夜空のワイングラス (2018)       Acryl / 29x21cm
夜空のワイングラス (2018)       Acryl / 29x21cm

画廊通信 Vol.182       裸の王様への So what

 

 

 マイルス・デイヴィスの楽曲に「ソー・ホワット」というナンバーがあるが、これは彼の口癖をそのまま曲名にしたものらしい。So what = だから何?  クールなジャズマンの、如何にも言いそうな台詞だ。あまり偉そうな事は言いたくないが、近年開催される多種多様な現代アート・イベントを見ていると、ついその台詞を使いたくなる。貴方がたの主張は分るんだけれど、だから何?

 身近な例を挙げると、今年の初頭に千葉市美術館において、小沢剛という現代アーティストの個展が開催され

た。アーティストとは言っても、別に絵を描く訳ではな

い。何しろ、普通に絵など描いていては相手にされない

世界なのだ。ならば何をやっているのかと言えば、例え

ばこの人の代表的な作品に「ベジタブル・ウェポン」と

いうのがある。ネギやらニンジンやらチンゲン菜やら、

種々の野菜を組合せて作った変てこなライフル銃を、美

しいお嬢様が兵士のように構えて、それを写真に撮って

みましたというもので、ちなみにこんな趣旨が添えられ

ている。「数々の国や地域をめぐり、野菜などの食材で

できた銃を手にした女性達を撮影する、ポートレート写

真のシリーズである。おもちゃのような銃は、モデルと

なった地元の女性が選んだ各地の地元料理の食材を組み

合わせて作られている。撮影した後は銃を解体して食材

を料理し、プロジェクトの参加者で囲んで食べる。戦闘

場面のパロディーは一転し、食事を共にするという日常

性と交流の場面へと展開する。このプロジェクトを当初

はアジアの国々で、やがてアメリカ、ヨーロッパ、アフ

リカ大陸と様々な地域で行って来た。このユーモアに満

ちた武装解除のプロセスを、世界各地の人々とコミュニ

ケーションを築き、様々な食文化を取り込みながら続け

ている。人々が互いに敵対し、戦うことの愚かさを静か

に示唆する、平和を問いかけるシリーズといえる」、こ

うして書き写していると、ふつふつと目前のコピーをぶ

ち破きたくなるのだが、そんな個人的感情はさて置き、

前述の写真について「何の意図もありません、こんなの

ただの遊びですよ」と言うのなら分る、それを威風堂々

「プロジェクト」と称して、それだけならまだしも「互

いに敵対し、戦うことの愚かさを静かに示唆する、平和

を問いかけるシリーズといえる」などとご大層に宣われ

た日には、開いた口が塞がらない。本当にそう思うのな

ら、世界中に未だ紛争地は幾らでもあるのだから、そこ

に乗り込んで「ユーモアに満ちた武装解除」とやらをや

って来ればいいのだ。目指せ、紛争地……失礼、このま

ま続けていると、軽くあと1ページ程はかかりそうなの

でやめておくが、たとえそのふやけた平和論を考えに入

れなくとも、野菜の鉄砲を抱えるお嬢様方を見ていると

つい、こう言いたくはならないだろうか ── So what.

 

