若い女のポートレート    油彩 / 15F
若い女のポートレート    油彩 / 15F

画廊通信 Vol.170            色は匂えど

 

 

 芝大門の増上寺から5分余り、プリンスホテルの道を隔てた対岸に「東邦アート」というギャラリーが在る。ここは昔から栗原さんをメインに扱って来た画廊で、5月の連休後に開催される新作展が、毎年の恒例となっている。今年は案内状が届いた時点から、ただならぬ予感がしていた。何しろ、掲載されていた新作がピンク色だったのだ。栗原さんのファンであれば誰もが知る通り、「栗原一郎とピンク色」という組み合せは、自民党と共産党の連立よりも、更に有り得ない。あの極力に色彩を抑えた、憂愁に翳るような渋い画面を前にしたら、人はピンクという色が有った事さえ忘れてしまう。それがど

う見てもクッキリ鮮やかなピンク色、「ど」が付くよう

なピンクの背景だったのである、これは衝撃であった。

 

 5月の下旬、早くも真夏が到来したかのような暑い日

中に、私は東邦アートを訪ねた。今回は敢えて額を使わ

ない展示で、今しがた描き終えたばかりのような生々し

いカンヴァスが、壁面へそのまま直に取り付けられてい

る。しかも横に整然と並べる通常の掛け方ではなく、時

には二段掛けも辞さない自由なレイアウトだったため、

会場の随所で大胆なピンクの色彩が際立つ。それは、極

めて斬新な息吹に満ちた光景であった。会場を一回りす

る。裸婦がある、花がある、静物がある、建物がある、

それらの諸所に鮮やかなピンクが散乱している。この色

は何だろう、何ゆえにこの色なのだろう、そんな問いが

湧きつつも答えが見えない。もう一回りする。立ち止ま

って会場全体を見渡す。暫しそんな時間を過ごす内に、

裸婦のバックに敷かれたピンクが、肉体から溢れ出た情

念に思えて来た。我知らず溢れ出した情念の体液。花々

の背景に置かれたピンクは、滲み出た芳潤の花液だ。建

物の後方を染めるピンクの空は、大気に漂う黄昏の強烈

な残香だ。そう、このピンクは、溢れ出た命のみなぎり

なのだ、この大胆に叛乱する色彩は、滅びゆく定めに向

けた命の叛乱なのだ、そう思えた時、新たな栗原さんの

思いもよらぬ挑戦が、すっと腑に落ちた気がした。元よ

り、答えなど無いだろう、画家はひらすらに問う者だか

ら。答えはそれぞれに見る者の、心の中にこそ有る。で

も私には、目前の燃えるようなピンクの繚乱が、無常と

いう否応のない定めに抗う、アグレッシヴな命の叛乱に

思えて仕方なかった。確かにそれは哀歌であったろう、

しかしながら同時に、それは強靭なる讃歌とも思えた。

 不意に「色は匂えど散りぬるを」という、古いいろは

歌の文言が浮んだ。これは「諸行無常・是生滅法」云々

と詠われた、涅槃経のいわゆる無常偈を訳したものとさ

れるが、そんな小難しい理屈など持ち出さずとも、目前

に色は不可思議な幻想の気韻を湛えて、溢れんばかりに

匂い立っている。そしてその色は、散りゆく憂いを切々

と放ちつつ、命の花を今が盛りと咲き香らせている。こ

れは詰まるところ、この十年闘病に次ぐ闘病を重ね、生

死の瀬戸際を越えて来た「栗原一郎」という画家を、私

自身が絵に重ねるからそう見えるのだろうか、と自問し

てみる。いや、そうではない、と即座に私は自答する。

たとえそのような事実を全く知らずとも、更に言えば、

もし今初めてこの絵に出会ったとしても、やはり絵はそ

のように見えるだろう。絵という表現が、画家の魂の形

象であるならば、絵は自ずから画家の魂を宿す、それが

芸術の「力」というものだ。色は匂えど散りぬるを、こ

の歌の意は、そのままここに体現されている。それは散

りゆく哀しさを爛漫と放つ、艶やかな命の色であった。

 

