画廊通信Vol.146 こころのすがた
11月の足音につれて秋も一段と深まり、哀愁の似合う季節になったからという訳でもないが、一度「ものの哀れ」という概念を自分なりに明瞭化したいと思っていたので、この場を借りて少し考えてみようと思う。周知のように「ものの哀れ」という言葉は、江戸時代の国学者として著名な本居宣長が、源氏物語を論ずる中で提唱した理念と言われているが、自身は特にまとまった論文を書いた訳ではないらしい。ちなみに、パソコン内蔵の国語辞典にはこう出ている。──本居宣長が唱えた、平
安時代の文芸理念•美的理念。対象客観を示す「もの」
と、感動主観を示す「あわれ」との一致するところに生
じる、調和のとれた優美繊細な情趣の世界を理念化した
もの。その最高の達成が源氏物語であるとした。──と
言う事は、対象客観と感動主観が一致する前から、そも
そも独立した「あわれ」という感動主観が存在したのだ
ろうか。ならば感動というものは、何かの物事に触れ得
ずして元々在るものなのか。だいたい「対象客観」とか
「感動主観」とか言われると、何やら論理的・哲学的で
偉そうなものだから、つい私のような無学の者は「ハア
そのようなものが在るのですね」とへりくだりかけるの
だが、でもよく考えてみると、対象は客観的であり感動
は主観的であるに決まってるじゃないか。そうじゃない
と言い張るのなら逆に「対象主観」「感動客観」という
ものが在るのか、じゃあここに出してみてくれ、といっ
た具合で、省みれば程度の低い者のひがみか、性格の本
来的なゆがみか知らないが、上記の如き分ったような分
らないような説明を読んでいると、いつしか心がねじく
れて、ひん曲がって来るのである。そこで、手っ取り早
く辞書で理解しようなどという安易な考えは捨てて、き
ちんと正攻法で問題に向き合おうと思った場合、やはり
「本居宣長」と言えば小林秀雄という先達が居て、数々
の優れた論考を残しているのだから、その力を借りて、
と言うよりはほとんどを頼り切る事によって自身の無能
を補い、少しでも事の本質に近付いて行けたらと思う。
小林秀雄の著作に「本居宣長──『物のあはれ』の説
について」という一編があって、そこに本居宣長自身の
言葉が引用されているのだが、本家本元は「あはれとい
ふはもと、見るもの聞くものふるる事に、心の感じて出
る歎息(なげき)の声にて、今の世の言葉にも、ああと
いひ、はれ(=まあ!)といふ是也、たとへば月花を見
て感じて、ああ見事な花ぢや、はれよい月かななどとい
ふ」、つまりは通論として「ああ+はれ=あはれ」とす
る語源を述べた後、そこに独自の考えを付加している。
曰く「あはれをしる、あはれを見す、あはれにたへず、
などといふたぐいは、すべて何事にまれ、ああはれと感
ぜらるるさまを名づけて、あはれといふ物にしていへる
にて、かならずああはれと感ずべき事にあたりては、そ
の感ずべきこころばへをわきまへしりて、感ずるを、あ
はれを知るとはいふ也」、どうもややこしいので現代語
に訳してみると、こうなるだろうか──哀れを知る・哀
れを見せる・哀れに耐えず等という類いは、全て何事で
あっても「ああ!あれまあ!」と感じられる様を名付け
て「哀れ」という言葉にして言っている訳だから、必ず
「ああ!あれまあ!」と感じている時は、その感ずべき
心の趣を、自ら認識して感じている筈だ。これを、哀れ
を知ると言うのである。……いよいよ分らなくなって来
たので、この辺で小林先生にご登場願おう。小林秀雄は
上述した宣長の言葉を受けて、このように言っている。
「先ず明らかな事は、彼が『ああはれ』という感動と、
『あはれ』の認識は別事であるとしている点で、彼の考
えの重点は『ああはれ』という生活感情にあるのではな
く、『あはれ』の感情の直観による意識化にあるという
