春のこころ(2009)  13版28度摺 / ed.170
春のこころ(2009)  13版28度摺 / ed.170

画廊通信 Vol.211            日本のこころ

 

 

 日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、達観し

 ていて、知性の優れた人物に出会う。彼は何をして時

 を過ごすのか。地球と月の距離を研究しているのか。

 違う。ビスマルクの政策を研究しているのか。違う。

 彼が研究するのは、たった一茎の草だ。しかしこの一

 茎の草から、やがてはありとあらゆる植物を、それか

 ら四季を、田園の広大な風景を、最後には動物や人間

 を描く道が開かれる。彼の生活はこうして過ぎてゆく

 が、すべてを描くには人生はあまりにも短かすぎるの

 だ。そう、これこそ──かくも単純で、あたかも己れ

 自身が花であるかのごとく自然の中に生きるこれらの

 日本人が、いみじくも我々に教えてくれる事こそ、も

 うほとんど新しい宗教ではあるまいか。(1888.09.24)

 

 以上は「ゴッホの手紙」からの一節である。言うまで

もなく、こよなく愛したと言われる「浮世絵」について

の感慨を記した部分だが、生涯を通じて金銭には一切恵

まれず、弟におびただしい無心ばかりを繰り返していた

一方で、大好きな浮世絵だけは、展示会を何度も開ける

程に蒐集していたという事実一つを顧みても、彼にとっ

て浮世絵というものが、どれほど特別な存在であったか

が分かる。むろんゴッホに限らず、マネやモネやドガと

いった印象派の巨匠達が、揃いも揃って浮世絵のコレク

ターだった事はよく知られている話だが、それにしても

ゴッホほどその影響を、率直に自らの創作に反映させた

画家は居ないだろう。輪郭線を用いた作画、明るく鮮や

かな色彩、型破りな構図等々、作品を一見しただけで、

その直接的な影響が随所に散見される事を考えると、ゴ

ッホ独自のあの革新的なスタイルは、むろん印象派の先

達からの継承が根幹にあったにせよ、やはり浮世絵との

邂逅がなければ、決して生まれ得なかったものに違いな

い。いったい浮世絵の何が、ゴッホを始めとした当時の

先鋭達に、それほどの衝撃をもたらしたのか、それにつ

いては以前にも記した事があって、繰り返しになってし

まうのだが、今一度ここで触れてみても、無駄にはなら

ないだろうと思う。ゴンブリッチ著「美術の物語」には

「印象派の勝利には、二つの強力な援軍があった」とい

う提起があり、援軍の一つが「写真」であった事が論じ

られた後に、以下のような論考が続けて記されている。

 

 印象派の第二の援軍となったのが、日本の浮世絵だっ

 た。中国美術から発展した日本の美術は、18世紀に

 入ると今までの伝統的なスタイルを離れて、庶民生活

 に取材した色刷りの木版画を作るようになった。それ

 は極めて大胆な発想と、完璧な技術から生れたものだ

 ったが、当時の教養ある趣味人達は、そういった安物

 の版画を評価しなかった。19世紀半ば、日本は欧米

 と通商条約を結ばざるを得なくなり、その折に輸出品

 の包み紙や詰め物として使われたのが浮世絵で、結果

 ヨーロッパでも茶葉販売店等で、安価で手に入るよう

 になった。その美しさにいち早く着目したのがマネや

 その一派で、彼らは競って浮世絵を蒐集した。折しも

 当時の画家達は、アカデミーの約束事や紋切り型を抜

 け出すのに苦労していた最中で、そんなものには全く

 毒されていない浮世絵を見ていると、自分達がそれと

 は気付かぬままに、如何に西洋の古い伝統を背負わさ

 れていたかが分ったのである。日本人は因習に囚われ

 ない予想外の視点から、世界を眺めて楽しんでいた。 

 北斎にせよ歌麿にせよ、伝統絵画の基本法則がこんな

 にも大胆に無視されている事に、彼らは強い衝撃を受

 けたのである。そしてこの基本法則こそが古い伝統の

 最後の隠れ家だった事に、彼らは気付いたのだった。

 

