画廊通信 Vol.164 言葉の絶える時
本宮さんの作品タイトルは、神話や聖典にその材を求
めたものが多い。顧みれば、東京国際フォーラムで最初
に出会った頃の作品には「宝を地上に詰むな」「善い木
は皆良い実を結ぶ」といったマタイ伝の言葉に加えて、
「七つの大罪」等カトリック教会の用語も付けられてい
たから、私は後日ご本人に話を聞くまでは、敬虔なクリ
スチャンだとばかり思い込んでいた。以降当店における
出品作品を見ていると、「アルゴー」「カロンテ」等の
ギリシャ神話に登場する名前や、「オモヒカネ」といっ
た古事記の神々も登場し、更に今回は仏像を思わせるフ
ォルム等も見られ、特に聖書の枠内に限定される訳では
なく、洋の東西を問わない自由な視野で、広く題材を求
められている事が分る。お話によると、最初から明確な
完成図が脳裏にある訳ではなく、制作の中で浮び上がっ
て来た形を捕らえて、それを端緒に作品化してゆく事が
多いそうなので、おそらくは作品とじっくり向き合い、
長い対話を重ねる途上で、タイトルも自ずから浮び出る
ものなのだろう。とすれば、聖書にしろギリシャ神話に
しろ、あるいは古事記といった日本の神話にしても、そ
れは最初からテーマとして在った訳ではない、ある時点
で作家がそのテーマを作品の中に見出し、換言すれば作
家は自らの作品を通して、ゆくりなくもそのテーマと出
会ったのである。最初の案内状に掲載した「太陽盤」と
いうような作品も、古代エジプトの太陽神からインスパ
イアされたのかどうか、迂闊にして聞き忘れたけれど、
いずれにしろ作家の内奥に沈潜されていたのだろう、い
わゆる「人智を超えた」存在は、作品の制作という行為
の中で、いつしか或るフォルムとなって姿を顕す。それ
は何か言葉にし難い気韻を湛えて、見る者の心へとダイ
レクトに到り、深い祈りと瞑想の時空を提示するのであ
る。その存在が何かというような事は、のちの学究や評
家が論ずれば良いのであって、作家自身そんな形而上学
を述べたいのではないだろうから、それを受け止める私
達にしても、ただ絵の発するものを感じ、そこから響い
てくる声を聞けば良い。そして、その全てが目前の絵か
ら放たれるものであるのなら、ただただ「見る」という
単純な行為に徹すれば良い、そもそも絵とはそのような
ものだろうし、特に本宮さんの創り出す芸術は、そんな
絵画の始原を見事に体現しているのではないだろうか。
以前、現代美術の巨匠アンゼルム・キーファーが、自
らの大作の前で、作品の解説をしている映像を見た事が
ある。キーファーは雄弁に語っていた。それは暗澹とし
た絶望が噴き出したかのような、激しい情念を感じさせ
る作品で、たとえ何の説明も受けなくても、一見してそ
の有無を言わせぬ強烈な放射に、打ちのめされるような
作品だったが、その前でキーファーは、創作のきっかけ
となった背景や制作に当っての方法、作品に込めた思想
等を、流暢な語り口で明るく闊達に弁じていた。だから
どうしたという事もないのだが、ただ、私はそんな芸術
家の姿を見て、決してその是非を云々するのではなく、
やはりこれがロジック(論理)の王国=「西洋」の姿な
んだなあと、あらためて思い知った気がしたのである。
もう一例を挙げると、遥かな昔にミシェル・フーコー
の「言葉と物」を、途中まで読んだ事がある。途中でや
めた理由は言うまでもない事で、当然その難解さに頭が
付いて行かず、単に挫折したからなのだが、その冒頭に
あるのが、有名な「侍女たち」という章である。これは
ベラスケスの代表作である「ラス・メニーナス」を論じ
た章なのだが、まあその微に入り細に亘る論理の粋を尽
すが如き考察には、ただただ圧倒される。まだ読まれて
ない方は、本屋の立ち読みでいいから、その語り口だけ
でも味わって頂きたいと思うのだが、美術に関する西洋