事である。感動に流されているものが、どうして感動の
深浅を知ろうか。『あはれ』は情であって、理ではない
が、『あはれをしる』には、情理ともに働かねばならな
い。『その感ずべきこころばへをわきまへしりて』感じ
なければならない」、こうして書き写していると、先生
の解説もまた、難解な事においては宣長さんと何にも変
らないじゃないかと、自らの知能の限界がひしひしと身
に染みて来るので、こうなったらもう、私の知能程度な
りの勝手な解釈をさせて頂こうと、開き直る事にした。
思うのだが、たぶん宣長は「ああはれ」という単なる
感嘆詞を、「あはれ」という一つの概念に深化させたの
である。感動や感嘆という大きな心の動きは、その時は
言葉にならない。自分の体験を顧みても、例えば名演奏
に心打たれた時「ああ!」と嘆息して「感動した!」と
述べる以外、何が言えるだろう。小林秀雄の言う通り、
感動に流されている時、即ち感動の只中に居る時は、正
に感動の深浅など知り得ないのである。それは、日常の
中で体験する情動についても同じだろう。失恋の只中で
嘆き哀しんでいる人に、恋愛の悲哀の情趣を味わう余裕
など有るだろうか。うろ覚えだが「哀しみはただ哀しい
だけだ。でも哀しみの姿は美しい」という言葉を聞いた
事がある。けだし名言だと思う。宣長の言う「心ばえ」
という言葉、あるいは小林の言う「直観による意識化さ
れた感情」とは、きっとこの精神の形象を指すのではな
いか。感動や情動という心の動きそのものではなく、感
動や情動に揺り動かされ、通常とは大きく異なった様相
を見せる心の形、言うなれば人が何かに深く感じた時の
「心の姿」、それこそが宣長の「あはれ」という言葉に
包含された概念ではないだろうか。ちなみに「物のあは
れ」と言った時の「物」とは、「言う」を「物言う」・
「語る」を「物語る」といった類いの言い方に過ぎない
ようで、宣長自身は「添うることばなり」と簡明に済ま
せているから、それほど重要な意義を持つ言葉ではない
らしい。要は「心ばえ」であり「その感ずべきこころば
へをわきまへしりて」感じれば、いつか「物のあはれ」
はその美しい姿容を現す。おそらくはそれを虚心に見据
えた時、人は自ずから「物のあはれを知る」のだろう。
「あはれ」は、もともと「うれしきにも、おもしろきに
も、たのしきにも、をかしきにも、すべてああはれと思
はるる」時に使われた言葉で、「あはれにうれしく」と
も「あはれにをかしく」とも言われる所以だが、それが
何故、いつの間にか悲哀の意を以て、おかし、うれしに
対立する言葉に転ずるようになったか。その下心につい
て、宣長は次のような鋭い観察をしている。「人の情の
さまざまに感ずる中に、うれしき事おもしろき事などに
は、感ずること深からず、ただ哀しき事、うき事、恋し
き事など、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずる
事こよなく深きわざなるが故に、しか(このように)深
き方をとりわきても、あはれといへるなり、俗に悲哀を
のみいふも、その心ばへ也」。トルストイの「アンナ・
カレニナ」を読んだのは、もう随分以前の事だが、私は
その冒頭の文句を忘れない。「幸福な家庭というものは
どれもこれも互に似た様なものだが、不幸な家庭の不幸
は、それぞれ趣を異にしている」。宣長の見ていたもの
は、人間心理の実相なのである。幸福の感情は、心に跡
をとどめぬものだ。何事も思うにまかす筋にある時、人
は外に向って行動を追うが、内に顧みて心を得ようとは
しないものだ。意識は、「すべて心に思ふにかなはぬす
ぢ」に現れる。心の行動に解消し難い時、心は心を見る
ように促される。心と行動との間のへだたりが即ち意識
と呼ぶべきものだと言っても差支えないであろう。──
過分な浅慮の長広舌、さすがに罪悪感が募って来たので