 気が狂ったかと思っただろう、久々に福生のアトリエ

を訪ねた日、画家は開口一番にそう言われた。いや~、

驚きました、と先日の感想を述べた折のご返答である。

悪戯っぽく微笑みながら、いやね、古いピンクの絵具を

偶然見つけてさ、とその経緯を語って頂いたのだが、折

しもある美術紙に栗原さんの特集が掲載されていて、と

てもよくまとめられた内容だったので、ここにはそれを

抜粋させて頂こうと思う。以下は「新美術新聞」から。

 

 新作展を控えて、しかし何も描く気がしなかった。倦

んで絵具箱を漁っていたら、ピンクの絵具を見つけた。

ラベルは剥げヤニを吹いている。買った覚えはないが、

あるのだから買ったのだろう。試しに使ってみると、存

外悪くない。鮮やかで綺麗で、重ねていくのが快感だっ

た。「いよいよ栗原も頭にキテしまったか」、こんな絵

を発表したらそう言われるかも知れない。けれどよくよ

く考えてみれば、自分が生きた街にはピンクが溢れてい

た。「娼婦ばかりのこの街は、確かにピンク色だった」

 終戦後、横田基地に米軍が進駐し、福生の街は活気づ

いた。街中の看板が皆横文字となり、米軍ハウスが続々

と建てられる。朝鮮戦争が起こると、福生には若い米兵

が溢れ、女たちが増えていった。駅の近くに赤線地帯が

でき、5千人もの公娼が街に立っていたと言う。当時ア

メリカ文化は、日本の若者の憧れだった。栗原も高校の

3年間、基地で新聞配達のアルバイトをした。給料は良

く、集金をすればチップも入る。1ドル360円、日雇

い日給が240円の時代に、平気で100ドル以上を稼

いだ。兵士たちと付き合い、パーティーやコンサートに

招かれた。ゲートをくぐればアメリカ、刺激的だった。

 娼婦を描き始めたのは、画学生の頃からだ。子供を抱

えながら、生きるために身をひさぐ女たち。「今みたい

にパートなんてない。それしか選択肢が無かった」、そ

うした女を何十人と描き、共に酒を飲んだ。彼女たちの

背中に、人間の哀愁を感じた。「人間の一番深い所が見

えるのが背中。随分描いたけど、どこを描くよりも疲れ

るんだ」。やがて売春防止法が施行され、赤線が廃止と

なる。娼婦の姿は消えて、街の活気も失われていった。

 武蔵野美術学校を出て、しばらくは団体展に出品する

も「ここにいたんじゃ絵で飯は食えない」と、活動の軸

を個展に移す。モチーフは街から消えた女たち、寂びた

福生の風景、野辺の花。身近なもの、身近だったものを

一貫して描いた。「生き方が絵になると思っている。あ

あしてみたら、こうしてみたらと言われたって、所詮そ

れは借り物だ。モチーフは自分の中にあって、無いもの

は描けない。下手でも不味くても自分と向き合い、描き

続ける事だ」、その哲学は半世紀経った今も変らない。

 この10年は癌との闘いだった。食道癌に始まり、大

腸、膀胱、肺、そして胃。抗癌剤を使い、放射線治療を

受け、肺の手術では肋骨も4本取ってしまった。いずれ

も原発性で、転移はない。「普段の行いが良いから」と

笑って、煙草をくゆらせる。それでも死を身近にして、

人生観が変ったという。死んでしまえば絵は描けない、

生きているうちに描けるだけ描こうと。「戦争で男はた

くさん死んで、残された女たちも悲惨だった。それを考

えたら、一生懸命やらなきゃ罰が当たるよ」。5月の新

作展。代名詞である乳灰色の画面に、目の覚めるような

ピンクの色面が、観る者を一様に驚かせた。しかし、渋

みのある哀感漂う世界に、新たな色は心地よく調和し、

これまでにない味わいを生み出していた。ぽつんと現れ

たピンクの絵具、それはやはり、栗原一郎の色だった。

 

