画廊通信 Vol.174 パラシオスのアトモスフィア
トロンプ・ルイユ(だまし絵)にまつわるよく知られた逸話に「ゼウクシスとパラシオスの腕競べ」がある。古代ローマの碩学として著名な大プリニウスの百科全書「博物誌」を出典とするらしいが、こんなお話である。
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その昔、ゼウクシスとパラシオスという二人の画家がおりました。ある日、どちらがより写実的に絵を描けるか、その技術を競う事になりました。まずゼウクシスが
本物そっくりの葡萄を描きました。その絵があまりに巧
みで本物と見紛うほどだったので、どこからか鳥が飛ん
で来て、絵の中の葡萄をついばもうとしたほどでした。
その見事な出来栄えに満足したゼウクシスは、意気揚々
とパラシオスを振り返って「さあ、君の番だ」と言いま
した。ところが、パラシオスの絵には覆いがかかってい
て、肝心の絵が見えません。そこでゼウクシスは「早く
その覆いを取りたまえ」と急かしたのです。そこで勝負
がつきました。何故なら絵の上に被せられたその覆いこ
そ、パラシオスの描いた絵に他ならなかったからです。
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この話は一読でやめておけば、う~む、なるほど、と
納得させられてしまう。しかし、冷静になって熟読する
に連れて、いや、待てよ、という気になる。よく考えて
みると、パラシオスは「絵の技量」で勝利を得たのでは
ない、誰一人として考えもしなかった「概念の転換」に
よって、逆転的勝利をものにしたのである。言い方を換
えれば、絵の腕を競う真っ向勝負を避けて、「覆い」の
実在を誰一人疑わない、そんな皆の単純な思い込みを、
まんまと利用したのである。これを一般には「だます」
と言うのだろうし、だから「だまし絵」というのだと言
われれば確かにその通り、それで話は終るのだが、やは
り私なぞは職業柄、それは一種の逃げではないか、ずる
いじゃないかと思ってしまう。そんなだまし討ちで画家
の優劣を決められては、たまったもんじゃない。鳥を呼
び寄せるほどの技量を見せてくれたゼウクシス君の才能
は、どうなってしまうのだ。所詮「だまし」は一回切り
である、2回目からは通用しない、ならば堂々と同じ題
材で競い、本当の真っ向勝負を見せて欲しい。その時ゼ
ウクシスに勝つためには、パラシオスはどう描いたらい
いのだろう。以下「ゼウクシスとパラシオスの腕競べ」
続編を考えてみた。旨い勝負が書けましたら、お慰み。
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勝負の結果に納得出来かねたゼウクシスは、再度パラ
シオスに腕競べを挑みました。ただし今度は「真っ向勝
負で」という条件付です。まずゼウクシスが本物そっく
りの優雅な猫を描きました。その絵があまりに巧みで迫
真的だったので、自分の縄張りを荒らされたと思った野
良猫が、絵の中の猫に飛びかかろうとしたほどでした。
今回もその見事な出来栄えに満足したゼウクシスは、自
信満々にパラシオスを振り返って「さあ、君の番だ」と
言いました。見るとパラシオスの画面には、年老いてし
ょぼくれた猫が丸くなっているのです。しかも何だか稚
拙な筆使いで、とても本物には見えません。誰が見ても
勝敗は一目瞭然、ゼウクシスは前回の雪辱を見事に果た
したのでした。ところが腕競べが終ると、負けた筈のパ
ラシオスの絵の前に我も我もと人が集まって来て、口々
に「その絵を売って欲しい」と言うではありませんか。
何故かしら皆一様に温かな涙を浮かべ、中にはすすり泣
いている人さえ居ます。聞いてみると皆が、かつて猫を
