想い (2013)       混合技法 / 4F
想い (2013)       混合技法 / 4F

画廊通信 VOl.122        星降る天幕の下から

 

 

 この「画廊通信」と題した読物も、いつの間に120

回を超えてしまった。「文章を書くのがお好きなんです

ね」と、「よくもまあ毎回毎回、飽きもせずに」という

半ば憐れみのこもったニュアンスでお客様に言われたり

するのだが、正直申し上げて、私はこの画廊通信が苦痛

である。最早「苦痛」以外の何物でもない。パソコンを

前にした途端に気が重くなり、さっさと逃げ出したくな

る。これが無かったら、どんなにか楽だろうにと思う。

 ご存じのように、当店では展示会の会期を通常よりは

かなり長めに取って、概ね3週間というスパンで開催し

ているのだが、この画廊通信に取り掛かるのは、会期も

半ばを過ぎて第3週に入った辺りからである。内輪事に

なるが、この第3週というのが曲者なのだ。展示会の成

績が良い時は問題ないのだけれど、そう旨くは事の運ば

ないのが世の常で、大抵は会期半ばを過ぎても展開の思

わしくない事が多く、よって第3週ともなれば最も焦り

まくっている時節である。このまま終ってしまったらど

うしよう……と、あの底知れない不安と恐怖が背筋を這

い登って来て、未明に目覚めては輾転反側、悶々と寝付

けない日々が続く。しかも、月中を過ぎれば次第に月末

が近付いて来る訳で、従って近々に迫り来る津波のよう

な支払いの足音に怯えつつ、緊急時の金策も視野に入れ

て行かなければならない。加えて次回展示会の準備・手

配も並行して進めながら、そんな状況下での執筆(とい

う程のものでも無いが)作業となる訳だから、これで天

下泰平呵々大笑という御仁が居たら、即座にその門下へ

入れてもらいたいものである。

 だいたい120回以上も書き続けていたら、書く事な

んてとうに無くなっているのだ、有り余る博覧強記の人

なら別としても、元より知ったかぶり程度の浅薄な知見

しか無いのだから。それを絞り出し、絞り出し、その上

なお僅かな残余を絞り取ったその後で、なおかつ何かを

書こうと言うのだから、そう易々と意義ある論考の生ま

れ出る筈も無い。よって私、昨日も今日も、内心大いに

焦りつつ、何も出て来ないままに虚しい憂悶の時を、唯

いたずらに費やしている訳である。

 今しも画廊店主、パソコンの前から立ち上がり、さて

何処に行くのかと思ったら台所に行った様子、何の事は

ない、インスタントコーヒーを淹れて戻って来た。再び

どっかと椅子に腰を下ろし、熱いコーヒーを啜りながら

パソコンを睨んだはいいけれど、相変わらず何にも出て

来ないまま、苦しげに瞼を閉じる。これは困難を回避し

ようとする、いわゆる逃避行動の一種なのだが、このま

までは単に寝てしまうだけなので、これではいけないと

思い直した店主、空になったコーヒーカップを手に、ま

た台所へ向った模様である。今度は、洗い物ついでに顔

も洗って来た様子、そうしたら多少頭脳も明瞭になった

のか、過去の画廊通信ファイルを物色し始めた。舟山一

男展も今回で8回目になるので、画廊通信もそれなりに

回を重ねて溜っているのだ。どうやら、店主は姑息な手

段を思い付いたらしい。過去の文章を抜粋して切り貼り

し、それでお茶を濁そうという魂胆のようである。

 

    †   †   †   †   †

 

