画廊通信Vol.222 アウラ ── 絵画の呪術
藤崎さんの絵の前に立つと、或る名状のし難い独特の感覚に襲われる。作品を目にした多くの方々が、そのような印象を口にされるので、それは私に限った事ではあるまい。対象を自分なりに描いた、というだけには留まらない、より濃密な量感を全面に湛えた、何処か切迫し
た情動を孕むが如き有り様が、どの絵にも共通して感じ
られるのである。これは「美しい」とか「魅力的だ」と
いった次元よりは、もっと根源的な領域から来るものだ
ろうから、その要因を言葉にするのは必然的な困難を伴
う。重厚な色彩、迫真の描写、躍動する筆致、大胆な構
図等々、分析すれば幾つものファクターは挙げられるだ
ろうけれど、真のファクターはそれらの奥底を貫くもの
であり、それは上述の如く「名状のし難い」ものと言う
他ない。それでも、無理を承知で敢えて名状すれば、そ
れは「実在感」とでも言えば良いのだろうか、否応も無
くそこにそれが「在る」という感覚、或る確かな存在が
目前に紛れも無く「居る」という感覚、これこそが私達
見る者にとっての、凡百の画家と藤崎孝敏という画家を
隔てる、最も大きな要因になっているのだと思う。この
圧倒的な実在感は、さて絵画の何処から生起するもので
あろうか──と設問した時点で、既に辟易している自分
が居る。これは、答えの出ない問いなのかも知れない。
順序としてまず考えるべきは、よく耳にする「リアリ
ティー」という言葉だろう。周知のようにこれは「現実
性」と訳されるが、そもそも「現実性」とは何を意味し
ているのか。現実の対象と瓜二つである事──仮にその
意味であるのなら、絵画は写真に到底太刀打ち出来ない
事になる、言うまでもなく写真とは、現実をそのまま写
したものであるから。事実、現在はスマートフォンの普
及と進化によって、誰もが驚くほど安直に写真を撮れる
ようになったので、いつしか現実性という概念が写真を
基準に語られるようになった。そんな時代性の故か、絵
画表現の場においても、対象を一見写真と見紛うほどの
パンフォーカスで描き出す事、つまりは絵画を写真に限
りなく酷似させる事が、即ち優れた現実性の体現に他な
らないのだと、そのように考えて疑わない画家を生み出
すに到っている。いわゆる「写実ブーム」は、ここ20
年近くに亘って美術シーンを席巻したまま、未だ衰えを
見せない状況にあるが、当初は一過性の流行程度の予見
しかなかったように思う。それが、意想外の長期に亘っ
て隆盛を誇る事態に到っている訳だが、そこにはむろん
写実絵画が「売れるから」という、商売上の一因がある
事は確かだとしても、しかしこの尽きる事なく新商品が
生み出される事により、誰もが次々と気移りを繰り返す
消費社会において、単なる流行に留まらないトレンドを
保持している現在の状況は、商売上の理由だけではとて
も説明が付くまい。そう考えた時、写実ブームを長期に
亘って支えて来たその背景が、自ずと見えては来ないだ
ろうか。思うに、飛躍的に進化するスマートフォン等々
のデジタル・テクノロジーを、誰もが際限なく享受する
事によって、現実性の基準が必然的に写真へと移行した
のである。従って、絵画の評価基準も古典的な「写実」
から「写真」へと転換される、その新時代の尺度を視点
とすれば、写真に限りなく似せた絵画こそが、即ち優れ
た絵画として評価される訳だ。その意味で、現在美術誌
等で安易に頻出する「写実」という言葉は誤謬である、
それは「写真」そのものなのだ。ならば、現代の写実表
現に「絵画の」現実性は無い。絵画表現に固有のリアリ
ティーを探るならば、それはデジタル写真画像の影響を
除外した、絵画表現自体から見出さなければならない。
あらためて問い直してみよう──絵画におけるリアリ
