画廊通信 Vol.219 偶然と必然の間
3年ぶり、7回目の「新井知生展」である。今回の案内状に添えた紹介文の前半は、作家自身の言葉を要約したものだが、やはり字数の制限があるため、それだけでは真意が伝わりにくかったかも知れない。よって作家の記した原文を、ここに改めて掲載しておきたいと思う。
2018年の山口画廊の個展では、人間の内部の意識や記憶と、外部の世界との相互関係が、世界像を作り上げているとの考えのもと、外界と関わる中で私の意識や記憶を通して像となったものを、絵画として提示しました。「雨上がりの散歩」というタイトルは、そんな世界に対するピュアで新鮮な感動を表する言葉として、とて
もマッチしていたと思います。
昨年、他の画廊で行った個展では、その意識の流れの
中で、世界との接触の記憶の積み重ねが人間の存在を作
っているとして、曖昧な記憶の断片を形象化することを
テーマとしてみました。記憶自体は個人的なものですが
「思い出すこと」は人間誰しもが常に行っています。私
の作品の線や色、曖昧な形象から、鑑賞者が自分自身の
記憶の深淵へと辿り着き、それぞれの人生の豊かさと大
切さを感じてもらえればという思いでした。
どちらの個展の場合も、人間の描く映像とは、特定の
(何だかわかる)ものではなくて、像を結びきれない曖
昧なもので、そのもやもやした人間像の総体を絵画とい
う形で示すことが、私の目的だったように思います。
今回、コロナ禍の中で約10ヶ月間閉じこもるように
して描いてきて、自分では、人間はただ思い返すといっ
た記憶だけでなく、記憶を辿りながら、あったかもしれ
ない、またはあり得たかもしれない物語や、またはその
先へとイメージとして想いを伸ばすということをしてい
るのではないか、と思うようになってきました。つまり
物語を紡ぐということです。それは実際にはたいして波
瀾万丈な人生ではなくても、どんな平凡に見える人生に
もその人なりの物語があるはずです。自分なりの物語を
紡ぐことで、自分と自分の人生を大切な愛おしいものと
して生きられるのではないか、そんなことを思い、テー
マとして「物語が始まる」という言葉が出てきました。
以前は、線や色が純粋に成立する抽象的な作品でした
が、最近はランダムに描いた線や色面などが時々何かの
形に見えるようなことがあり、何かが見えたときにそれ
を頼りにイメージをたぐり寄せて、作品にするような描
き方になりました。(技法的には)多くの線は直接描い
たものではなく、画面を引っ掻きそこに絵の具を塗り込
めたもので、自分の描きたいものと言うより、偶然出て
きた形をもとにそこから導かれるというやり方に近いで
す。従ってそれらは脈絡のないものですが、そうである
からこそ、その中から見る方が思い思いの物語を紡いで
くれたらいいなと思っています。
少々長くなったが、今回の「物語が始まる」と云うタ
イトルに内包されたコンセプトは、以上で十全に語り尽
くされているので、更なる補足は不要かと思う。それよ
りもここで注目すべきは、作家自らが今回用いた技法に
ついて、後段で言及している点である。「自分の描きた
いものと言うより、偶然出てきた形をもとにそこから導
かれるというやり方に近い」と述べられた部分だが、ご
存じのように当店で扱わせて頂いている作家には、新井
さんのみならず、何故かそのような方法を取る作家が多
い。つまり、偶然を制作途中の誤謬として排除するので
はなく、むしろ積極的に活用し意識的に手法化して、意
図しない偶発的な出来事を端緒に、思いも寄らなかった
表現へと自らを導くやり方である。これについては、今
までに何度となくこの場を借りて、様々に語らせてもら
って来た事なので、またその話か──と食傷気味の方も
いらっしゃるかも知れないが、こと新井さんに関して言
えば、それは単なる「手法」と言うよりは、長く制作の
根幹を貫いて来た「理念」とも言えるものであり、そこ
から時々のコンセプトも派生していると思われるので、
ここで強調してし過ぎる事はないだろう。広く一般には
画家は絵を描く前から、脳裏には既に完成予想図があっ
て、それを具現化するのが制作だと思われている。事実
絵を描く人の大方はそのような描き方だろうし、そんな
制作方法に疑問さえ持たない作家が、未だ世の中には多
いのではないだろうか。この種の絵は、端から着地点が
明確である。よって画家は、そこに向かって真っ直ぐに
歩いて往くだけで良い。この場合、思った通りに出来ま
した──と云うのが最終目標であり、言うなれば「設計
図通りに家が建ちました」と云うのが、画家の理想とす
る制作なのである。その意味で、彼等の考える絵画の制
作理念は、建築家の建造理念とさほど変わらない。それ
で満足出来る人はそれで良いのだろうけれど、稀にそん
な通常の制作に疑問を持ち、結果満足の出来なくなる人
も居るから、芸術の世界は俄然面白くなる訳だ。それな
ら、その満足出来ない人の制作理念とは何か。「思った
通りに出来ました──これではあまりに在り来りだ、そ
んな制作は最早望まない」と、彼は言う。ならば何を望
むのか、と聞き返したとしたら、おそらく彼はこう答え
るのではないか、「思ってもみなかったものが出来まし
た──そんな制作を望むのだ」と。思ってもみなかった
もの──少なくともそれは、自分の意思から出て来たも
のではない、何せ「思ってもみなかった」ものなのだか
ら。ならば、それはどうすれば出て来るのか。答えは一
つだ──思わない事、考えない事、即ち完成予想図を持
たない事、設計図を捨て去る事。だからと云って、カン
ヴァスの前に唯ぼんやりと座っていれば、何かが自然に
