画廊通信 Vol.171 水を描く
ヨーロッパを舞台とした「街並と街路の風景」は、斎藤さんが長年にわたって追求されて来たテーマである。概ねは画面の両側に古い石造りの建物が(と言うよりはその味わい深い壁面が)描かれ、その間を曲折して縫うように、石畳の路地が画面の奥へと延びる。「街」とは言っても、誰もが知るような大規模の華やかな都市よりは、例えばアンダルシアの名も知れぬ寒村や、トスカーナの寂れた城塞の集落といった、およそ絵の対象にはならないようなありふれた小さな街を、画家は好んでモチーフとして来た。更に言うなら、パリ等の大都市やトレド等の古都を描く時でさえ、まるで著名な通りや建物を避けるかのように、わざわざ地元の住人しか歩いていないような、観光とはあまり縁のなさそうな路地裏へと分
け入る。それが、斎藤良夫という画家の培って来た目線
であり、だからこそ描かれたその絵には、日々を暮しゆ
く飾らない人間の営みが、その醸し出す温もりが、濃密
に宿るのだろう。やがて、幾重にも重ねられた絵具のテ
クスチャーの中から、長い時間の堆積が音もなくにじみ
出す時、そこには「斎藤良夫の風景」としか言いようの
ない世界が、確固として静かに立ち顕れるのであった。
前回の企画から3年ぶり、今回で4度目のシリーズと
なる「ヴェネツィア」も、上述の「街並と街路の風景」
という意味では、斎藤さんの描くいつもの街景と、何ら
その本質は変らない。ただ一点、街を貫く「街路」の性
質が異なるのである。ヨーロッパの古い街を走る道が、
通常は年季の入った石畳の街路であるのに対して、ヴェ
ネツィアという特異な古都を走る道は、誰もが知るよう
に「水の街路」である。この「石」から「水」への変換
は、石の街路では持ち得なかった水特有の表情を、鮮明
にその街路へともたらす。その一つは「流動性」、石が
固定された不動の物質であるのに対して、水は常に揺れ
動いて時々の環境に反応する。具体的には、風や折々の
状況に伴って、様々な波形となってその表情を顕す。そ
れは時にさざ波であったり、時にはうねりであったり、
時には航跡であったりと、千変万化その動きは刻々と変
わり続ける。思えば斎藤さんのもう一つのライフワーク
は「海」であり、しかも激しく躍動する外房の海景を、
若年より描き続けて来られた訳だから、流動する水の表
現に関しては、とうに自家薬籠中の物なのである。随分
と以前になるが、その優れた水の表現について、この欄
に「セーヌ川のZ」と題して書かせてもらった事があっ
た。ふと思い出したので、参考までに抜粋させて頂こう
と思う。以下は12年前、2005年の画廊通信から。
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以前勤務していた画廊で、斎藤さんの個展を開いた折
の話である。開幕の数日前だったと思うが、出品作品の
搬入で東金のご自宅まで伺わせてもらった事があった。
この時も斎藤さんは、現在のようにヨーロッパをテーマ
に制作をされていて、部屋に足を踏み入れると描き下ろ
されたばかりの新作が、カンヴァスのままズラリと壁に
立て掛けられて、オイル独特の匂いが部屋中に香り立つ
ようである。リスボンの街角、トレドの城壁、マルセイ
ユの港湾、プロヴァンスの田園、見ていると遥かな旅愁
がいつしかにじみ出して、見る者の心を緩やかに染め上
げてゆく。斎藤さんの絵を見る度に、一種不思議な懐か
しさに打たれるのは何故だろう。そこに描かれている風
景は、概ねポルトガルやスペインの古い街並である事が
多く、私などは行った事もない見知らぬ異国なのに。初
めて見た筈でありながら、記憶の彼方で確かに出会って
いた、遠いデジャ・ヴュの風景、それはたぶん誰の心に
もある、帰らざる内奥の故郷なのかも知れない。絵の中
からそこはかとなく漂う郷愁は、その遥かな故郷に馥郁
と咲く花が、人知れず放つ夢の芳香なのだろうか……。