的論理展開を知るには、最も手っ取り早い一冊ではない
だろうか。砕けた言い方をすれば、とにかく理屈っぽい
のである。もしこんな知人が居たら、友達にだけはなり
たくないと思ってしまうような、もはや完璧と言っても
いい理屈っぽさである。画家本人がどう考えていたかな
んて眼中になく、牽強付会も何のその、勝手な理屈をど
んどん発展させて強引に自説へとつなげるその手法は、
誠に見事と言う他ない。とは言いつつも、実は途中から
よく解らないままに読み進めていたのだが、ただ一つ確
実な事は、もしベラスケスがこれを読んだとしたら、唖
然としてこう言っただろうという事である──凄い考察
だね。でもそんな事は、一つも考えてなかったけれど。
さて、私は西洋の伝統あるロジックに反旗を翻そうな
どと、そんな恐れ多い事を考えている訳ではない。だい
たい、蟻が象に刃向かうようなもので、相手にもされな
いだろう。それに、日本の低度な美術評論や幼稚な美術
ジャーナリズムに比べたら、それこそ天地雲泥の差があ
るので、決して西洋の美術論考を正面から否定する者で
はないのだが、ただ、これだけは言えるだろうと思う事
は、美術を「美学」という学問に転じ、宗教も「神学」
に転じ、同様に善悪も「倫理学」で論ずるという、この
全てを論理で語り尽くし、仕舞いには「神」というよう
な人智を超えた存在までも、哲学的に証明する(神の存
在証明)というその一種傲慢な考え方に、そろそろ西洋
自身が限界を感じているのではないかという事である。
そこで、今までは理論が希薄であるという理由で、西
洋からは長らく蔑まれて来た東洋の眼、殊にここ日本の
物の見方(ちなみにインドも中国も、西洋に負けず劣ら
ず理屈っぽい)は、今静かな潮流を成して西洋へと流れ
つつあるように思える。理性よりは感性を重視し、世界
を論理的に分析して理解するよりは、感じる事によって
把握するという世界との接し方、更に言うなら、何かに
触れて感じた心の姿を、ただ言葉もなく味わうという行
為を、「ものの哀れを知る」という美しい言葉で表した
先人の感性に、私は何かしら憧れさえ感じるのである。
少々話が逸れるけれど、故あって幾つかの古典に当る
内に、いつしか気が付いた事がある。私の読んだ数少な
い古典の中だけの話だが、「美しい」という言葉が全く
出て来ないのである。いつ頃から「美しい」という言葉
が今のような用法で使われ出したのかは、浅学にして知
らないが、古語に「うつくし」という言葉はあっても、
それは今で言う「可愛らしい」に近い意味らしいし、他
に「うるはし」や「きよら」といった近似的な言葉はあ
るにしても、それらを統合する「美しい」という言葉は
見当たらない。世阿弥の「風姿花伝」や、本居宣長の物
の哀れ論等、正に「美」そのものを論じた書物にさえ、
それは出て来る気配すらないのである。それなら、そも
そもの出発点である神話に「美の神」は居るかと思って
調べてみたら、古事記の神々を見渡してもそれらしい神
は無く、アフロディーテのような女神は見つからなかっ
た(吉祥天という女神は居るが、残念ながら仏教の守護
神であり、そもそもはインドの出身である)。結局のと
ころ、古人において「美しい」という概念は、あまりに
も自明なもので言葉にするまでもなく、まして神を設定
する必要など更々なかったのかも知れない。これはあく
まで管見に過ぎないが、もしそうだとしたら、「美」と
いう言葉にならないような概念を、理論化して学問にま
で高めた西洋思考との、それは何という違いだろうか。
ここで本宮さんに再び登場してもらうと、年譜からの
計算によれば、本宮さんはバルセロナに住んで30年を
超える。元々カタルーニャは強い民族意識で知られ、美
術や建築の世界でも、ガウディを始めダリ・ミロ・ピカ