飼って、共に暮らした事のある人達だったのです。パラ
シオスの猫を見ている内に、その頃の出来事が次々と思
い出されて、とうに死んだ飼猫との温かな日々が、皆の
心にまるで昨日の事のようによみがえったのでした。あ
まりに欲しがる人が多かったので、後日パラシオスの絵
は競売にかけられました。競り落したのは誰あろう、ゼ
ウクシスその人でした。先日の賞金を全てはたいたので
す。彼にもまた、亡き猫との思い出があったのでした。
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つまらない長話、ご容赦を。古代ギリシャやローマの
時代に、果して猫を愛玩する習慣があったのかどうか、
或いは競売という商制度はあったのかどうか、その辺り
のいい加減さはこの際問わないとして、さてこのまずい
物語において、本当の勝者はどちらなのだろう。この仕
事をやって来てつくづく思う事は、良き絵は意識の深層
に働きかける、つまり普段は自らも意識しない領域へと
その触手を直接的に伸ばし、結果深層に埋もれていた忘
却の思念を、意識の表層へと一気に浮び上がらせるので
ある。その時それは最早「忘却の」思念ではなく、より
「新たな」思念へと変貌を遂げている、延いては一枚の
絵を媒介として、人は新しい自分を発見するのである。
ここで考えるべきは「意識の深層」とは何か、「埋もれ
ていた思念」とは何を指すのか、という問いだが、心理
学的には様々に複雑な解釈が乱立するにせよ、ここでは
端的に「記憶」と言ってしまっても、差し支えないので
はないかと思う。最早自分自身にさえ意識出来ない、遥
かに遠い記憶である。しかしそれはある契機に触れた瞬
間、自身の意思などとは全く関わりなく、イキイキと浮
上して蘇生する。その時の空気を、場面を、自らの気持
ちを、自分でも瞠目するような強度で、ありありと勢い
よく脳裏に蘇らせる。今回いみじくも作家自身によって
「記憶の膂力(りょりょく)」と冠せられたタイトルこ
そ、その強靭な力を語って余りあるだろう。その不思議
な力が、日々に疲れた私達の心に再び活性を与え、明日
を生きる活力を呼び戻す、言うなれば良き絵とはその力
を、縦横に喚起させる絵を言うのではないだろうか。私
の渡されたメモには、画家のこんな言葉が記されている
──記憶の膂力:人生を旅するがごとく生き抜く力、予
測できない様々な困難に立ち向かい乗り越えてゆく力。
平澤重信という作家を語るに当って、私は何度となく
「アトモスフィア」という言葉を用いて来た。上述の文
章を見て頂ければお分りのように、私は常々日本語で表
記出来る言葉は、素直に日本語で書くようにしている。
何も特筆すべき事じゃないだろうと言われそうだが、周
囲を見回せば現実に、様々な横文字が日本語を席巻しつ
つある。今読んでいる本の頁からザッと拾っても、「リ
テラシー」「アウトソーシング」「ロジスティックス」
「ブレークスルー」云々と、まあ次から次へと横文字が
頻出する。「能力」「外注」「物流」「打開」と素直に
書けばいいものを、面倒な事この上ない。ただ現代は、
英語でなければ表記しにくい単語も多い、それも分る。
確かに「布製ゴム底編上げ靴」よりは「スニーカー」の
方がスッキリしているし、「配線接続器具専用差込口」
よりは「コンセント」と記すべきだろう。「アトモスフ
ィア」という言葉も同様で、日本語にはなかなかピッタ
リ来る言葉が無い。反対に言えば、一言では表しにくい
複合的な概念を、その言葉が集約してくれるのである。
「空気感」では即物的すぎる、「雰囲気」では不足だ、
何か漠然としたある気配、そこはかとない風情、とらえ
どころのない陰影、それとなくにじむ情緒、広くは予感
や予兆までをも孕む、言葉にならないある茫漠の概念、
