画廊通信 Vol.140 精霊達の宴
真夜中、ふと目を覚ますと、何処か遠くの方からズーン、ズーンという低い地響きのような音が、微かながら
繰り返し聞えて来る。枕元に手を伸ばすと、置いておい
た筈の時計が無い。何時頃なのだろう……、しばし暗闇
の中で、判然としない時間が澱む。その内に朦朧と意識
を霞ませていた霧が薄れ、今夜はとある山麓を拓いた、
知人の農場に泊っていた事を思い出す。耳を澄ませばそ
の不可解な音は、農場の遥かな彼方から響いて来るのら
しい。一体あれは何だろう……、私はそっと起き上がる
と、寝間着に薄手の上着を引っ掛け、木製のドアを静か
に押し開いて、早くも秋の気配を感じさせる、ひんやり
とした夜気の中へと足を踏み出す。見渡せば限りなく広
がる無数の畝を、黄色みがかって巨大に膨張した月の光
が、耿々と落ちて際立たせている。あの奇妙な音は、幾
重にもうねる農場の丘の、更なる向うから聞えて来るよ
うであった。私は仄明るい月明りの下、うねうねと続く
畑中の一本道を、次第に大きくなって来る震動を感じな
がら、ひたすらにその元を目指す。振り返ると、いつの
間にすっかり農場の只中で、四方を広大な農地に囲まれ
て、既に泊っていた宿舎も見えない。はて、何処まで来
てしまったのだろうと訝りながら、尚も歩みを進める内
に、ズーン、ズーンという例の地響きは、いよいよその
音量と震度を増すようである。やがて黒々とした森に囲
まれた、月影にひときわ明るく照り映える、地面の剥き
出しになった広場に出た。気が付くと地響きはもう、地
底から広場を突き上げるかのようで、ズーン、ズーンと
いう巨大な震動が広場を揺らす度に、五臓六腑の底まで
重低音が響き渡る。アースビートだ。初めて耳にする、
大地のリズムであった。
広場の片隅に腰を下ろし、目を閉じて月を振り仰ぎ、
しばし脳髄を麻痺させるかのような鼓動に身を委ねる。
おもむろに目を開けると、目前の景色が一変していた。
ズーン、ズーンというあの震動と共に、柔らかな土壌を
突き破って、無数の小さな生き物が跳ね上がっている。
大きさは両手で受けられる位だろうか、丸々と肥えたナ
マコかウミウシのような、あるいは何かの巨大化した幼
虫のような、そんな見も知らぬ奇態な生物が、ぶるぶる
と勢い良く身体を震わせながら、宙高くのたうって跳躍
し、月光を受けて一瞬妖しく明滅したかと思うと、また
元の土壌へと撓いつつ落下して往く。そしてズーンとい
う次の震動が地面を震わせた瞬間、再び無数の生物が湧
き出て跳ね上がり、まるで満月に憑かれたかのように、
また狂おしくうごめき踊る。果てるとも知れないグロテ
スクな響宴。これは目覚めた大地の精霊達が、欣喜して
手舞足踏する、荒ぶる原初のダンスなのだろうか。
この世のものとも思えない不可思議な光景に、茫然と
独り身動きも出来ないでいると、ついと彼方の森から長
身の人影が現れた。月明りに一瞬浮んだ顔を見ると、長
髪に髭を蓄えた、壮漢な面構えの青年である。はらわた
を揺さぶるような地響きの中、乱舞する無数の魑魅魍魎
をものともせず、のしのしと広場の中央まで歩を進める
と、やにわに担いでいた大きなズダ袋を地面にドサッと
投げ出し、紐を緩めてその口を開けた。何をするのかと
思いきや、飛び跳ねている生物を鷲掴みにして捕獲し、
その袋に入れ始めた模様である。1匹、2匹、3匹、4
匹、次々と捕まえては、袋の中へ無造作に放り込んで行
く。捕獲された生物は、袋の中でもぞもぞとうごめき回
る。あまりの奇怪な行動に、私は思わず立ち上がって、
青年の下へと歩み寄る。青年は私の事など気にもかけな
い体、黙々とその作業を続けて、一時も手を休めようと
しない。見ているともう何十匹も放り込んだ筈なのに、
何故か袋は一向に満杯にはならないようである。この蟲
達をどうするんですか?と、私は問いかける。またとな
