カスティリオーネ      油彩 / 6P
カスティリオーネ      油彩 / 6P

画廊通信 Vol.158          空と大地の間で

 

 

 記念すべき20回目の個展で、こんな話から始めるのもどうかと思うのだが、私はそうめんをいただく時に、薬味をふんだんに入れるのを常としている。葱や大葉はもちろんの事、茗荷・白ごま・刻み海苔、わさび・生姜に唐辛子(浅草やげん堀である、言うまでもなく)、むろん総菜に天ぷらも欠かせない。それに揖保乃糸(だいたいは赤帯である)でもあれば満足だったのだが、つい先日、長くお付き合い頂いている或るお客様から、小豆島のそうめんというものを戴いた。早速いただいてみたらこれが滅法旨い、何と言うかしっかりとした歯ごたえがあって、要するにこしが全く違うのである。なるほどこれが「 THE  そうめん」と云うものかと、いたく感心した次第だが、何故こんな話をしているのかと言うと、芸術もまたこのようなものだなと、食しながらふと思ったからである。もう少し砕いて言えば、「そうめんと薬

味」の関係と、「芸術作品と制作背景」の関係は、まあ

喩えがあまり適切ではないにしても、全く同じものでは

ないかと、そう思ったのである。

 結論から言えば、「芸術作品」が「そうめん」だとし

たら、「制作背景」は「薬味」に過ぎない。もちろん味

を引き立てる意味で薬味も大切だが、本当に旨いそうめ

んは薬味が無くても旨い、世の道理とはそのようなもの

だろう。更に言えば、薬味が過ぎれば肝心のそうめんの

味わいが、引き立つどころか却って分らなくなってしま

う、芸術もまた同じではないかと思う。芸術の鑑賞には

常にそんな危うさが付きまとうが、しかしその危うさを

本当に知る人は少ない。少ないどころか、美術ジャーナ

リズムも美術関係者もこぞってその危うさを増長させ、

却ってより危うい方へと人々を先導するものだから、今

や「薬味を味わう事」を「そうめんを味わう事」と履き

違えている人の、何と多い事か。所詮薬味をいくら振り

かけてみたところで、そうめんの本当の美味しさには、

決してたどり着けないのに。

 作家の人生はこうであった、その作品を描いた時はこ

んな状況だった、大変な困難と逆境を乗り越えてその作

品は描かれた、それにも拘わらず生前は認められなかっ

た、そんな美談や悲話。あるいは、実は絵の中にこんな

意味が秘められていた、解析してみたらこんな裏ワザが

発見された、そんな探偵小説まがいの秘話や裏話。大概

の美術番組はそんな内容に終始し、もっともらしく脚色

された物語で頭を一杯にして、人は美術館へ足を運ぶ。

しかし、そんな知識をいかに得てみたところで、目の前

の絵はさっぱり見えて来ない。何故ならば、それらは薬

味に過ぎないからである。真に力ある芸術は、薬味が無

くても人の心を揺さぶるし、むしろ薬味がなくなるほど

に真の姿を見せる。例えば、ゴッホが精神に疾患を抱え

て苦しんでいた事を知らなくても、ゴッホのひまわりが

放つ強烈な精神を、見る人は否応なく感じ取るだろう。

そして、ゴッホの最後は自殺だったというその知識が、

自殺前に描いたとされる麦畑の絵を見る時、不吉だ、狂

気を感じるというように、絵の見方をゆがめるだろう、

本当は雄大な哀しみを湛えた傑作であるのに。あるいは

近年、ジャーナリズムも学会も一丸となって、田中一村

という物故作家を祭り上げた現象があったが、世俗を離

れて離島へと渡り、清貧の中で独り描き続けた、そんな

「美談」を一旦頭から消さない限り、その本当の姿は見

えて来ない。例をあげていると切りがないのだが、そん

な至極当然の道理が、「制作背景」という物語を創り出

すマスコミに侵されて、今や急速に消えかかっている、

嘆かわしい事だと思う。

 いつの間に話が暗くなってしまったが、以上のような

事はいちいち言わずとも、当店に足を運んで下さるよう

なお客様には、釈迦に説法である事は承知している。そ

れを知りながら、こんな長話にお付き合い頂いたのは、

斎藤さんの芸術と長く付き合わせてもらって来て、あら

ためて斎藤さんの描き出す作品こそは、いかなる薬味も

