こうして冬がおりてくる    油彩 / 3F
こうして冬がおりてくる    油彩 / 3F

画廊通信 Vol.224            蘇生する花火

 

 

 常々真の表現者とは、私達の持ち合わせない特殊なアンテナを備えた人達だと思っている。彼等の持つアンテナは、通常に五感を通して外界の情報をキャッチする訳ではない。それは何を媒介とする事もなく、ダイレクトに何らかのイメージを捕える、感性のアンテナである。一般に「直感」と呼ばれるその能力は、知性的な言語を全く介さないが故に、往々に当人でさえ与り知らぬものをキャッチするので、そこを源泉として生み出された作品は、時に作家の思惑を超えたものを具現してしまう。

歴史に残る優れた作品の多くが、作家自身には何らその

意図が無かったにも拘らず、何処かしらその時代の空気

を表徴してしまうのは、その故だろうと思われる。その

極めて鋭敏なアンテナが、何に向けて張られているのか

を改めて考えた時、それが身体的な感覚に依らないのだ

としたら、結局は自らの精神の内奥に向けて、なかんず

くあらゆる情報の数限りなく堆積するだろう「記憶」に

向けて張られているとしか、推測のしようがない。無論

そこには疾うに忘却してしまった深層も在り、それを仮

に「無意識」と呼んで差し支えないのなら、寧ろそちら

の方が広大な領域を成すのだろうから、そこからゆくり

なくもキャッチしたものが当人の思惟を超えるのは、至

極当然と言えるのかも知れない。そもそも記憶とは何か

──と云った困難な設問は、哲学や心理学の扱う分野で

あるから、とても私如きの手に負える筈もなく、よって

無益な深追いは已めておくが、ただ、今回の展示会タイ

トル(記憶の縫い目)にも顕著なように、平澤重信と云

う画家の世界を語る時に、この「記憶」と云う面倒な概

念、或いはそこから必然的に派生する「時」と云ったキ

ーワードは、避けては通れないものだ。何しろ「記憶の

破片」「時と記憶の彼方」「記憶の膂力」「記憶の抽斗」

等々、近年の個展タイトルを少々拾っただけでも、件の

言葉は諸所に散見される。ならば分の不相応、この際は

ご容赦を頂くとして、以降精々の短慮を進めてみたい。

 

 まずは「意識」が在る。これに関しても、面倒な定義

は色々と有るだろうけれど、いずれにせよ今こうして考

えているこの状態が意識だ。おそらくは堆積された記憶

の土壌から、五感より入力される外界の情報を刺激とし

て、それは瞬間瞬間に絶え間なく湧き上がる。と言うよ

りは、無尽に湧出する事によって保たれるこの視座を、

「今」と云う瞬間として認識しているのだろう。この視

座から振り返った時、一瞬前の「今」はたちまち「今」

ではなくなり、間断なく積み重なりつつ遠ざかる。こう

して「今」を認識する意識は瞬時に過去形となり、絶え

間なく堆積する「記憶」へと転化する、こう考えてみる

と、言わば「記憶」とは「意識」の過去形であり、視点

を換えれば「意識」は「記憶」の現在形と言えるのだろ

う。この意識の視座としての「今」と、記憶から生成さ

れる「過去」との距離を、私達は「経過感覚」として感

じ取る。無論それは感覚に過ぎないのだけれど、先人は

その感覚と天体の運航を同期・連動させる事によって、

単なる感覚をれっきとした運動法則へと転換し、運動は

力学的に数値化が出来る事から、それは計測可能な数理

的ファクターへと昇格した。「時間」の誕生である──

と、如何にも知ったような物言いをしているが、以上は

あくまでも私見であり、よって信じて頂く必要は全く無

い。ただ、平澤さんの世界を語る上で、その根幹を成す

と思われる「記憶」や「時」と云ったキーワードに関し

ては、その大まかな概観図ぐらいは示し得たかと思う。

 さて、これよりは一般的な「記憶」の概念ではなく、

平澤さんが用いる際の「記憶」を考察しなければならな

いのだが、その前に画家の用いる「時」と云う言葉に関

して、ここで再考しておきたいと思う。と言うのは、以

前この画廊通信において、それについての管見を記した

事があったからだが、そこで私は平澤さんの世界を形成

する重要なファクターとして、全ての作品に流れる特有

の「基調音」を挙げたのち、もう一つの肝要なファクタ

ーとして「時」を挙げ、それをこのように論じている。

 