 別に小沢剛氏を目の敵にしている訳ではないのだが、

現代アートの世界では只のふざけた遊びでも、尤もらし

い屁理屈を附加すれば立派な作品となって、由緒正しい

美術館にも陳列されるという、その一典型として挙げさ

せて頂いた。ちなみに上記のような作品形態は、一般に

「コンセプチュアル・アート」と呼ばれている。その嚆

矢をたどれば、第一次大戦中にマルセル・デュシャンが

発表した「泉」に行き着くと言われるが、これは20世

紀美術の大事としては最もよく知られたもので、男性用

小便器にサインをしてタイトルを冠しただけのものであ

る。何故これが「芸術」なのかと、当時の誰もが思った

だろうけれど、正にその既成の価値観を引っくり返す事

こそが、デュシャンの目的だった。この系統は以降様々

な表現へと派生して「ハプニング」「パフォーマンス」

「インスタレーション」「インタラクティヴ」等々の新

たな手法を生み出しつつ、現代美術界に一大潮流を巻き

起して行ったが、一例にロバート・ラウシェンバーグの

「ホワイト・ペインティング」や、分野を超えて現代音

楽にも派生した例として、ジョン・ケージの「4分33

秒」等が挙げられるだろう。実はこの両者は、バウハウ

スの実験精神を継承する先鋭的な芸術コミュニティーと

して知られた、アメリカのブラック・マウンテン・カレ

ッジで同宿しており、それ故に共通した方法論を有する

に到ったと思われる。作品は説明の必要が無いほどシン

プルなもので、前者は只の真っ白なカンヴァスを壁に飾

ったもの、後者は舞台に上がった演奏者は何も演奏しな

いというもので、演奏時間(?)がそのままタイトルに

なっている。一見誠にバカらしい無意味な遊びに思える

が、その実は劇的な価値の転換によって生起された、あ

る種形而上的な懐疑を媒介として、不可視の可視・不可

聴の可聴という矛盾律を超越する事により、深層イマー

ジュの無限定な解放を可能にした、芸術上のエポックメ

イキングな逆説的挑戦と言える……とか何とか、こうし

て小難しげな熟語を適当に並べてこねくり回せば、何と

なく論文っぽくなるもので、まあこれと然して変らない

ような屁理屈に、更なる哲学用語のスパイスを振りかけ

た学術論文が、まるで裸の王様が見えない衣装をまとう

が如く作品をまとい、おかげでそれは揺るがざるモニュ

メントとして世に承認され、今日まで現代芸術の王道を

闊歩して来た。前頁のデュシャンも含めて3者に共通し

て言える事は、作品自体には何の意味も無いが、それを

作品として提示する事によって、初めて何らかの意味が

生じるという事である。換言すればそれは「作品」と言

うよりは、作品として提示する行為が引き起す「事件」

であり、その意味では確かに、当時のアートシーンに少

なからぬ衝撃をもたらしたと思われるが、所詮は一過性

のハプニング以上の意味は無い訳だから、芸術史上の特

記事項として後世に残りはすれど、それが例えばピカソ

の「ゲルニカ」を鑑賞するが如く、芸術作品として真摯

に鑑賞される事はない。或いは、そんな考え自体が旧態

依然なのだ、画廊や美術館に飾られる「作品」という形

態こそを否定すべきだ、と革新的アーティストは言うか

も知れない。なるほど、斬新な思想だね。ならば貴方の

やるべき事は「アーティスト」をやめる事だ、あのデュ

シャンのように。だからこそ彼は後半生、ほとんど制作

から離れて、チェス三昧の余生を送ったのではないか。

 以下は私見だが、今日の現代アートに必要なものは、

裸の王様を指差して「王様は裸じゃないか!」と言い放

った子供の、至極当り前の視点だと思う。たまには事件

もいい、それも時として必要なものだろう。しかし奇抜

な事件のアイディアと、それを正当たらしめる理屈ばか

りにかまけていては、いずれ美術の本道を踏み外し、挙

句はその逸脱を擁護するために、空疎な詭弁を弄ぶ仕儀

に陥るだけだ。美術作品を、形象化された精神と考える

のなら、やはりそれは何らかの「物」として提示される

べきであり、どんな論文で飾り立てようと「事」にその

本義はない。古い考えと一笑されればそれまでだが、美

術の真髄は「物」にこそ宿る、それを信ずる者だけが、

真の「作品」を提示し得るのではないだろうか。以下は

参考までに、エサ=ペッカ・サロネン(指揮者)のイン

タビューから、ストラヴィンスキーについての発言を。

 