ティーとは何か。上記の考察から導き得る結論として、
絵画の現実性は現実の再現と同義ではない、という事は
一つ言えるだろう。考えてみれば、この理念は既に19
世紀の後半、セザンヌの絵画が暗黙の内に提唱したもの
だ。そもそもこの「絵画の現実性」というテーマは、更
に半世紀を遡った19世紀前半に、ダゲレオタイプと呼
ばれる写真技法が登場した時点で、当時のあらゆる画家
に突き付けられた問題であった。つまり、現実をそのま
ま直接に再現する「写真」という技術の発明によって、
画家は絵画表現における「現実性」という問題に、改め
て直面せざるを得なかったのである。セザンヌの美術史
上に起した革命は、正しくそれに対する解答に他ならな
かった。即ち、絵画の真実は現実の似姿には非ず、絵画
は絵画という二次元平面上で完結し、そこに絵画固有の
現実性を表し得れば良い、言わば「現実の誠」と「絵画
の誠」は別であって然るべきだという、伝統的な見地か
らは逆説とも言える理念を、初めて意識的に明言した、
それこそがセザンヌの成した革命の、本質だったのだと
思う。思えば19世紀のアナログ写真の興隆と、現代の
デジタル写真の興隆は、一見極めて類似した様相を見せ
るが、しかし当時の画家が帰着した結論は、現代の画家
とは対極の地平にあった。古典絵画で熟成された写実の
土壌が、現実性の基準を確固として絵画に置いたからで
ある。彼らは絵画の窮地において、絵画を信じたのだ。
さて、それなら絵画固有の現実性とは何を指している
のか。例えばここに一個のリンゴが在ったとする、この
現実を私達はどう認識するだろう。まずは目で見て、そ
れから手で触れて、その際に出る音を聞き、その香りを
嗅いで、最後には食してそれを味わう、つまりは五感を
通して私達は現実を認識し、と言うよりは、五感で認識
し得た対象を「現実」と呼んでいる訳だ。以上を踏まえ
た上で、次は絵画の場合を考えてみたい。ここに一個の
リンゴを描いた絵が在ったとして、それを私達はどう認
識するだろう。まずは目で見て……それだけだ、他の感
覚は一切働いていない、言うまでもなく「視覚」芸術な
のだから。しかしながらそれが優れた絵であった場合、
私達は有り有りと果実の手触りを感じ、香りを思い浮か
べ、食した際の味覚さえも彷彿とさせるだろう。つまり
通常の現実把握は、五感=感覚からそれを受け止める感
性へと順流するのに対し、絵画における認識は、感性か
ら感覚へと逆流するのである。だからこそ、感じる筈の
ない触覚を感じ、匂う筈のない香りを感じ、聞こえる筈
のない音を感じるという、通常では有り得ない現象が生
起する、これは日頃から絵に親しんでいる人であれば、
殊に感動がそこに伴うのであれば、誰もが体験している
事だろう。この時、内的感性の喚起した外的な感覚は、
私達の脳裏に或る「現実」を作り出す。それは或る意味
「錯覚」とも言えるものだが、しかし先述の如く、五感
で認識し得た対象を「現実」と呼ぶのであれば、それは
当人にとっては紛れもない「現実」なのだ。とすれば描
かれた対象は、正に「そこに在る」という様相を呈する
だろう。この時、技法やスタイルといった諸事項は最早
二義的なファクターに過ぎず、全く問題にならない。つ
まり、技術の限りを尽くした写実であっても、そこに実
在が感じられない場合もあれば、逆に写実から離れてデ
フォルメされた具象でも、まざまざとそこに実在を喚起
する作品もある、技法上のリアリズムと絵画のもたらす
リアリティーとは、似て非なるものだ。この辺りで、漸
く結論に近付き得ただろうか──絵画の孕む或る感覚、
即ち「そこに在る」という否応のない実在感、それこそ
が「絵画におけるリアリティー」と言えるのであれば。
こうして話は振り出しに戻る、藤崎さんの描き出す圧