そんな思いを漠然と巡らしながら、私は作品を額装する
作業に取り掛かったのだったが、しばらくして、パリの
風景を描いた8号ほどの作品を手にした途端に、後ろで
一緒に作業をされていた画家から、突然声が掛かった。
「ちょっと待って下さい」、差し出したカンヴァスを一
瞥した斎藤さんは「これは完成してませんね。少し筆を
入れて来ます」と言う。手前に、渋めのトーンで鈍い空
を映すセーヌの流れが広がり、視線を上げるに連れて狭
まり行くその先に、ポン・デザールと思われる黒い橋が
架かる。その向こうにはシテ島の古い建物が連なり、後
方からノートルダムの方塔が顔を覗かせて、上方には薄
紫に染まるパリの曇り空。時が止まったかのような、沈
黙した静謐の風景。さて、この見事に描き出された世界
の、いったい何処が未完成なのか……、いぶかる素人の
思惑など無論眼中になく、画家は無造作にカンヴァスを
引っ掴むと、さっさと2階のアトリエに上がられてしま
った。ほどなく、トントンと階段を降りる足音と共に、
斎藤さんは5分もしないで戻られた模様である。「これ
でいいです」と私に作品を預け、また額装の作業に専念
される風であったが、渡されたその作品を見て、私は内
心首をかしげてしまった。手前に広がるセーヌ川の水面
に、新たに引かれた数本の細い白線、これは何を意味し
て、何のために加えられたのだろう。画家はこれで完成
と言うが、私の目から見ると以前の未完成の方が、非の
打ち所なく完成されていたようにも思える。何故わざわ
ざこんな線を入れて、せっかくの画面を崩してしまった
のか、この時不覚にも私は、その線の意味を理解出来な
かった。力を抜いて横にスッと引かれた後、斜め下にサ
ッと下ろされ、そこからまた細く横に走る線、それはち
ょうどアルファベットの「Z」のようにも見える。セー
ヌの川面に描かれた、少しいびつな白い「Z」の文字。
その日、新作を車に積んで画廊に帰った私は、夕刻か
ら作品の設営に取り掛かった。ここからが腕の見せ所で
ある。展示会に際して絵というものは、ただ並べて掛け
れば良いというものではない、如何に並べるかが実は最
要の大事なのである。どんなに素晴らしい絵でも並べ方
によっては、その魅力を充分に発揮出来ない事態も有り
得る。そこで私達画廊の仕事に携わる者は、絵の題材・
色味・号数・額縁等々の様々な要素を考慮しつつ、限ら
れた壁面を「これしかない」という配置に追い込んで行
く訳だが、話が自慢めいて来たのでこの辺で已めておく
として、この日も無い頭を絞って数時間を費やしたあげ
く、やっとの事で満足の行く配置と相成った。外を見る
と、いつの間に宵闇も深い。画廊の真ん中でホッと店内
を見回し、端から順々に作品を確認しながら、あのセー
ヌ川の絵に何気なく視線が到った時、思わず私はハッと
息を呑んだ。川面に軽く波が立っている。波を立たせた
ものは、川面をすべる風だ。橋の向こうからこちらに向
って、気持ちの良い風がサーッと吹き渡っている。以前
の静謐の風景もそれはそれで良かったが、今同じ絵は息
を吹き込まれて毅然と立ち上がり、動きを伴った見違え
るように活きた風景へと、鮮やかな変貌を遂げていた。
先刻画家のアトリエにて、近距離で見た時には分らなか
ったあの白い「Z」の文字は、今にして思えば川面に立
つさざ波であり、それは無言の内に風を暗示している。
そうか、斎藤さんは「風」を描いたんだな……。やっ
と理解に到った私は、目撃したさりげなくも見事な画家
の手際に、しばらくは讃嘆の黙礼を捧げたのであった。
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以上は斎藤さんの第6回展に際して書いた文章だが、
どうやら第21回展を迎えようとしている現在と同様、
この時分から物事を簡潔にまとめる問いう能力に、欠け
ていた模様である。おかげで随分と長い抜粋になってし
