画廊通信 Vol.186 已むに已まれぬ恋のように
随分と以前の話になるが、この通信に「芸術恋愛論」という大層なタイトルで自論を載せた事があって、とても「論」とは言えないようなお粗末な内容ではあるのだが、その考え自体は今も全く変っていないようである。ただ、あれから年だけは人並みに重ねた故か、当時の考えに補足したい事も二三出て来たので、今回はそれについて少々述べてみたいと思う。まずは当の拙文をここに抜粋してみたい。以下は2009年秋の画廊通信から。
常々思うのだが「一枚の絵を好きになる事」と「一人の異性を好きになる事」は、とても良く似ている。何故か心惹かれ、好きになってしまい、どうにも離れ難くなって、想いは募るばかり、遂には一緒に暮らしたくなって、どうしても欲しくなり、何が何でも戴いてしまう、
この人為普遍の図式は、両者に全く共通したものと言え
る。強いて違いを挙げるならば、恋愛は時に人を破滅へ
といざなうが、芸術は時に人を再生へと導く事だろう。
世に「芸術論」というものがある。或いは「美学」と
いうものがある。いい加減に覗き見ただけなので、知っ
たかぶりは控えるが、いずれにせよそれらが「学問」で
ある事だけは確かだ。長年美術の仕事に携わっておきな
がら、その理論中枢を未だなおざりにしているのは、職
務怠慢と言われればその通り、返す言葉も無いのだけれ
ど、この際はどうせだから怠慢ついで、さもしい自己弁
護を許して頂ければ、芸術を学問で解釈するというその
スタンスに、そもそもは無理があるように思えてならな
い。芸術は感性の領域に属し、学問は理性の領域に属す
る事を考えれば「芸術論」「美学」という言葉そのもの
が、当初から明白な矛盾を孕んではいまいか。即ち、芸
術は「論」ではなく、美は「学」ではない。よってその
根幹を成すものは、決して理性的に分析され、理論的に
構築されるようなものではなく、むしろ已むに已まれぬ
衝動であり、どうにも抑え難き情動だろう。ならば芸術
とは何か、そう改めて問われたとしたら、私は極めて短
絡の答えしか持ち合わせていない。芸術は恋愛である。
芸術に親しむ事を、ある種の教養と捉える人は多い。
だから彼らは芸術を学び、該博な知識を蓄え、話題の展
覧会に足繁く通い、美術館に長蛇の列を作る。しかし、
これだけは確かだと思えるのは、それによって如何なる
博覧強記に到ろうと、その人の目には何も映っていない
という事だ。教養として絵を鑑賞する事は、ちょうど対
岸の火事を鑑賞する事に似ている。その人は決して対岸
への橋を渡らず、向う岸にどんな光景が繰り広げられよ
うと、常に第三者として見物をするだけである。よって
火の粉の降りかかる危険はないけれど、その代わり対岸
で如何に素晴らしい芸術が展開されようと、それはその
人の生きる日々に、如何なる影響も及ぼさないだろう。
芸術に触れて、日々を生きる何処かに、少しでも今まで
と違う何かが宿るのでなければ、芸術の意義は一体何処
に有るのかと思う。対岸に燃える芸術の炎は、対岸への
橋を渡った人にだけ、真の輝きを見せるのである。考え
てみれば、教養もまた理性を土壌とするものだ。従って
感性の土壌から生まれた芸術に、理性的な教養としての
見方など、そもそも有り得ないのではないか、理性的な
教養としての恋愛なんて、何処にも有り得ないように。
解説じみた事を言えば、上記に「対岸への橋を渡る」
とあったその字義は、無論「好きになる事」を指してい
る。ならば「好き」とは何か。「欲しい」という事だ。
これはあれこれ理屈をこねる前に、簡単な英文を思い出
せば済む事で、即ち「 I love you 」と「 I want you 」
が同じ意味である事は、子供でも知る常識だろう、古今
東西「恋愛」とは、いつもそのようなものではないか。