 福生の栗原さんのアトリエに、始めてお伺いしたのが

2005年の春だったから、あれから12年以上が経過

した事になる。当時栗原さんは、60代半ばであった。

同年の秋に当店で初個展を開催させて頂き、それから一

年と少しを経た頃、栗原さんは急遽入院となってしまっ

た訳だが、その後何度辛い入退院を繰り返された事だろ

う。あらためて今、その年月を振り返って驚くべきは、

命に関わる事態もあったろうその状況下で、ほぼ毎年に

わたって充実した個展を打ち続けられて来た事である。

しかも、自身が困難な局面に追い込まれる程に、なお一

層栗原さんはその制作において、今までにない新たな展

開を見せた、まるで何者かに抗い、挑むかのように。難

局になればなる程いよいよその筆さばきは自在になり、

当初の力強く朴訥とした質実な描線から、乱れ舞うよう

な奔放の描線へと変化し、時にそれは抽象の狭間にまで

大胆に接近した。通常人というものは、肉体が弱ればそ

れに連動して、精神も弱るものである。平生に豪気な攻

めの姿勢を見せる人でも、一旦生死に関わる疾患を抱え

れば、途端に守りの態勢に後退するものだが、栗原さん

の画業は(と言うより生き方は)それとは全くの逆で、

肉体がこれでもかと痛めつけられる程に、いよいよ精神

はアグレッシヴに躍動した。ある時は三越や高島屋の展

示会で、ある時は東邦アートの個展で、そして何よりも

当店の個展において、私は何度その圧倒的な現場を目撃

し、その度に驚嘆の念に打たれた事だろう。いつも展示

会を終えた後、作品の返却に福生を再訪するのだが、そ

の折に「来年もまたよろしくお願いします」と申し上げ

ると、栗原さんは決まって「おう、生きてたらな」とお

っしゃる。冗談でも何でもない、真面目な答えなのだ。

だからその言葉をお聞きする毎に「ああ、この素晴らし

い画家と、いつまでもこうして談笑ができたら……」と

私は祈るような気持ちになる。「(裸婦の前で)決して

細かく描いてる訳じゃないのに、どうしてこう肌の触感

が、リアルに感じられるのでしょう」、栗原さん間髪を

容れず「そりゃあ随分と触って来たからな」、こんな粋

な台詞を、いつまでも聞いていたいものだと。そして中

央高速をひた走って帰社すると、日誌にこう書き入れる

事になる──生きて下さい。生きて「描いて」下さい。

 それから一年、幸いにもまた個展の時節が巡って来る

と、こちらの予想など軽々と裏切る斬新な展開を、栗原

さんは新たな気概で見せてくれるのだった。所詮、凡人

の予測など大したものではない、それを小気味よく裏切

ってこそ本物だ、その道理を感嘆の溜め息と共に、見る

者は思い知らされるのである。画家にとって「生きる」

とは「描く」事だ、とは誰もが言う。しかしそれを本当

に体現し、その生き様を絵に出来る人は少ない。「生き

様」という言葉にしても、近年は安易に誰でも使うけれ

ど、本当にその言葉に価する生き方をして来たと言える

のか、「生き様」とは重い言葉だ。あらためて栗原さん

は、徹頭徹尾「画家」なのだと思う。描くという行為を

そのまま生きる営みとして歩まれて来た、正真正銘の画

家なのである。更に言えば、栗原さんにとって「描く」

とは「挑む」事に他ならない。冒険なき安住を望んだ時

が、画家の命運の尽きる時だ、栗原さんなら迷わずそう

言い切るだろう。以前何かの折に、常に変化しゆくその

姿勢に、共感の言葉を申し上げた事がある。栗原さんは

こう言われた。「それはそうさ。だって『明日』という

日は初めて来るんだ、そうだろう? 明日って日は、い

つだって初めてさ。初めてのものを目にした時の、イキ

イキとした気持ちがあれば、昨日と同じ筈がないんだ」

 

 新しい案内状が印刷屋から届いた。無念、あの鮮烈な

ピンクの色が出ていない、今回も撮影の未熟を悔やむ。

栗原さんのより大胆な挑戦は、やはり見に来て頂く他な

いようである。無常の定めに散りゆくものへの哀歌を、

だからこそ爛漫と匂い立つものへの讃歌を、思えば栗原

一郎という画家は、当初からただひたすらに歌い上げて

来たのかも知れない。この極めて稀有な画家の、瞠目す

べき現在進行形を、今年も心よりご高覧頂きたく思う。

 

                     (17.08.31)