 まどろむ踊り娘、憂い顔の道化師、星月夜のサーカス

小屋、雪降りしきる異国の街、いつも変らず香り立つ、

あの独特の憂愁と郷愁。画家がどんな街に居て、どんな

家に住み、どんなアトリエで描いているのかは、一度も

伺った事がないので皆目分らないが、絵画を生み出す内

面の世界に話を絞れば、舟山さんはサーカス小屋に住ん

でいる。作品のタイトルを見ても「アルルカンの肖像」

「綱渡りの少年」「夜のサーカス村」「幕間」「喝采」

「踊り娘のまどろみ」といった具合、これだけでもあの

異郷の星空に包まれた、サーカス小屋の天幕が目に浮ぶ。

そこで団員達と寝食を共にして、朝な夕なに道化師や曲

芸師と語らい、時には魅惑の踊り子の恋歌を聴いて、つ

ぶさにその人間模様を描き出す詩人が居たとしたら、そ

れは紛れもなく舟山さんその人である。

 略歴によると、画家は若き日に渡欧してのち、4年に

わたってパリに滞在し、エコール・ド・ボザール(国立

美術学校)で飽くなき研鑽を積みながら、サロン・ドー

トンヌやサロン・ド・ラ・ナショナルといった、名だた

る公募美術展に出品されている。そんな青春の日々に、

機会あってアンダルシア辺りを独り放浪し、あるサーカ

ス一座と巡り会ったというような体験が、あったのかど

うかは知らない。いずれそんな創作の原点を、本人にお

聞きしたいとも思うのだが、事実はどうあれ、生涯のテ

ーマを決定づける事となった何らかのキッカケが、渡欧

中にあった事だけは確かだろう。

 以降舟山さんは、一貫してサーカスをテーマに描き続

けて来た。顧みれば私が舟山さんを知ったのも、時おり

美術誌に掲載されるサーカスの絵からであった。ある意

味、その世界は限られている。しかし、世界中の様々な

モチーフを描きつくしても、結局は何処にも到れない画

家もいれば、自分の身の周りだけを見つめて、無窮の宇

宙に到る画家もいる。アンドリュー・ワイエスは生涯北

アメリカの寒村に暮らし、自宅の周囲と僅かな隣人しか

描かなかったし、静物画の奇才モランディに到っては、

アトリエのテーブルだけで事足りた。たったそれだけで

彼らは、あの未踏の領域に到ったのである。舟山さんも

また、限られた世界にすべてを見る人だ。画家の描き出

す天幕の下の人間達は、凡そあらゆる喜怒哀楽をはらん

で、絵の中に息づいている。憂愁・悲哀・愛憎・夢想・

孤独・寂寥・憧憬・恋慕……、画面の向うに生きる寡黙

な人物像は、一言では表し得ない情感を濃密に湛えて、

しんしんと自らの物語を語って尽きない。画家は小さな

サーカス小屋に、世界を見ているのだ。

 

