっての津軽もまた、心奥の故郷に他ならない
のではないか。だから幾度も幾度も立ち戻っては荒涼た
る原野に立ち、故郷の風雪を総身で受け止める。そして
荒ぶる自然に服するでもなく、抗うでもなく、ただ黙々
とその地を生きて、強靭な叢草の如くに根を張る人々、
彼ら名も無き蒼氓の積み上げし風土に、我知らず自らも
融け混んでゆく。やがて描き出された風景には、もはや
詩情や情趣と云った言葉が軽く思える程の、或る根源的
な魂が宿るのである。全て森さんの素描は、現地の風に
打たれ、雪を受け、砂に洗われ、潮を孕んでいる。この
北辺の海鳴りを一杯に宿し、未だ凍て付く風雪を滲ませ
る画紙に、きっと私達は或る確かな匂いを感じ取るだろ
う。それこそが、拭い難きあの「北のカマリ」なのだ。
(22.01.17)