出て来る訳でもあるまいから、画家は何かを仕掛けなが
ら、そこに現れるものを待たなければならない、この時
「待つ」と云う行為は、通常の受動的な意味から、むし
ろ積極的な行為へと変換されるだろう。やがて画家は或
る瞬間、いつの間に付けられた点に、何かしらフォルム
の萌芽を見出し、無意識に引いた一本の線から、ふと或
るイメージを浮かび上がらせる、こうして「偶然」が媒
体となり「思ってもみなかったもの」が顕現するのであ
る。こう考えてみた時、画家のカンヴァス上に仕掛ける
様々な行為とは、畢竟偶然を呼び込む行為に他ならない
事が分かる。仕掛けられた偶然、それは思いも寄らない
出会いを作り出し、それによって画家の制作を意思の外
へと解放する、つまり狭い自我を超えた領域へと、制作
の地平を広げるのである。だからこそ画家は、偶然を積
極的に活用し、意識的に手法化しようとするのだろう。
新井知生と云う芸術家は、そのスタンスを早くから鮮
明に打ち出し、自らを貫く理念とした画家なのである。
──偶然によってもたらされたものほど、意図的に作
り上げたものよりも必然性があるように見える、とあな
たは言ってますよね。そう考える理由を教えて下さい。
「純粋だからです。それに生き生きとしています。偶然
に出来たフォルムで大切なのは、それがより有機的で、
より必然的な効果をもたらすように思える点です」
──純粋、それが鍵ですか。
「そうです。意志が直感に、圧倒されている状態です」
──こういうことですか。偶然に委ねるという事は、
深層心理が表面化することだ、と。
「それを言おうとしていたのです。もうひとつ言いたい
のは、深層が必然性を保ったまま、表面化するというこ
とです。脳の働きに干渉されることなく、必然的なイメ
ージがストレートに湧いてくるのです。いわゆる無意識
から、無意識という泡に包まれたまま、つまり新鮮さを
保ったまま、まっすぐ出てくるという感じです」
以上は「フランシス・ベイコン・インタヴュー」から
の抜粋である。画家の率直な言葉が、そのまま創作の秘
密に触れる部分も多く、大変に興味深い資料なので、以
前にも何度かこの場に引かせてもらったが、ここで印象
的なのは、この短いやり取りの中で、ベーコンが3度も
「必然性」と云う言葉を口にしている点である。むろん
画家は「偶然」についてコメントしている訳だが、それ
を語る過程で、相反する概念を重ねて持ち出しているの
は何故か、私達読み手はそれを考えねばならない。ベー
コンの主張を概括すると、凡そこのようになるだろうか
──「偶然に出来たフォルムは、より必然的な効果をも
たらす。それは、意志が直感に圧倒されている状態であ
る。そこでは脳の働きに干渉される事なく、新鮮さを保
ったままの無意識から、必然的なイメージがストレート
に湧いて来るのだ」。ここでまず考えるべきは、ベーコ
ンが「必然」と云う言葉を、どのような意味で用いてい
るかだろう。必然性=そうなる以外に有り得ない事、更
に語義を敷衍すれば「そうなる以外に有り得ないと思え
るほど自然な事」──もし、ベーコンが「必然」をその
意味で用いているのだとしたら、画家の主張はよりシン
プルなものとなる。つまりベーコンの制作において、意
志や意図といった知性的な思考の介入は、感性の自由な
働きを却って妨げてしまう、不自然な状態に他ならない
のだ。それよりは、無意識的な感性を自由に解き放って
おく事が、制作において最も大切な直感を生み出す事に
なり、それを純粋で新鮮なままに保つ事が、より自然な
結果を導き寄せる事になる、そのためにこそ偶然を必要
とするのだと、画家はそう言いたかったのではないだろ
うか。ここでベーコンは、創作の極意に触れている。即
ち必然=作為を離れた自然を導くためには、無意識的な
偶然への信頼が必要なのだと。この逆説とも思えるよう
な言明こそ、新井さんのスタンスと強く響き合うものだ
ろう。偶然こそが必然である世界、この芸術家だけが住
み得る境域で、新井さんのフォルムもまた、軽やかに躍
動し浮遊している。きっとそこは、知性の作為的な干渉
に依らず、直感を信じた者だけが達し得る地平なのだ。
近年新井さんは「抽象」と云う概念に、あまりこだわ
らなくなったように思える。今回の新作群にザッと目を
通しても、具象的なフォルムは至る所に散見される。む
ろんそれらは記号的な形象に留められてはいるが、明ら
かにそれと分かるフォルムは多い。これは何を意味する
のかを考えてみると、偶然から直感的に浮上する形態が
仮に具象的なものであった場合は、それをそのまま描き
出したと云う事なのだろう。もし以前の完全抽象的な見
地であったとしたら、作家はそれをより抽象的なフォル
ムに変容させたのかも知れないが、今や新井さんの目に
は、それこそが不自然な作為と映るのではないか。より
開かれた領域を希求する画家にとって、抽象・具象の区
分けは既に不要なのかも知れない。新たな傾向としても
う一点、かつて新井さんの世界は “Neutral Space”と云
うタイトルに顕著なように、自身と外界を往還する中間
領域に在り、つまりは空間的な場所に在ったと言える。
対して現在、その世界は意識を遡行した記憶に在り、時
に遥かな深層記憶へと引き延ばされる。冒頭の原文に明
らかなように、世界は空間的な領域から、時間的な領域
へと移行しているのである。然りながらそれぞれの時間
において、そこに生き生きと展開される物語は、やはり
それぞれの空間を作り出すだろう。こうして私達見る者
は、開かれた「時空」を逍遥する旅人となるのである。
(21.08.05)