画廊通信 Vol.151 ある無頼の画家に
昨年、初めての「藤崎孝敏展」を開催するに当って、
私は案内状に以下のような紹介文を掲載させて頂いた。
深い絶望の谷を渡り、荒れ果てた虚無の原野に立つ時、
人はそこに一陣の風を聞く──いざ、生きめやも。長い
旅路の中で、画家は何度この声を聞いただろう。浮薄に
澱む現代に対し、真っ向から肺腑を衝き、胸をえぐり、
血潮を呼び覚ます絵画。渡仏して30年、放浪の無頼派
が冬のブルターニュから贈る、ほとばしる魂の叫びを。
こうしてあらためて書き出してみると、やはり少々力みの入った文体だなと思う。あまり大仰にならないよう
に、あまり気負ったりしないようにと、これでも心がけ
ているつもりなのだが、どうも思い入れが入ってしまう
と、何か張り詰めたような文章になってしまう。まあ、
それはさておいて、この中で私は「放浪の無頼派」とい
う言葉を使わせて頂いた。如何にも格好を付けた感があ
るが、しかし藤崎孝敏という画家を一言で表せと言われ
たら、やはり藤崎さんにはそのキャッチフレーズがふさ
わしい。と言うよりも、藤崎さんほど「放浪の無頼派」
という言葉の無理なく似合う画家は、居ないのではない
だろうか。「無頼派」と言うと、何だか粗野で荒くれた
傍若無人のイメージがあるが、そういう意味で言ってい
るのではない、文字通り「無頼=頼らない」という意味
で言うのである。藤崎さんご自身は、どことなくシャイ
でナイーブな雰囲気を持つ方だし、よってがさつな野卑
の徒とは対極にあるような人だが、その芯には常人には
とても持ち得ないだろう、強靭な「不羈」の精神がある
と思う。「独立不羈」の「不羈」である。もっと簡明な
言葉は無いのかと言われそうなので、少し調べてみたの
だけれど、やはりこれ以上ぴったりと来る言葉は無かっ
た。辞書には「他の束縛を受けず、自らの考えで自由に
振る舞う事」とあるが、藤崎さんは正にそれを体現され
て来た人だろう。自称画家であれば「何も珍しい事では
ない、私だってそうだ」とおっしゃる方、きっといらっ
しゃる事と思うが、どうしてどうして、本当にそんな生
き方を貫いている人なんて、私の見て来た限りではほん
の一握り、天涯の自由に生きるよりは、束縛の不自由に
生きる方が、遥かに楽だからである。昨年もその略歴は
書かせて頂いたのだが、今一度その来し方を振り返って
みたいと思う。「不羈」とはつまりこういう事だろう。
1955年熊本県に生れる。20代初めに、郷里での学
業を捨てて上京、彫塑の制作等を糧としながら、都内を
転々と移り住む。この頃から既に、定住への不安を常に
持っていたと言う。30歳で初個展、折しも世情はバブ
ル景気へと向う只中で、自分には未だ途上と思われる絵
が次々と売れて行くのを見て、かえってこれではいけな
い、画家としての成長が阻まれるとの危機感を募らせ、
渡欧への意志を固める。32歳で渡仏、パリ市内のホテ
ルを転々としてから南仏へ発ち、ジプシーと生活を共に
しながらイタリアやスペインを放浪した後、再びパリに
戻ってモンマルトルの安宿に落ち着き、その後四半世紀
近くにわたって市内を移り住んで、その陋巷を流離う。
日本では東京・神戸を中心に個展活動を重ねるが、まる
で息遣いが聞えそうな荒々しいタッチと、闇を孕むが如
き色彩を特徴としたその独自の画風は、徐々に熱狂的な
ファンを生み出して現在に到る。近年、住み慣れたパリ
を離れてノルマンディーへ移住、翌年には更にブルター
ニュへ移転するも、どうやらその地に永住するつもりは
ないようで、いずれまた何処かへ旅立つかも知れない。
というような経歴を知るに付けて、やはり藤崎孝敏と
いう画家=人間は、「無頼=頼らない」という生き方を
貫いて来た人なんだなと思う。藤崎さんと少しでも話せ