ソ等極め付けの個性派を輩出し、近年では最後の巨匠と
謳われたアントニー・タピエスが故人となった事は、ま
だ記憶に新しい。ファンの間では周知のように、本宮さ
んはタピエスの刷り師としても活躍していた人だから、
正に西洋美術の現在進行形が展開する只中で、その息吹
をまともに感じながら仕事に当って来たと言える。しか
し、そうでありながら本宮さんの目線に、ヨーロッパを
宰領して来た思考法とは全く異なるものを感じてしまう
のは、私だけではないように思うのだが、どうだろう。
本宮さんは極めて寡黙である。作品のたたずまいが寡
黙というだけではない、その前に立つご本人も実に寡黙
である。自作品に対しては、問わない限り一切の説明を
しない。問われれば親切に答えてくれるけれど、まるで
作品に自分の全てを託し終えたかのように、よって十全
に人事を尽くした人が悠揚と天命を待つかのように、気
持ちが良いほどに自分を語らない。思うにこのような姿
勢は、ヨーロッパでは極めて稀なのではないだろうか。
私はそんな本宮さんの在り方に、西洋に在りながら西洋
に染まらない、いや、むしろ異郷にあるからこそ故郷の
真髄を知る、そんな日本的な「眼」を感じるのである。
私は先に「絵画の始原」と言った。それは本宮さんの
絵の前に立った時、ただひたすらに見るという最も純粋
な行為を、我知らず取らざるを得ないように導かれてし
まう、そんな強靭な力を秘めた絵の在り方を、そのよう
に呼んだまでの事なのだが、それは自らの魂をとことん
作品に刻み込んで、それ故に最早語るべき言葉を持たな
い、そんな真摯を極めたような作家の在り方と重なる。
だからこそ生まれ出た絵画は、それを成した人の尽きる
事なく滲み出す想いを、強力な磁波の如くに放射して、
見る者を否応なく引き寄せるのだろうし、思えばその磁
場を形成する絵画の始原において、論理は既に存在する
意義を持たない。ただそこに絵画を通した作者との交感
だけが在って、それは感じる事によってのみ揺れ動く、
いわゆる「感動」という体験によってしか為し得ないも
のならば、それは言葉を無くす体験に他ならないのだか
ら、言葉の絶えた地平に論理もまた崩壊するだろう。そ
れが即ち人智の果てる地点を意味するのなら、まさしく
人はその地点で人智を超える。そこは最早「日本的」で
さえないのかも知れず、更に時を遡行した原初の魂とで
も言うべきものが、音もなく降り立つ地であるのかも知
れない。おそらく本宮さんは、その地から何かを汲み上
げ、それはやがて或るフォルムを成して定着する。そし
て画家は、あの真っ正直な字で作品の裏にタイトルを書
き入れ、それは神話や聖典の物語を伴いつつ、沈黙の内
にあの始原を喚起するだろう。本宮作品の完成である。
昨秋パリにおいて、初めての「本宮健史展」が開催さ
れた。1ヶ月半に亘った同展は高評の内に幕を閉じ、そ
の際の展示作品が海を越えてそのまま出品されるので、
4回目を数える今回の個展は、パリからの巡回展示とな
る。更には引き続いて、根津のギャラリー・リブレにお
いても数点を差し替えた巡回展が企画されているので、
時間のある方はそちらも合せてご高覧頂ければと思う。
じわじわと危うい方へ傾く時流を他所に、美術界は変
らず上辺だけの美麗と幼稚なサブカルチャーが跋扈し、
一種能天気な浮薄が虚無的な明るさで蔓延したまま、遂
には「芸術」という言葉さえ死語になりかけている。よ
って東京のど真ん中で辺りを見回しても、本物の芸術に
はとんとお目にかかれない。そんな時、本宮さんの芸術
をまたこうしてご紹介出来る事は、私にとっても望外の
喜びである。ひたすらに「見る」事によって立ち上がる
魂の声を、そして「見る」事の始原に必ず宿るであろう
祈りを、私達は深い沈黙の彼方に聞く事になるだろう。
(17.03.17)