倒的な実在感は、何処から生起するものであろうかと。
昨年の画廊通信において、藤崎さんの或る作品を通して
「美」の概念を探る段で、私はこのように記している。
この魅力は、本当に私の認識に過ぎないのだろうか。
いや、そうではないと、私は即座に否定する。私の認
識がどうこう言う前に、絵そのものが圧倒的な力を放
っているではないか。この明瞭な力の前に、私のあや
ふやな認識などは瑣末なものだ。描かれた形象、色も
タッチもテクスチャーもそれら全てを含めた、抗いよ
うのない実存の形象、この形象の力だけは誰にも否定
出来まい。おそらく「美」とは「形象の力」なのだ。
学者でもない私が「美の概念を探る」などと、おこが
ましいにも程があるが、その辺りはご寛恕願うとして、
しかしながらこの「形象の力」という言い方は、今もっ
て間違いではなかったと思っている。確かに、藤崎さん
の絵が湛えるあの無類の実在感は、描き出された対象か
ら津々と滲み出す、強靭な「形象の力」の故なのだ。前
頁にも記したように、これは描画の技法がリアリズムか
否か、といった次元の話ではなく、絵画自体のリアリテ
ィーを問題にした考察なのだが、今一度ここで文脈を整
理してみたい。絵画におけるリアリティーの要因が「実
在感」なのだとしたら、その実在感は「形象の力」によ
ってもたらされる。今回はもう一歩踏み込んで、ならば
その「力」とは何か。むろんその答えは、物理的な力学
の範疇には無いのだから、私達の内なる感性に問うてみ
る他ない。言うまでもなく、この場合「力」とは比喩で
あり、それは心理的な範疇に潜む何物かを指している。
この際は再度、藤崎さんの作品に聞いてみよう。卓上に
黙する果実、虚ろに横たわる魚躯、闇に匂い立つ花々、
宙を見据える幼女……、これら独特の絵画空間に身を置
いていると、それは決して見える事はないのだけれど、
何かしら尽きる事なく放射される、或る強靭な光輝に気
が付く。香気とも、或いは霊気とも言えるだろうか、よ
り適切な呼称を探していると、不意に「アウラ」という
言葉が浮かぶ。Aura (ラテン語):人や物が発する、視覚
では捉えられない微妙な雰囲気──辞書にはこのように
出ているが、一般には「オーラ」と言った方が身近だろ
う。但し、今やオーラという言葉は余りに安易に用いら
れるが故、元来の神秘性はとうに剥離されているので、
ここでは敢えて「アウラ」と言いたい。詰まる所「力」
とは「アウラ」だ。このアウラこそが、形象の力の正体
である。そして藤崎孝敏という画家の真髄もまた、この
アウラにあるのだと思う。冒頭にも記した、藤崎さんの
絵画に共通する「より濃密な量感を全面に湛えた、何処
か切迫した情動を孕むが如き有り様」とは、正にこの比
類なき強度のアウラがもたらすものに違いない。ならば
アウラの源泉は何か──といった更なる問いは、最早愚
問であろう。アウラとは「呪術」に他ならないからだ。
言語は、論理であると共に呪術である──これは碩学
井筒俊彦のよく知られた言葉だが、井筒は一貫して論理
(logic) に対する呪術(magic) の優位を説いたと言う。こ
れに倣って「絵画は、技術であると同時に呪術である」
と言っても誤謬ではあるまい。そして付け加えれば、技
術や手法といった上辺の方法論は、遂には呪術を超えら
れないだろう。むろん呪術とは分析を拒否するものだか
ら、今回の論述じみた拙文もここまでである。後は実際
の作品に接し、藤崎さんの駆使する言い難き「絵画の呪
術」に、心ゆくまで陶酔するのみだ。故に今回は、かの
哲人が論考の末尾に置いた言葉で、本稿も閉めたいと思
う──語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。
(21.10.24)