ば分る事だが、一つの土地に定住して家を持ち、家族と
共に良き人生を育んで往く──というような、私達が当
り前に営んでいる一般の生活常識からは、気持ちがいい
ほどに遊離された方である。そのように自分を見せなが
ら、つまりは無頼派のポーズを気取りながら、その実は
しっかりと安定した収入を得て、堅実な市民生活を営ん
でいるような「似非無頼派」なら、この世に幾らでも居
るだろうが、藤崎さんのそれは紛う方なき本物である。
どこかの画廊でお会いする時も、あるいは当店にお越
し頂く時も(前日、遠方の知人宅に一泊されて、はるば
る新幹線で来てくれたその日も)、あるいはどこかへ飲
みに立ち寄る時も、いつも藤崎さんは全くの手ぶらで、
ついそこの近所から来たんだよとでも言うような感じで
フラリと現れる。大概は真っ黒いロングコート、そのポ
ケットに両手を突っ込んだまま、無造作に掻き上げた黒
髪の下、少しはにかむように微笑んで、たとえ一年ぶり
に再会するような日でも、つい昨日会ったばかりのよう
な挨拶を交わす。テーブルに着くと、おもむろに小さな
袋から煙草の葉を取り出し、巻紙でクルクルと器用に包
んでシガレットを作り、フーッと紫煙をくゆらせながら
(パリの街角の薫りだ、行った事はないけれど)、この
巻紙はトウモロコシの葉で出来ているから、日本の煙草
よりも体にいいんですよなどと、あまり理に合わない事
を言われたりする。画廊にお越し頂いた時も、日本に帰
れるのは年一遍なもので、連日色んな友人に付き合わさ
れちゃって、もう酒はウンザリですよ、というような話
を確かに聞いた記憶があったのだが、午後も遅くなって
まだ明るいながらどこか夕暮れの気配が漂い始めると、
長年のファンが洒落たブーケと共に送ってくれたワイン
を指されて、それ、せっかくだから戴きましょうか……
こんな振舞いがいつも様になっていて、別に何をてらう
でもなく、何をつくろうでもなく、ごくさりげない印象
を醸し出されているのは、常々そのように生きて来られ
たからだろう。元よりそのような生き方は、そう生きよ
うという信条の下に確立されたものではないと思う。作
品に自分の全てを十全に注ぎ込んで、画面に自らの有り
と有るものをぶち込んで、これが自分だと言い切れる所
まで持って行く事の出来た人は、自然とそうなるのでは
ないか。藤崎さんを知りたいと思ったら、その絵を見れ
ば良い、藤崎さんに会いたいと思ったら、その絵に会い
に行けば良い、そこまで作品に自身を同化出来てしまえ
ば、後はその絵を見てもらえればそれで済む訳だから、
残った自分自身に関しては、最早飾る必要もなければ演
出の必要もない、真の表現者とはそういうものだろう。
結句優れた芸術家に複雑な方程式は要らない、ただ一つ
の等式で事足りる。「画家=作品」、これだけでいい。
e-mail ▶ 2015.03.30
藤崎様 今回の個展は千葉では初めての開催だった事も
あり、藤崎さんを見るのは初めてというお客様が、圧倒
的に多い現状でした。しかし作品を観た人は皆、有無を
言わせぬ強いインパクトを感じられたようで、中でも一
番多かった感想は「これは本物ですね」という言葉でし
た。やはり一流のものを目にした時、それを感じ取る心
を持っている人であれば皆、自然に口から出てしまうの
だろう「本物」という言葉、この言葉こそ藤崎さんへの
理屈を超えた共感を、端的に物語るものだと思います。
新しいも古いもない、トレンドも流行も関係ない、稀に
本当の芸術作品だけが持ち得る、あの如何なる理屈も飛
び越えてダイレクトに心揺さぶるものを、藤崎さんの世
界は濃厚に湛えているという事実、そして、良き感性の
人ならばそれをきっと受け止めてくれるという確信を、