まったが、水の流動性に関する画家の表現について、そ
の一端はお伝えし得ただろうか。さて、流動性に関する
話はこのぐらいにして、水の街路が持つもう一つの特性
は、言うまでもなく水面の鏡面性であり、そこを舞台と
した光による反映である。これについては今までもこの
欄で、色々と浅薄な管見を書き散らして来たので、今更
加えるような話も無いのだけれど、この水の鏡面で展開
される光のドラマは、斎藤さんの独壇場と言ってもいい
だろう。言うなれば水の街路とは、風景の中に出現した
鏡である。よってその鏡は、時々の光によって様々な景
色を映し出す。水路を挟む建物の倒影、或いは橋梁や樹
木の逆像、その遥かな上方に浮ぶ(顛倒しているのだか
ら「下方」と言うべきか)雲、更にはその先に広がる無
窮の空、時には雲間から覗く太陽を映し、時には強烈な
陽光に照り映える事もあるだろう。それら刻々と移り変
る景色を水の鏡は鮮明に映し出し、古い街並を描いた味
わい深い風景の中に、変化に富んだもう一つの風景を現
出させる。その二つの風景が巧みに溶け合って、やがて
揺るがざる一つの風景がそこに浮び上がる時、斎藤良夫
の「ヴェネツィア」が完成するのである。思うに画家自
身もまた、通常の石の街路では表し得ない、水の街路特
有の変化相に惹かれるが故に、幾度も「ヴェネツィア」
という美しい難問に、飽く事なく挑み続けるのだろう。
3年前のヴェネツィア・シリーズの折に、来店された
お客様と歓談をする中で、私はこのように申し上げた。
「こうして今20点近い作品を展示している訳ですが、
どれ一つとして同じ水の表現がないですよね。色も全て
違うし、描き方も全て違う、これは驚くべき事ですよ」
「そう言われれば、確かにそうですね」と、お客様も驚
嘆されていたのだが、何を隠そう、一番驚いていたのは
かく言う私だったと思う。つい知ったような事を申し上
げてしまったが、実はその事実に気が付いたのは、そう
申し上げる直前だったのである。よって、自分でも心底
びっくりしながら、お客様にその新発見を話したのだ。
事実、何気なく店内の作品を見回していたら、絵の中の
水路という水路の悉くが、全て異なる表情で描かれてい
るではないか。通常の作家であれば、同じヴェネツィア
をテーマとした展示会を開いたにしても、有ってせいぜ
い2~3パターンぐらい、後は大きさやアングルを少々
変えた程度でお茶を濁すのが、関の山なのである。それ
があらためて展示作品を見てみると、ある水路は空を映
して青く染まり、ある水路は朝霧に茫漠と霞み、ある水
路は深い緑色に淀み、ある水路は折しも陽光を浮べて燦
めき、またある水路は夜の闇に沈んでいる、その自在に
して多彩な表現を見ていると、画家の「水の鏡」に挑む
その気概が、ひしひしと迫り来るようであった。右図は
前回の案内状に掲載した作品なのだが、この一点だけで
も、その卓絶の表現をご理解頂けるかと思う。見ての通
り、運河は茶褐色に染まっている。言うまでもなく茶色
は土の色だ。それが何故かこの絵では、見事に水の色と
して機能している。そう、黄昏のカナル・グランデは、
屹立する宮殿の倒影を水面に浮べ、たぎるように落ちる
最後の残照を浴びつつ、今しも暮れゆこうとしている。
「いや~、今年は特に描けなくてね」、先日お伺いした
折、斎藤さんはボサボサの頭を掻き上げながら、そうぼ
やいていた。何だか昨年も一昨年も同じ台詞を聞いたよ
うな気もするので「ご苦労かけます」とだけ申し上げて
おいたが、今頃画家は一人、秋の風が吹き始めたアトリ
エで、ヴェネツィアの街並と、そしてあの水の街路と、
果てなき格闘をされている事だろう。たぶん後半月もす
れば、新作を戴きにまた伺う事になると思うが、画家は
打って変った晴れやかな笑顔で、こうおっしゃる筈だ、
「今朝は3時起きで描いてました。まあ、見て下さい」
(17.09.24)