一人の異性を「好き」になるとは、その人を「欲しい」
と思う事に同義であり、同様に一枚の絵を「好き」にな
るとは、その絵を「欲しい」と思う事に他ならない。だ
から「絵を買う」という行為には何の理屈も要らない、
本当に「欲しい」のなら「買う」しかないのだから。世
間では、絵は好きだけれど買った事はない、という人が
大多数だろうけれど、それは買うほど欲しいと思った事
がなく、欲しいと思うほど好きになった事がないという
だけの話、至極単純な道理である。教養で言う「好き」
とはその程度、恋愛は遥かにもっと切実なものである。
さて、この辺りでそろそろ本題に入らせて頂くと、冒
頭に「当時の考えに補足したい事も二三出て来たので」
云々と記したが、その「補足したい事」とは、小林秀雄
の或る講演記録から示唆されたものである。また小林秀
雄か、と食傷気味の方も多いと思われるが、長年に亘り
私淑する思想家なので、この際はご勘弁頂くとして、講
演の中で「読書」の意義を論ずるに当り、江戸前期の儒
学者として著名な伊藤仁斎の言葉を引きながら、小林は
このように語っている。以下は1965年の講演から。
昔の人は今と違って、一冊の本を何度も何度も熟読・
精読したんです。彼らがどのように本を読んでいたかが
分ると、僕らが実に本を読んでいないという事が分る。
伊藤仁斎という人は、50年も同じ「論語」という本を
読んだ、この50年も同じ本を読むという事がどういう
事なのか、今日の人には分らないでしょう。仁斎に、読
書についてのこういう言葉があります。「心に合するこ
と有りといへども、益々安んずる能 (あた) はず。或いは
合し、或いは離れ、或いは従い、或いは違 (たが )う。そ
の幾回なるを知らず」、つまり、なるほど分った、と一
時は思えても、その内に益々分らなくなる、ある時は合
い、ある時は離れ、ある時は従い、ある時は食い違う、
思えばもう何度、それを繰り返して来た事か、そういう
風に本を読んで来たと言うんです。こういう言葉を読ん
でいると、本を読むという事は、まるで恋愛をしている
ようなものだね。付き合って行く内に、心は益々安らか
ではなくなる、或いは合し、或いは離れ、或いは従い、
或いは違 (たが) う……、よく分るじゃないか。これは男
なら女と付き合った時に、女であれば男と付き合った時
に、しかもその間に恋愛関係というものが有った場合、
この言葉はよく分るでしょう。そういう風に仁斎は論語
と付き合い、本と付き合ったんです。仁斎は本を読む事
に関して、熟読・精読・体翫と繰り返し言っている。体
翫とは体で翫味する事、体で付き合う事、これは詰まる
所、本が既に人間という事です。結局読書の真意とは、
信頼する人間と徹底して付き合い、交わる事なんだね。
という訳で、読書についての段を少々抜粋させてもら
ったが、前述した「補足したい事」の内容は、文面から
ほぼお察しの事と思う。つまり、上記は「本を読む事」
について語られたものだが、それを「絵を見る事」に置
き換えても、そのまま意味が通じるのである。例えば、
ある日ゆくりなくも一人の優れた画家と出会う。そして
或る一枚の絵からどうしても離れ難くなり、遂にはそれ
を求めて連れ帰り、自宅の壁に掛ける。きっとその人は
日々を暮らしゆく中で、幾度となくその絵を眺めては魅
了され、美と共に生きる喜びを噛み締める事だろう。し
かし、ある時ふとその絵を見ると、何故かしらいつもの
輝きが感じられない。心持ちが変化した故か、描かれた
世界が何処となく陰り、更には引かれた線に、或いは置
かれた色に、今までには無かった疑問を持つ事さえ、あ
るのかも知れない。そんな日々が続いたある朝、その人
は光の中に思いも寄らず、新たな相貌を見せる一枚の絵
を発見する。そして引かれた線の意味を、置かれた色の