あらためて強くした貴重な三週間でありました。 山口
e-mail ◀ 2015.05.02
山口さん こちらはまた寒さが戻り、暖房を入れるハメ
になりました。太陽さえ出てくれれば、暖かくなるので
しょうが、ブルターニュは雨が多いことで知られていま
す。今日も雨の一日でした。アトリエに陽が射し込むの
はいつのことやら。山口さん、日本でお酒また一緒した
いですねえ…。あまり飲み過ぎないように。 Cauvine
e-mail ▶ 2015.05.03
ブルターニュは暖房復活との事、やはり日本とは大きく
気候が異なるのですね。こちらは今日も雲一つないうら
らかな五月晴れ、「空がどんなに晴れようと、心はさっ
ぱり晴れねえや」と、ぼやきながら画廊まで歩いて来た
のですが、そちらの気候を思えば、これも贅沢な台詞で
したね。それでは、再会の美酒を夢に見つつ…。 山口
e-mail ◀ 2015.07.01
今日から、やっと夏日になりました。絵具の乾きも随分
早くなり、色も良く見える日射しになって、喜んでいま
す。思い切ってカンヴァスを、非常に上質のものに変え
ました。身分不相応かとも思いましたが、生活費を削れ
ば何とかなるでしょう。お体に気をつけて。 Cauvine
e-mail ▶ 2015.07.02
文筆家と違い、画家は色々と元手がかかって大変かと思
いますが、新しいカンヴァスから藤崎さんは、きっとま
た新しい表現を開拓される事と思います。新作楽しみに
しております。くれぐれもお体ご自愛のほどを。 山口
e-mail ◀ 2016.02.02
作品画像、一部送ります。まだ気になる所もありますが
どう思われますか? 山口さんのご意見は? Cauvine
e-mail ▶ 2016.02.03
私は、藤崎さんほどの芸術家に意見を言える立場にあり
ませんので、適確な批評はとても出来ませんが、輪郭線
を全く用いずに、色彩と筆致だけで対象をダイレクトに
捉える藤崎さんの手法は、今回もイキイキと見る側に響
いて来ます。私は藤崎さんの描く風景がたとえどんなに
荒涼としていようと、静物が一見どんなに貧しげで質素
なモチーフであろうと(だから素晴らしいのですが)、
あるいは人物がどんなに憂いを帯びて時に絶望的であろ
うと、その底流には常に画家の「血」とでも言うべきも
のが、溢れんばかりに流れていると思います。きっとそ
れは、目前の現実がどんなに暗く悲惨であっても、結局
は世界を受け入れて肯定する、温かな生きた血流なので
しょう。だから藤崎さんの描き出す世界では死んでいる
ものなど一つもない、絶望でさえ、ひいては死でさえ、
あるイキイキとした脈動を孕んでいるように思えます。
その脈流が見る者に圧倒的に流れ込んで来た時、世の画
家が「表現」と呼んでいるような小手先の技法や計算が
嘘臭い知性の遊びにしか思えなくなる、それほど藤崎さ
んの絵画には、有無を言わせない力が漲っていると思う
のです。今、藤崎さんのような本当に生きた血の流れる
絵画が、果たしてどれほど有るでしょうか。そんな思い
が、今回の画像を見ながら湧き上がって来ました。「ど
うあっても、こうしか描けない」という絵が好きです。
藤崎さんの絵は、正にそういう絵だと思います。 山口
上記の手紙で、言うべき事は尽きたと思える。後は実
際に作品を見て、絵画の力を実感してもらう他ない。絵
画の力とは何だろう。それは一枚の作品と対した時、そ
こに潜在する画家の存在を、見る者にありありと感じさ
せる力だ。会わずとも目の前に確かに作家が居る、そこ
に紛れもなくある人間の息遣いが有る、そう感じさせて
こそ絵画だ。繰り返すが、藤崎さんの絵は正にそういう
絵だと思う。そんな絵に触れ合える奇跡に感謝したい。
(2016.03.12)