この辺で信ずるに足る深慮の考察をと思い、小林秀雄の
文章を長めに引かせて頂いた。まさしく心というものの
本質をとらえて已まない、実に味わい深い断章である。
上記から宣長の想いを知った上で、下記のような言葉に
触れた時、宣長の「あはれ」に託した決意というものが
改めて身に迫るようだ。宣長はこう言い放つ、「物のあ
はれをしるより外に、物語なく歌道なし」、この言葉を
現代に敷衍したら、「物の哀れを知るより外に、芸術な
く絵画なし」、宣長なら躊躇なくそう言い切るだろう。
さて気が付いてみれば、本筋とは違う話を延々と書き
連ねてしまったが、少々の弁解を許して頂ければ、これ
も一理あっての事である。実は数ヶ月前、小林秀雄の前
述した論考を再読していた時、平澤さんの絵画が何故か
しら、ふっと脳裏に浮んだのである。今回で平澤重信展
は12回を数える訳だから、もうかれこれ10年を超え
る年月を、いわゆる「平澤ワールド」と付き合わせて頂
いて来た事になるが、その経験からこれだけは明瞭に言
える事は、如何なるモチーフを描くにせよ、結局は目に
見えない精神の形象=想いの形こそを、画家はひたすら
に描き続けて来られたという事実だ。だから「ものの哀
れ」という言葉が、正に精神の形象=心の姿を表す概念
である事に思い到った時、平澤さんの絵画が忽然と胸臆
に立ち現れたのは、思えば必然の成行きだったのかも知
れない。昨年の同欄に私は、平澤さんの世界から受ける
独特のイメージを記したのだが、今一度それをここに引
用させて頂きたい、繰り返すようで申し訳ないけれど。
──平澤さんとの出会いは、ある美術誌に掲載されてい
た作品写真だった。その時の印象はそのまま私の平澤観
となり、その観点から作品を拝する限りでは、この10
年何一つ変る事のない、言い方を換えれば涸れる事のな
い瑞々しい鮮度を、平澤さんの世界は保ち続けている。
あの時受けた「感じ」とでも言うべきもの、それは私の
中でいつも鮮明に顕在化し、今もその世界を思い描く時
色褪せる事なくある雰囲気を喚起するのだが、さてそれ
を何と言ったら良いのだろう。どことなくもの哀しいよ
うな、うら淋しいような、しかしどこかしら軽やかで柔
らかな、懐かしく澄んだ風の吹くような、そこでは全て
が解き放たれて、どこへでも自由に行けるのだけれど、
もう少しの間立ち止まったまま、その微細な大気に心遊
ばせていたくなるような、そんなどうにも言葉ではつか
み難い、不思議なアトモスフィア。何か漠然としたある
気配、そこはかとない風情、とらえどころのない陰影、
それとなく滲む情緒、そんな言葉にはならない雰囲気・
空気感を「アトモスフィア」という言葉で呼ばせてもら
うのなら、平澤さんの中でこの10年一つも変らないも
のは、正にその言葉に集約されるのではないだろうか。
今こうして読み返してみた時、文中で「アトモスフィ
ア」という言葉で伝え切れなかったものが、漠然とでは
あるが見えて来る。気配・風情・陰影・情緒といった言
葉で、私は何とかその概念を言い表そうとしているが、
詮ずるにそれは作家の目に見えないある想いが、画面に
不思議な空気感となって充満したものなのだ。今回の案
内状を見ても、それは一目瞭然だろう。孤独にたたずむ
猫を介して、画面一杯に満ちる目に見えない想い、それ
は即ち平澤さんの描き出した「心の姿」だ。幾重にも微
妙に堆積した色層から、万華鏡のようにゆったりと変化
しながら、溢れるような想いが滲み出す。古い言葉でそ
れを「物のあはれ」と言うのなら、やがて「あはれ」は
画面を吹き渡る風に乗って、「心に思ふにかなはぬ」が
故の憂愁を柔らかに湛えながら、その哀しみと寂しさに
優しく彩られた、透き通るような姿を現すだろう。そん
な時私達は、いつしか「物のあはれを知る」のである。
(15.11.01)