意味を悟り、絵画は更なる輝きを放って蘇るのである。
絵を持つ人であれば多かれ少なかれ、誰もがそんな絵と
の交流を、様々な形で体験されているのではないだろう
か。曰く「或いは合し、或いは離れ、或いは従い、或い
は違 (たがう) 」、そのように一枚の絵と付き合う中で、
人はその絵に秘められた実義に、即ち作家の魂というも
のに、いつしか触れ得るのだと思う。これは、一般に言
われる「絵を鑑賞する」という客観的な行為とは、全く
異なるものだ。「見る」とは「付き合う」事に他ならな
い、あたかも愛し合う二人が付き合い、交わるように。
昨年の12月初旬、恒例の「舟山一男展」が始まって
ほどなく、或る女性客が見えられた。30代、自らも油
彩を描く方で、仮にNさんと呼ばせて頂くが、当店には
つい数日前に、初めて来店された方だった。「案内状を
見て、凄いインパクトがありました。特に、画廊通信に
載っていた『恋』が見たくて来たのですが、この絵です
ね? 素晴らしいです。欲しくなってしまう」、そんな
お話である。何しろ「欲しい」という言葉を聞くと、俄
然勢い付くたちなもので「そうでしょう。好きという事
は、欲しいという事ですからね」と、例の芸術恋愛論を
一席ぶち上げたところ、思いの外いたく共感してくれて
「私もそう思います。その通りですよね」とおっしゃる
ので、すっかり意気投合してしまった。ちなみに「恋」
とは、ハッとした表情で口に手を当てる、若い女性を描
いた小品で、一瞬の恋心を見事に捉えた秀作であった。
その内にNさん、やおらニコッと首を傾げて「私、恋し
てるんです」と、まるで「私、編み物をしてるんです」
と言うような調子で、サラリとおっしゃった。あまりに
予期しない言葉だったので、咄嗟に「そうですか」と、
およそ最も凡庸な返答をしてしまったのだが、続けて話
されるには「好きで好きで苦しくなるぐらい。だからこ
の女性の表情がよく分かるんです、さっきのお話通り、
好きという事は欲しいということですよね」、それから
暫しの間、恋する乙女の喜びと切なさに溢れた告白を、
モーツァルトのディヴェルティメントを聴くような心地
で聞きつつ、苦しくなるぐらいに好かれるとは一体どん
な気持ちなのだろうと、密かにその相手を羨んでいた訳
である。それから半月程を経て、私はNさんに一通のお
手紙を差し上げた。「幸か不幸か『恋』はまだ残ってお
ります。まだそのお気持ちがあれば、この機会に如何で
しょう」、翌々日、Nさんは朗報を持って見えられた。
「私、これ戴く事にしました。毎日考えてたんです。お
手紙をもらって決心が付きました」、そんな訳で「恋」
はNさんの下へと、貰われゆく運びとなったのである。
それから数日後の朝、不意に舟山さんが見えられた。
その日は会期最終の日で、折しもクリスマスの当日だっ
た。個展をお願いした当初は、来店されても5分に満た
なかったのが、近年は来店客さえ無ければ少々の歓談も
して頂けるようになり、よってこの日もより長い在廊を
願っていたのだが、小半時ほどで早くも来客の模様、見
ればNさんである。舟山さん、即刻席を立たれて帰ろう
とされるので、Nさんに「舟山さんです」と、急いでご
紹介したところ「エ~ッ? 滅多に会えないと聞いてま
したので、嬉しいです!」、跳び上がらんばかりに喜ん
で頂き、早速「今、好きな人がおりまして…」と、購入
に到った経緯を話されていたが、頷いて耳を傾けていた
舟山さん、申し訳なさそうに言うには「会わない方が良
かったですね、そんな素敵なお話なら…。私のような者
ですみません」、深々と一礼して帰られたのであった。
感激冷めやらぬNさんの脇で、つい今しがたの美しい光
景を、私は忘れないだろうと思った。さながらそれはク
リスマスに舞い降りた、奇跡の贈り物にも思えたから。
(18.11.26)