い月夜だ。こんな夜にはほら、大地が胎動して、蟲達も
一斉に這い出して来る。せっかくの機会だ、捕まえてお
くのさ。袋の中を覗くと、放り込まれた大蟲はしばらく
の間、もぞもぞと盛んにうごめいているが、やがてふっ
と輪郭が薄れて、霧のように消えて往く。道理で、袋が
一杯にならない訳だ。はて、如何なる現象だろう、私の
問いに青年は、遥かな夜空を仰ぎ見ながら答える。俺は
今流浪の身だけれど、いずれ必ず画家になる。絵を描い
て、オブジェを創るんだ。それまでこいつらは、俺の脳
髄に眠らせておく。どうせ魑魅魍魎だ、何十匹だって何
百匹だって、幾らでも俺の中に染み込ませておけるさ。
そして何十年かの後に時が来たら、俺はこいつらの眠り
を覚まし、脳髄から取り出してよみがえらせる。そうす
ればこいつらは、作品の中で永遠に生き続けるだろう。
その時はあんた、見に来てくれるかい?青年はニッと微
笑んで背筋を伸ばし、まだもぞもぞとうごめいているズ
ダ袋を肩にかけると、出し抜けにクルリときびすを返し
て、元来た後方の森へと大股に歩み去る。その後ろ姿を
見送りながら、きっとまたいつの日か、この青年と出会
う事になるだろう、そんな妙に確信めいた予感を、私は
薄れゆく意識の中に育んでいた……。
ゆうさんから何点かの新作が届いた日、梱包を解きな
がらぼうっと作品に見入っていたら、いつの間に奇妙な
物語が浮んで来た。上記のお話は、それをそのまま書い
てみたものだが、他人の夢語りほど詰まらないものは無
いとの由、ここまで長々と付き合って頂いた皆様に、心
より陳謝申し上げるとして、しかしながら、これはこれ
でゆうさんに対する私なりのイメージが、少しは暗喩と
してシンボライズ出来ているのではないかと、多少自讃
がかった弁護の気も有るのだ。自己分析という訳でもな
いけれど、一体にゆうさんの世界を語るに際し、私には
「鼓動」「振動」「リズム」「ビート」といった単語、
延いてはそれらを肉体化した「ダンス」というような言
葉を、好んで用いる傾向がある。ゆうさんの作品と対峙
した時に、否応なくそこから伝播する感覚、言うなれば
「躍動」「脈動」「揺動」等々、そんな活性する生命の
動感が、色濃く自らに喚起される故だろうか。
展示会にタイトルを冠する事、ゆうさんご自身はあま
り好まれないのだが、私の方は常々タイトルを個展名に
併記して来た経緯もあり、勝手ながらあまり目立たない
ように、こそこそと付けさせてもらって来た。2008
年の初回展は「大地の詩(うた)」、これはもちろん、
グスタフ・マーラーの交響曲「大地の歌」を拝借したも
のである。初回展に際し、ゆうさんの世界を一言で表す
としたら、これ以外の言葉は無いと思った。翌年の2回
展は「Drawin’ on !」、この時はドローイング作品によ
る展示で、私の世代のロック少年にはよく知られていた
音楽誌「Rockin’ on」を捩ったもの、ドローイングとい
う生真面目な美術用語に、ポップな軽みを持たせたかっ
た故。翌々年の4回展は「ON THE PAPER !」、この
回もドローイングによる、ペーパー・ワークの展示だっ
たが、これはマイルス・デイヴィス1972年のアルバ
ム「On the Corner」に引っかけたもので、ゆうさんの
リズミカルで動的な描線に、その斬新な音楽がシンクロ
するように感じたためであった。更に2年後の5回展が
「In the earth beat」、これもジャズ畑のミュージシャ
ンであるハービー・ハンコックの楽曲「Earth beat」を
そのまま戴いたもので、こうして少し振り返ってみただ
けでも、美術以外の分野からインスピレーションを得た
事例が多い。ちなみに私は「コズミック・ダンス」とい
う言葉も諸処に使っているが、当然これも私の考え出し
た言葉ではなく、拝借元のしっかりと有る語彙である。