 という訳で、以上の的確な考察は印象派のみならず、

ロートレックやホイッスラーといった他派に到るまで、

同時代の幅広い作家達に該当するものと思われる。ただ

ゴッホだけは違った。何が違ったのかと言うと、影響の

深度がまるで違うのである。つまり多大な影響を受けた

とは言え、他作家が表現上の影響に留まったのに対し、

ゴッホだけは浮世絵の精神にまで到る、より深く踏み込

んだ影響を感受していた。正確には「浮世絵の精神」と

言うよりは、浮世絵を通した「日本の精神」と言うべき

か、私達の先祖が等しく持ち合わせていた特有の自然観

を、ゴッホは見事に感得していた、その証左は冒頭の手

紙に明らかだろう。日本人の自然観に対して、これだけ

の正鵠を射る洞察を言い得た人は、当時彼を措いて居な

かったのではないかと思う。確かにその表現において、

浮世絵から多くの影響を摂取しつつも、実はその先にこ

そ真の影響が有ったのである。ゴッホにとって手紙とは

自己告白の場に他ならなかったから、日々の出来事から

自らの思考に到るまでを、呆れる程にこまごまと書き綴

っているのだが、その中に読書歴も逐一記されていて興

味深い。それを通覧して分かる事は、読書の大方は当時

の西洋文学であり、日本に関連する書物を読んだ形跡は

全く無いという事実だ。という事は前述のような優れた

洞察を、ゴッホは唯独り、ひたすらに「浮世絵を見る」

という行為だけで導き出した事になる。これぞ、異能の

直観だけが成し得る業(わざ)なのだろう。今一度その

言々を玩味した時、例えば次のような言葉は、文中で画

家の語る句々に、見事に共鳴するのではないだろうか。

 

 自然界の素晴らしい姿に出会うと、ずっとその一部で

 ありたいと思います。「雪嶺」を制作した時もそうで

 した。自然に出会う感動には、目に見えている景色の

 美しさよりも、その自然と同質になれたらいいという 

 思いが強くあります。その中の一つ、草の葉一枚に、

 木一本になっていたい。そういう自然の中の一つにな

 っていたいという願望に身を置いたのは、有明海との

 出会いからです。干潟の海に感動して、見ている時は

 その中の標(みおつくし)の竹一本になっていたい、

 ゆらゆら揺れる波の一つになっていたい、そう思って

 見ていました。今度も枝先になりたいと思って枝先を

 彫っている、この雪になりたいと思って雪を彫ってい

 る、そんなふうに夢中になって一枝一枝一本一本を描

 く、画面に入ってゆくとはそんな事なのでしょうか。

 