必要としないものである事を、言い換えれば、いかなる

物語も必要としない芸術である事を、20回目の個展を

記念するこの機会に、今一度はっきりと確言したかった

からである。作品は作品の力だけで勝負する、言うは易

いが、芸術家としてこれほど困難な事はない。その困難

に、斎藤さんは真っ向から向き合い続け、実に坦々とそ

の画業を貫いて来られた。14年という長きにわたって

20回という多きを重ね、この小さな画廊に付き合って

くれた画家に、心からの感謝を申し上げたいと思う。

 

 斎藤さんの絵を見ていると、いつも悠久の大地と郷愁

の大空を思う。その風景がスペインの古都であれ、フラ

ンスの小さな村であれ、イタリアの城砦の街であれ、そ

の下には常に広大な大地が横たわり、見上げれば無限の

蒼穹が広がっている。ただし絵の中の地面は、その多く

が石畳の街路だったり、路地の坂道だったりで、直接に

あの赤茶けた大地が描かれる事は少ない。また、空にし

てもその多くは、建物の狭間からわずかにのぞいていた

り、路地の上方の限られた空間にかいま見える程度に過

ぎず、画面に空そのものが大きく描かれる事は、ほとん

ど無いと言って良い。それにもかかわらず、見る人は何

故かそこに広大な大地を連想し、雄大な空を思い描く。

 斎藤さんの絵がはらむそのような「暗示」は、もちろ

ん自らの手法として巧みに駆使しているものだし、ごく

自然に描かれて作為など感じられないように見えても、

作家というものはそれを秘しているだけで、実は絶妙の

構図感覚や色彩感覚を働かせているものだ。世阿弥の言

葉にもあるように、秘してこそ花なのである。しかし、

作家が確固とした意図を持って描く一方で、我知らずど

うしてもにじみ出てしまうものだって有る。それは作家

の持つ匂いと言おうか、作家特有の雰囲気と言おうか、

なかなか言葉にし難いものではあるのだが、誰でも一枚

の絵と向き合った時に、そんな否応もなく見る人へと伝

播する、ある精神を感じた事はあると思う。「オーラ」

というような安易な言葉は使いたくないけれど、そんな

作品の放つ精神の香りのようなもの、そればかりは作家

本人でも、どうコントロールする事も出来ないものだ。

いわゆる作品の湛える品格やセンス、あるいは深度や強

度といったもの、それらはそのまま作家の人格や感性の

現れだろうから、結局は画家のそれまでの来し方が形と

なったものであり、幾ら技法や秘策を駆使してみたとこ

ろでどうにもならない。生き方はごまかせない、生きた

ようにしか描けないという事か。だから、また前頁の話

をぶり返してしまうけれど、作家の生き方をことさらに

詮索する必要はないのである、一枚の絵の中に、それは

否応なく現れてしまうものだから。

 閑話休題、斎藤さんに話を戻せば、前述した空と大地

の感覚は、作家の暗示によるものであると同時に、「斎

藤良夫」という画家の匂いでもあると思う。20代で渡

欧して南欧の各地を廻り、キャンバスを背負って荒野の

道を歩いた、それから幾度となく各地に点在する街々を

訪ねては、帰るべき心の故郷を描き続けた、その幾星霜

にもわたる天涯への思いが、えも言われぬ情趣となって

作品から香り立つ。そう考えれば、斎藤さんの絵に感じ

られる空と大地の広がりは、そのまま斎藤さんの生きて

来た想いの形でもあるのだろう。だから私は斎藤さんの

絵に、いつも遥かな想いを感じる。あまりそのような体

験はないにしても、茫洋と見晴るかす大地を前にして、

抜けるような大空を振り仰いだ時の、あの雄大にして遥

かな想いだ。それはきっと、狭い島国の感覚ではない、

ユーラシアの西端に位置する欧州の、ことに色濃く土の

香りを湛える南欧の、広大な大陸の感覚なのだと思う。

その地を一人キャンバスを背負って歩いた青年の、そし

て今でも心の中にキャンバスを背負って歩き続けている

一人の画家の、長く果てのない旅路から香り立つ遥かな

旅愁が、郷愁が、画面のそこかしこから、しんしんと尽

きる事なくにじみ出す。私は「斎藤良夫」という画家の

持つ、そんな遥かな匂いが好きだ。

 