1970年代に新しい思想潮流として隆盛した、ニュー
サイエンス・ムーブメントの火付け役となった物理学者
フリッチョフ・カプラによる造語で、彼は素粒子の人智
を超えた神秘の振舞いを称して「コズミック・ダンス」
という言葉を用いた。絶え間なく振動しつつ自在に跳躍
し、思いも寄らぬ美しい軌跡を描きながら、無限の生成
生滅を繰り返す素粒子の挙動は、ゆうさんの作品に登場
する無数の精霊達を彷彿とさせて、そのままダイレクト
にその姿が重なるように、私には思えたのである。
こうして考えてみると前述の物語は、むろん稚拙では
あるにせよ、やはり「わたなべゆう」という作家に寄せ
る私なりの思いを、その中に多少は滲ませる事が出来た
のではないかと思う。ゆうさんの作品は、いつも動いて
いる。たとえ止まっているように見えたとしても、見て
いない所では自在にうごめいているのではないか、そう
思わせてしまう程の動的兆候を孕んで、あわよくば動き
だそうと身構えているかのようだ。そこには常に「生き
るもの」の、換言すれば「生命」の脈動がみなぎり、そ
れは温かな血流を満身に巡らせて、未だ誰の脳髄にも深
く眠るだろう、原初的な生命の息吹をよみがえらせる。
おそらくそれは、私達がまだ大地と結びついていた頃の
記憶であり、更には陽と水と風の只中で生きたであろう
太古の、その消し難い手触りなのだと思う。ゆうさんの
世界に触れると、きっと私達は思い出すのではないか、
全ての生命が縦横に無尽に交感し、天然の生気がみずみ
ずしく横溢する大地で、いきいきと雀躍と繰り広げられ
たであろう、あの果てなきコズミック・ダンスの宴を。
今までゆうさんの個展は、油彩展とドローイング展を
交互に開催する形をとって来たが、7回展となる今期は
今までにない企画で、当店では初めてのボックスアート
展となる。ゆうさんのボックスアートは、7年前の初回
展に数点出品されたきりで、作家自身その制作にはかな
りのインターバルを置いて、長らく満を持して来られた
感がある。ゆうさんのボックスアート!──初見から虜
になって、紆余曲折を経てそれを入手した顛末は、昨年
の画廊通信に書かせて頂いた。よって説明の重複は避け
るが、結論から言わせてもらえば、ゆうさんのボックス
アートは私の憧れである。何故か知らないが血が騒ぐ。
言うまでもなく「血が騒ぐ」というのは「欲しくなる」
という事で、我ながら困った現象だなあと思うのだが、
それだけ人の血を否応なく掻き立てる何かが、小さな木
箱の中から強力に発振されているのだろう。
ボックスアートを制作する作家は数多いが、本当のオ
リジナリティーをそこに宿す事の出来る作家は、残念な
がら極めて限られている。そこには必ずと言っていいほ
ど、コーネルの影が付きまとう。ジョゼフ・コーネルは
地元の川村美術館でも所蔵している事から、よくご存じ
の方も多いと思われるが、おそらくその影響下を脱する
事は至難のわざなのだろう。アンティークな小箱に種々
雑多の切り貼りをコラージュし、ついでに錆びた歯車や
壊れたパーツを入れ込んで、ちょいと詩的なタイトルで
も付ければ即席コーネルの出来上がり、でも「それっぽ
い」と「それ」とは大違いなのである。ゆうさんのボッ
クスには、そのコーネルの影が微塵も無い。明らかにそ
こに有るものは、きっとコーネルだって瞠目するに違い
ない、ゆうさんだけの斬新なオリジナリティーである。
「あの生き物達は、やはり無意識から浮んで来たもので
すか?」つい先日、電話での会話である。「いや、本当
の事を言うとね、あれは何十年も前に捕まえておいたも
のなんだ。久方ぶりに今回、あいつらを生き返らせてあ
げたよ。そう言えばあの時、会わなかったかい?」……
粗末なオチを失礼、これもまたゆうさんへのささやかな
讃辞とお受け取り頂き、来たる展覧乞うご期待の程を。
(15.05.11)