 以上は言うまでもなく、木版画家・牧野宗則の言葉だ

が、もしこの一節をゴッホが読んだとしたら、自分の洞

見が如何に正しかったを知って狂喜した事だろう。きっ

と彼も、遥か後代を生きる浮世絵の末裔と同じように、

木の枝になって「糸杉」を描き、星明かりとなって「星

月夜」を描き、麦の穂になって「麦畑」を描いたのだ、

そう考えた時、あの燃え立つが如きフォルムと、めくる

めくようなタッチの「意味」が分かるだろう。手紙の中

で「あたかも己れ自身が花であるかのごとく」と賛嘆し

た日本の画家の、自然と同質になって生きる在り方に、

ゴッホもまた、同じスタンスを置いて描いたのである。

 印象派が近代絵画に革命を起こして約150年、その

間に美術の趨勢も急激な変化を遂げ、革命の端緒となっ

た浮世絵もとうに古典となり、最早現代を切り拓く活力

は持ち得ない。よってゴッホがあれだけ憧れた日本の精

神も、いつの間に消え去って久しい。確かに「日本画」

と呼ばれるジャンルは現在も生きてはいるが、そこには

形骸化された旧態依然の花鳥風月か、単に岩絵具をメデ

ィアとして用いた表現が有るだけで、いずれも私達が普

遍的に内在して来た、あの固有の精神は見当たらない。

「日本の精神」とは何か。身近な自然に神を見る心だろ

う。日本という風土を形成するあらゆる自然の風物に、

私達は当たり前のように神性を感じて来た、かつてゴッ

ホが「これはもうほとんど新しい宗教ではあるまいか」

と驚嘆した所以も、根はその汎神的心性にある。現在ほ

とんどの日本人が忘却しつつあるその精神を、伝統木版

の長年に亘る修練の中で育み、一貫して制作の揺るぎな

い根幹として来たのが、即ち「牧野宗則」という作家な

のだと思う。以下は、今までにも何度か掲載した詩文だ

が、そんな牧野木版の特質を優れて簡潔に表している。

 

 かれの視は/風光のおくの生命のかがやきを/みがき

 あげた技術によって/みごとな木版画に表現した。/

 そこでは/光こそ色であり、/色彩は光そのものであ

 った。/自然が秘した佛性を感得して/思わず礼拝し

 たいほどの/神秘にあふれていた。 丸山豊(詩人)

 

 いみじくも詩人の語るように、牧野さんは自然に秘め

られた奥深い生命を、多様な光=色彩で表現した。特に

1980年代に入って有明海の連作を開始してからは、

浮世絵の最大の特徴であった「墨線」が一作ごとに減少

し、シリーズ初期を代表作する「光る道」の頃には、墨

線を全く廃した色版のみの表現に到っている。もちろん

これは、伝統木版画界では誰一人試みた事のなかった表

現で、最早「伝統木版=浮世絵」とは呼べない領域に足

を踏み入れてしまった事の、紛れもない証左であったろ

う。以降牧野さんは、この色彩版画の道を徹底して突き

詰めてゆく。言うなればこの道は、浮世絵のもう一つの

特徴であった「多色摺り」を、極限まで拡大しゆく手探

りの挑戦でもあった。当初は10数度だった摺りが次第

に度数を増し、いつしか20度を超え30度を過ぎて、

世紀の変わり目には40数度に達し、近年は遂に50度

を超えるというその驚異的な足跡は、伝統木版画の可能

性を真摯に追求した軌跡であると同時に、自然の生命に

何処までも分け入ってゆく困難な道程でもあった筈だ。

こうして牧野さんは旧来の浮世絵を遠く離れ、むしろ西

洋の印象派に限りなく接近するような作風を編み出す。

これはある意味、かつて浮世絵が西洋にもたらした影響

を大胆にフィードバックして、東洋の印象派とも言うべ

き新たな領域を、見事に創出したものと言えるだろう。

 そして今、牧野さんは更なる階梯へ歩を進めている。

それは2009年「春のこころ」から、誠に密やかに開

始された。「墨線」の復活である。ただ、従来の黒を用

いず、淡い藍色で摺られた墨線は、昔日の鋭利な描線と

は趣を異にした、柔らかな味わいを醸し出す。以後、大

作「日本のこころ」を経て現在に到るその歩みは、私達

がつぶさに目撃して来た通りである。思うに、これは只

の伝統回帰ではない。音階を登るとまた同じ音名に戻る

が、それは元の音ではなく、オクターブを上昇した異音

であるように、数十年のループを描いて戻ったかに見え

る牧野さんの墨線も、既にかつての墨線とは違う別種の

フェーズに在る。この柔らかな描線と鮮やかな色彩の融

け合う世界は、また新たな地平を私達に見せてくれるに

違いない。そして言うまでもなく、そこにはより深く極

められた日本の精神が、豊かに息づいている事だろう。

それが即ち「自然の神性」に同義であるのなら、牧野さ

んの木版画は最早「宗教画」と言っても過言ではない。

  最後にもう一つ、故・丸山豊の残した秀逸の讃辞を。

 

 画伯の私室には、禅家の道しるべとでも言うべき「一

 草一木みな佛」が、メモ書きされてピン止めされてい

 ると聞く。これを、かれの語法にしたがうのなら「一

 色一線みな佛」としたためてもよいだろう。牧野版画

 は、いわば多色摺りによって荘厳された天界である。

 

                     (20.12.18)