「暗示」──これは画家の駆使する様々な手法の中で、

最も高度な手法だと思う。ちなみに国語辞典にはこうあ

る、「物事を明確には示さず、手掛かりを与えてそれと

なく知らせる事」。絵画の場合であれば、わずかに描く

だけで、そこに描かれていない物までを、見る者にあり

ありと感じさせる手法である。例えば「大自然」という

テーマに挑んだとしよう。さて、どう描いたら大自然の

姿を描き出せるだろう。壮麗な山脈を大画面に描き上げ

るだろうか。或いは夢のように美しい絶景を描き出すだ

ろうか。しかし、どんな大画面にどう描いたところで、

実際の大自然には到底及ばないだろう。モネは全く違う

事を考えた。晩年の傑作「大睡蓮」は、その見事な解答

である。この大作で、モネは庭の池を描いた。驚いてし

まう事に、あの2部屋を占める長大な画面を、ただ池の

水面だけで埋めたのである。私は画集でしか見た事がな

いが、きっとあの睡蓮の部屋を廻る人は、やがてモネの

視点が水面にはない事に気付くだろう。モネが見ていた

ものは水面ではなく、そこに映る「空」であった事を悟

るだろう。そして、刻々と移り変る空が水面に落す光の

響宴を通して、千変万化する大自然の、悠久の脈動を感

じ取るだろう。詰まるところ、モネは水面の反映を描く

事によって、流転する大自然を見事に暗示したのだと思

う。往々にして人間の想像力は、実際には描けないもの

までを、心中にありありと描き出す。だから直接的に対

象を明示するよりも、時に間接的な暗示の方が、格段に

強いリアリティーで見る者に迫るのである。

 20回を数える今回の個展に向けて、私は斎藤さんが

用いるこの自在な「暗示」表現に、あらためて讃辞を贈

りたい。路地の奥にのぞいたわずかな空が、いかに雄大

な天空を暗示していた事か。また、一面オレンジ色に染

まった石壁が、今しもその反対側の地平に沈もうとして

いる夕陽の輝きを、いかに彷彿とさせてくれた事か。或

いは画面の下方で風に揺れていたポピーが、その先へと

広がる寂寥の大地を、いかに絶妙に示唆していた事か。

まだまだ例はあげられるのだが、最後に最も味わい深い

暗示を語って、私は今回の通信を終えたいと思う。

 斎藤さんの描く街の風景には、ほとんど人が描かれな

い。それは名も知れぬ路地であったり、その路地に面し

た石壁であったりするが、その何処にも人間は出て来な

い。古い木戸の脇には、ゼラニウムの鉢が置かれていた

り、その上には小さな街灯が灯っていたり、きっとそこ

には幾多の人間が居て、それぞれの生活を営んでいる筈

なのに。しかし、逆にその描かれていない事によって、

いかに様々な人間の営みが、そこには豊かに暗示されて

いる事だろう。描いてしまえば限定されてしまうだろう

人間の姿が、描かない事によって幾多にも浮び上がる。

そして更に見る人は、絵の中に様々な人の営みを思い描

くうちに、いつしかその無数の人々が積み重ねて来た、

幾星霜もの「時」に想いを馳せるだろう。石壁に刻まれ

た時間の堆積、路地裏に染み込んだ時の温もり、そんな

目に見えない「時間」の肌触りこそ、斎藤さんの暗示表

現の真骨頂であり、それは同時に、斎藤芸術の真髄でも

あると思う。この「時間」の表現だけは、それに値する

歳月を生き抜いた画家にしか、描けないものかも知れな

い。斎藤良夫80歳、今も卓絶の「時」を描き続ける。

 

                    (16.09.29)