 私は今まで舟山さんと、4度お会いしている。大体は

5分程で帰られてしまうので、累計しても30分に満た

ない位だろうか、未だお茶の一杯も出せず仕舞いとい

状況である(原注:これは2007年に書いた文章なの

で、それから現在に到る6年の間、更に4回会わせて頂

いた。よって計8回、累計時間は現在のところ一時間程、

一杯だけお茶を出す事に成功した)。よって、何度か個

展を開催させて頂きながら、私は未だに「舟山一男」と

いう画家を、個人的には良く知らない。絵画以外の事で

私の知る事といえば、その実に謙虚で誠実なお人柄と、

ほんの僅かな聞きかじりの情報ぐらい、後の一切はヴェ

ールに包まれたまま、舟山さんは謎の人である。

 私も職業柄、それほど多くはないにせよ、幾人かの画

家とお話をさせて頂いたが、舟山さんは自己を、そして

自己の芸術を、最も語らない人だろう。何しろ上記の通

り、まずは語って頂く機会が無い。ご存じのように、当

店では会期中いずれかの日を選んで、作家に来廊をお願

いしているのだが、舟山さんだけは「人前が苦手なので

遠慮したい」との強い要望があったゆえ、それも一切な

し、ただしこれは私の所だけと思ったら大間違いで、都

内の有名画廊においてもそれは同様である。従って、よ

くある初日のレセプション・パーティーなんてとんでも

ない話で、アリスのティー・パーティーと同じぐらい有

り得ない。それに関しては、泣く子も黙る銀座界隈の画

廊主でさえ、とうに諦めている節があり、関係者の間で

さえそうなのだから、全国に熱心なファンは多かれど、

お会い出来た人はほとんど居ないのではあるまいか。

 それなのに、つくづく不思議だなあと思う事は、私は

舟山さんにもう何度も会って、良く知っているような気

がするのである。もしや、舟山さんのファンも同じよう

な気持ちを持たれているのかも知れないが、それはたぶ

ん、作品が全てを語っているからだろう。「画家は作品

が全て」とは、誰もが口にする言葉だが、しかし、制作

という孤独な作業に人生を懸けるよりも、社交や宣伝に

熱心な作家が多い中で、舟山さんはその為し難い言葉を、

最も真摯に具現する一人だと思う。だから、その謎めい

た作家像がほとんど伝説の域に達しているにせよ、描か

れた作品には紛う方なき作家の実像が、ダイレクトに偽

りなく刻印されている。その意味で舟山さんの絵画は、

人物は元より風景であれ何であれ、それは作家の内なる

自画像に他ならないのだと思う。

 

 舟山さんの個展に伺っていつも感じる事は、世の喧噪

から見事に隔絶された、強靭なる静謐である。それは当

店における展示だけではなく、諸処で開催される個展で

も同様で、会場の扉を開けた刹那から時は流れを止め、

精神の内奥から発するかのような深い気韻が、濃密に空

間を満たす。展示作品の多くは3号前後ほどの小品で、

それ以上のサイズが在ったとしても、ほんの数点に抑え

られている。さりながら会場に一歩足を踏み入れた時の、

あの不可思議なアトモスフィア(空気感)は何だろう。

そこには20号・30号、もしくはそれ以上の作品に匹

敵すると言っても過言ではない、ある確固とした存在感

が満ち満ちている事を、誰もが感じるに違いない。

 ご存じのように、我国には「団体展」という特殊な機

構があって、都美術館や新美術館を舞台に、まるでこれ

でもかと競い合うかのように、意味不明の大作が数限り

なく陳列される。それが日展系であれ在野系であれ同じ

ようなもので、隣より目立とうと思えばもっと大きくし

なければならぬという訳なのか、近年は100号でもま

だ不足らしい。子供の頃に読んだイソップ童話の中に、

牛に張り合おうとしてどんどんお腹を膨らませ、遂には

破裂してしまう愚かな蛙の話があったが、正にそれを思

わせるような、虚しくも憐れな現状である。

 舟山さんの作品は、そんな風潮とはまさしく対極の位

置にある。画廊の壁にひっそりと掛けられ、どこまでも

寡黙な作風でありながら、しんしんと滲み出すような存

在感を湛えて、不思議な魅力を放つ小品達……。経験か

ら言わせて頂くと、小品を見ればその作家の実力は、一

発で判明する。堂々たる大作は描けても、小品になると

驚くほど稚拙な画家も多く、大きさによるこけおどしの

全く効かない世界は、画家の真の力量を否応なくさらけ

出す。換言すれば、一流の作家こそ一流の小品を描く、

あらためて確信の下に申し上げれば、優れたサムホール

(代表的な小品サイズ・1号に近い大きさ)は、こけお

どしの100号を、遥かにしのぐのである。舟山さんの

芸術こそ、その峻厳にして冷徹な事実を、如実に、そし

て見事に体現したものと言えるだろう。

 

    †   †   †   †   †

 

 という訳で、過去の拙文の切り貼りではあるけれど、

初めて舟山一男という作家をご覧頂くお客様には、一応

の紹介になったのではないかと思う。今回2年ぶり8回

目の個展に当って、10数点の作品は既に届いているの

だが、そこから勝手な予想をさせてもらえば、常に全力

で作品を提供下さる作家に対して、こんな言い方が失礼

に当る事は重々承知の上、それでもあえて言わせて頂き

たい、今回の舟山一男展は、今までで最良の個展になる

だろうと。そしてこの個展をみすみす見逃す事は、その

人の美術鑑賞史に、大きな損失をもたらすであろうと。

 

 

                    (13.11.21)