それらをひと言に「アトモスフィア」と言って良いのな
ら、平澤さんの芸術の真髄は、正にそのアトモスフィア
にあると言っても過言ではない。世に「平澤ワールド」
と称されるその独自の世界には、実に様々なモチーフが
登場する。人物・動物は元より、植物・静物・乗物・建
物に到るまで、そこには現実の世界に存在する全てが、
自在に描き込まれる。そしてそれらの多様に混在する要
素は、自身を誇示するよりは互いに響き合い、ゆったり
と混じり合って溶解し、いつしか或る透明なアトモスフ
ィアを醸し出して、画面を静かに満たすのである。以前
にもこの欄に記した事だが、上述のようなアトモスフィ
アの醸成は、大作ほど顕著にその特徴を現す。画集を繙
けばその実例を見る事が出来るのだが、ここに掲載のス
ペースが無いのは残念である。2005年「時の待ち合
わせ場所」、2006年「時の間」、2008年「それ
にもかかわらず」といった当時の代表的な作品は、いず
れも優れて独創的な時空を描き上げた大作だが、この頃
の作品に共通する特徴は、様々なモチーフが描かれたそ
の画面の中心には何も無い、ただ澄み渡るアトモスフィ
アだけが豊かに満ちている、主人公はそこに「在る」の
だが、決して見えないのである。こんな作品を見ている
と、画家はこの見えない主人公を描くためにこそ、見え
るモチーフを多様に配置したのではないか、そのように
さえ思えてしまう。平澤さんの展示をしていると、時折
会場をザッと一回りして「可愛いですね」「メルヘンを
感じますね」で終わってしまう人が居るが、結局そのよ
うな人は、描いてあるものだけを見て感想を述べている
のであって、描かれてないものは全く見えていない。実
は描かれてないものに主題が有るなんて、きっと思いも
しないのだろう。古い案内状に、平澤さんのこんな言葉
が記されている──そこにすべてがあるのに/何も見え
ないのは/いつかの花火の煙だからです──これは実に
味わい深い言葉だと思う。「花火」を「記憶」と読み換
えれば、あなたは記憶の残骸しか見ていない、本当はい
つでも目前に豊かな記憶の源泉があるのに、そんな意味
にも取れる。その源泉から豊饒の記憶を引出すもの、そ
れが即ちアトモスフィアなのではないか、どうだろう。
最後に前述のお話について。勝手に作った話の講釈も
どうかと思うが、パラシオスの猫を見て涙した人達は、
何も老猫の哀れな姿に涙した訳ではあるまい。猫を描い
た「絵そのもの」に埋もれていた記憶が喚起されて、そ
れぞれに猫と過した幸福な日々を思い出し、温かな涙に
暮れたのである。だからこそその絵を身近に置いて、絵
の中に生きる豊かな記憶と共に、再度これからの生を歩
みたかったのだろう。この時、忘れていた記憶を喚起し
た「絵そのもの」とは、具体的に何を指すのかと問われ
れば、それはその絵がそこはかとなく湛える、或る懐か
しいアトモスフィアだと、私はそう答えたい。さて、ゼ
ウクシスとパラシオスの腕競べ、本当の勝者はどちらな
のか。本物と見紛うほどの見事な写実画と、遠い記憶を
まるで昨日の事のようにイキイキと蘇生させる絵画、こ
の際決着はさて置くとして、私もまた迷わず後者が欲し
い。そしてもし、この「欲しい」という気持ちこそが真
実の評価であるとしたら、勝敗は言わずもがなである。
アトモスフィア、それは記憶の強靭な膂力を喚起して、
見る者を新たな地平へといざなう。平澤重信展、今回の
新作もまた、それぞれに豊かなアトモスフィアを湛え、
見る者の中に久しく忘れていた何かを呼び起す。画家自
身の言い方を借りれば、それはいつかの花火である。そ
の鮮やかな大輪に今一度会いたくなった日は、ぜひ触れ
てみて欲しい、平澤ワールドのあのアトモスフィアに。
(17.12.25)