「第二次大戦後、ヨーロッパで書かれた楽曲の多くが、

人々の耳の中ではなく、黒板上でしか生きていない時代

がありました。ダルムシュタット派(当時を代表する前

衛作曲家の一派)に象徴される、ある種の新しい二元論

に皆が陥っていて、どの作曲家も科学者のようになって

しまい、エネルギーの半分だけを作曲に割き、残りの半

分は、自分の音楽について解説したり分析したりと、自

分の理論を作り上げる事に費やしていた。つまり、音楽

を演奏する事よりも、黒板の前で講義をする事の方が、

重要になっていた訳です。その点、ストラヴィンスキー

は常に曲を作っているだけでした。それが彼の仕事、職

業だからです。私はそういう態度が好きなんです。いわ

ゆるプロフェッショナル、職人(アルチザン)なんです

ね。そう、かつてルネサンスの時代に居たような……」

 

 付け加えれば、先述したピカソも同様であったろう。

コンセプチュアルだ、ハプニングだと、次々に打ち寄せ

る新たな潮流を傍に見て、彼もまた黙々と作品を創り続

けた、その揺るがないスタンスは、ストラヴィンスキー

と全く変らない。そして「新井知生」というアーティス

トもまた、むろん時代や方法は大きく異なるにせよ、そ

の制作における立脚点は、彼等と見事な一致を見せる。

こうして今、やっと本題にたどり着いた訳だが、作家は

以前に手記の中で、制作活動を始めた若かりし頃の状況

を、このように語っていた──70年代当時、私が肌で

感じていたのは「絵画は終わった」という雰囲気であっ

た。「ダダ」や「アクションペインティング」に続き、

日本の「具体美術」や「ハイレッドセンター」等の途方

もない活動を知った後では、もう絵など描いている場合

ではないと思わざるを得なかった。事実、私の周囲でも

絵画を捨て立体に変わったり、制作を断念する者が多か

った。私が絵画(平面)を離れなかったのは、何故だか

わからない。平面的人間だから、などど言っても答えに

ならないだろうが、今では運命のように感じている──

ここではかなり控えめな言い方をしているが、常に現代

美術の最前線に身を置きながらも、絵を描くという最も

シンプルな本義、あくまでも絵という「作品」を提示す

るというスタンスを、現在に到るまで捨てなかったとい

う事は、つまりは絵画を信じたという事に他ならない。

そんな事は、画家として当然の事では……といぶかる向

きもおられようが、現代美術の前衛においては、絵画へ

の信頼などとうに破綻しているのだから、ある意味それ

は非常に困難な事でもあり、だからこそ前述したコンセ

プチュアル・アートのような形態も、未だに幅を利かせ

ている訳である。むろん、それらを全て否定するつもり

はない。ただ、その昔裸の王様を指差した子供に、もし

So what と問われたとしたら、その問いに真摯に答え得

る作品は、どれほど有るのかと思う。その点、新井さん

の芸術は、まずは紛れもない「絵画」であり、純粋な視

覚芸術である。当然そこには作家の深い思いが孕まれて

いるにせよ、作品はそれを全く知らずに観る人にも、自

ずからその思いを沈黙の内に放射し、言葉を介さない緊

密な交感を可能とするだろう。それが絵画の、延いては

芸術の力というものだ。加えて言えば「具象」「抽象」

といった区別もその実は無用であり、いずれにしても、

人の心を打つ絵とそうでない絵があるだけだ。周知のよ

うに新井さんは、抽象表現の最前衛を歩んで来た人では

あるけれど、その世界は現代抽象に有りがちの声高な自

己主張とは、全く対極の地平に位置している。何の理屈

も要らない、そこでは柔らかに解き放たれた大気が茫洋

と霞んで、観る人を未知の時空へといざなうのだから。

 

 掲載作品に有る通り、今回の新作には初めて具体的な

タイトルが冠され、それに伴い具象を思わせるフォルム

も登場する。それが却ってモダンな趣を呈しているのだ

が、分類に厳しい御仁は具象・抽象の別を問うかも知れ

ない。その答えは、冒頭のマイルスに再度語ってもらお

う。今や伝説となったワイト島のライヴには、演奏曲目

を聞かれて答えたとされる彼の台詞が、現在もそのまま

曲名としてクレジットされている。マイルスはこう答え

たと言う── Call it anything (何とでも呼んでくれ) !

 

                     (18.07.29)