「時の庭」「時のしぐさ」「時の窓」「時の待ち合わせ

場所」「時の消息」等々、これらは平澤さんが自らの作

品に冠したタイトルである。実際「時」という言葉は、

平澤作品の至る所に散見されるので、それだけでも画家

にとって「時」という概念が、重要な意義を持つだろう

事が分るのだが、ここで一つ問題となるのは、平澤さん

は「時」という言葉を、通常の意味では使ってないとい

う事だ。言うまでもない事だが、通常私達が「時」と言

う場合、それは過去から現在を通って未来へと流れる、

一本の河を無意識裡に思い描いている。しかし平澤さん

が「時」と言う場合は、明らかにそんな通常の意味とは

異なった用い方をしている。少なくとも平澤さんにとっ

ての「時」とは、上記のタイトルから推し量る限りでは

色々な「しぐさ」をして「待ち合わせ」までしたあげく

「消息」を尋ねられるような事まで仕出かすのである。

これは一体、どう解釈したらいいものか……と考えたと

ころで、どうせ答えは出ないだろうから、この際考える

事は已めて、改めてその絵を見てみる事にした。例えば

「時のしぐさ」、思えばかつてこの絵と出会った事が、

平澤さんと付き合せて頂く契機となった。忘れ得ぬ、思

い出の作品である。縦位置の画面を一本の樹木が貫き、

その周囲に平澤さん特有の様々なキャラクターが配置さ

れた画面。飛翔するカラス、振り返るネコ、煙突から煙

をなびかせる家々、階段や鉄棒、それらの間を歩き回る

人物、加えて何かの具象を成す前のフォルムだろうか、

諸所に散りばめられた未定形の断片達。こうして見てい

ると、それら多彩なキャラクターの一つ一つが、作者の

内奥に我知らず刻印された、諸々の記憶の欠片のように

も思えて来る。それぞれの欠片が、それぞれの仕草を為

して、それらが微妙に響き合いながら、総和としてある

独自の時空が形成される……、そう考えてみると平澤さ

んの言う「時」とは、その時その時の小さな記憶、つま

りは「記憶の欠片」の総体を指すのかも知れない。そん

な欠片が画面上に絶妙のバランスで配置された時、そこ

には最早「古い」も「新しい」もない、或いは「遠い」

も「近い」もない、全てが同一平面上に置かれる事によ

って、過去から未来へと流れ往く時間の概念も消滅し、

代わって様々な「時」が「記憶の欠片」として自由に交

感する、あの開かれた「場」が現出するのである。それ

が、平澤さんの用いる「時」の意義ではないだろうか。

 

 引用が長くなったが、このように考えてみると、画家

の言う「時」は、即ち「記憶」の派生概念として理解出

来る。とすれば、残された問題は「記憶」のみだ。なら

ば、もう一度問おう──画家の言う「記憶」とは、何を

指しているのか。上記で私は「全てが同一平面上に置か

れる事によって、過去から未来へと流れ往く時間の概念

も消失し」云々と述べているが、これはあくまでも私達

「見る」側の印象であって、安易に「創る」側の意図と

は明言出来ない。しかし、長年平澤さんの作品を見て来

た上で、やはりどうしても「そう見える」と云う事は、

多少なりとも画家自身に、そのような意図が「有る」と

解釈しても、あながち誤謬とは言えないだろう。考えて

みれば記憶の表現において、上述の如く「古い」も「新

しい」もなければ「遠い」も「近い」もない、そのよう

な画面を創り出すためには、画家自身が「過去から未来

へと流れ往く時間の概念」を消し去って、その軛から自

由にならなければならない。とは言っても、それが不可

能である事は、誰もが知る常識だ。私達の精神構造に、

時間と云う感覚(正確には「経過」感覚だが)が先天的

に組み込まれている限り、そこから逃れ出る事は出来な

いのだから。しかし、それでもなお平澤さんの世界へと

分け入れば、見る者はいつしか時間の桎梏から解き放た

れて、いつとも何処とも言えない不可思議の時空を、軽

やかに浮遊する自分を見出す。これは、画家が絵画に仕

掛けたマジックとしか言いようのない現象だが、もしそ

う言っても良いのだとしたら、上述の矛盾は速やかに解

消される事になる。言うまでもなく「誰もが知る常識」

を破る事こそ、つまりは「マジック」に他ならないのだ

から。以前にも取り上げた事があったが、20数年前の

古い案内状に、平澤さんのこんな言葉が記されている。

 

 そこにすべてがあるのに

 何も見えないのは

 いつかの花火の煙だからです

 

 一読して分かったような分からないような、奇妙な響

きを持つ言葉だが、ここには画家の言う「記憶」に関し

ての、ある秘密が隠されているように思える。仮に文頭

の「そこ」を「記憶」と解すれば、画家の思いはにわか

に鮮明になるだろう──記憶の中には全てが有る筈だ、

でもこのように何も見えない、それは全てが遠い日の花

火のように、淡い煙となって消え去り、もはや二度と戻

らないからだ。しかし──と画家は言いたかったのかも

知れない。しかし、そこには紛れもなく全てが有る、そ

れを取り出し、生き生きと蘇らせる事こそ、私の成すべ

き仕事なのだと。そうであるのなら、これは画家として

の宣言であり、言わば「時間」と云う抗いようのないも

のへの諦め──と見せかけた、静かな、そして確固たる

「抗い」の表明である。さて、どう抗い、どうその桎梏

を破り、その上でどうマジックを仕掛けるのか、思うに

それは、画家の生を一時も欠かす事なく貫いて来たであ

ろう「描く」と云う行為の中にしか、答えは無いのかも

知れない。描く事、たぶんそれは平澤さんにとって、記

憶の中に何処までも分け入る事に他ならない。しかもそ

れは知性によって為されるのではない、「描く」と云う

感性の行為によって為されるのだ。それは瞬時に直感を

呼び起こし、そのアンテナはあらゆる記憶の発信を鋭敏

に捉え、時には忘却の彼方に沈む深層から響き到る、極

めて微細な波動までをも感知し、それら無数の周波が縦

横に交錯する仮想帯域で、いつしか過去から未来へと流

れ往くだけの、通常の不可逆的な時間概念は消失して、

代わって解き放たれた記憶の軽やかに浮遊する、平澤さ

ん特有の絵画空間が現出するのである。だからそこには

「古い」も「新しい」もない、「遠い」も「近い」もな

い、ただ記憶の彩度(鮮やかさの度合い)だけがそれぞ

れの輝きを放つ、そう考えた時に、平澤さんの言う「記

憶」の意味も明瞭になるのではないだろうか。おそらく

それは「描く」と云う行為によって、時間からの解放を

可能として蘇生した、あらゆる過去意識の集積である。

 

 かつて平澤さんは語っていた、何もない絵を描きたい

のだと。ただ風が吹いているような、何処となく雨が降

っているような、何かしら香りだけがあるような……。

それはいつの日か、きっと描かれるだろう。画面には何

も無いのに、そこにある全てが見えて来る絵。目を凝ら

すよりは、ただ心を澄ませてみる、するとほどかれた時

の縫い目から、いつかの花火が鮮やかに蘇る。それは最

早、淡い煙となって消える事はない、絵に見入るその度

毎に、生き生きと大輪の花を咲かせ続ける。この時「過

去」は絵の中で、紛れもない「今」を生き直すだろう。

 

                     (21.12.19)