九条葱 (2011)  混合技法 / 90x60cm
九条葱 (2011)  混合技法 / 90x60cm

画廊通信 Vol.113               熟読論

 

 

 先月の芸術新潮は、小林秀雄の特集だった。没後30

年・生誕111年を記念しての企画だそうで、「美を見

つめ続けた巨人」という副題が付いている。小林秀雄と

言えば、よく「近代批評を樹立した」云々という解説が

為されるが、そんな抽象的な物言いよりは端的に「美を

見つめ続けた人」と言われた方が、なるほど遥かに分り

易い。まずは小林秀雄という思索家は、あらゆる芸術を

我が事として体験し、その上で芸術を通した人生を考究

し、ひいては芸術を生きるという行為を、自ら実践した

人であった。

「芸術を我が事として体験した」という一節を、私は今

一度繰り返したい。これは重要な事だ。絵画にしろ骨董

にしろ、好きな物があれば身銭を切って買い求め、それ

を身近に置いてとことん付き合い、その上で彼は初めて

文筆を為した。換言すれば、一時の鑑賞だけでは何も得

られない事を、作品と共に生きる事こそ芸術の真の醍醐

味である事を、髄まで知り抜いていた人だったと言える。

 だから、卓抜の批評家と言われながらも彼の文章には、

知的批評の前にまずは対象への直観的な愛があった、好

きで好きでたまらないという血の通った情感があった、

そんな芸術への純粋な感動に揺るぎない芯を置いた事が、

彼の批評を同時代から抜きん出たものにしたのだと思う。

また、現代批評の賢しらな屁理屈が、彼に遠く及ばない

所以もそこにある。小林秀雄なら言うだろう、ごちゃご

ちゃとぬかす前に「買いなさい」と、買って共に暮らし、

徹底して付き合ってみなさいと。所詮、身銭を切る事を

厭う人間は、芸術の真髄にはついぞ触れ得ないままに、

終るしかないのだから。

 

 小林秀雄の文章は、難解だという定説がある。つい先

月の各新聞にも、大学入試センター試験に彼の随想が出

題されたおかげで、国語の平均点が過去最低を更新した

との記事が掲載され、読売新聞に到っては「小林秀雄の

古めかしい随筆風の文章は、過去問で対策を練って来た

受験生の意表を突いたようだ」といった書き方をしてい

る。失礼な。言うに事欠いて「古めかしい」とは何だ。

 昨今書店に平積みされている流行小説の、お子ちゃま

でもスラスラ読めるような文章が「新しく」て、厳しく

彫琢され一字一句まで練り上げられた文章が「古くさい」

のだろうか。ただ憤慨していても埒が明かないので、私

は問題の「鐔(つば)」という随筆を再読してみた。硬

質の清朗とでも言うべきか、余計な装飾を削り落した、

品格ある切れの良い文体である。これを「古めかしい」

と断ずるなら、世に言う名文の大方は、時代遅れの骨董

になってしまう。思うに小林秀雄が古くさいのではない、

「読み流す」事が読書という認識がいつの間に常識とな

ってしまった今、「熟読玩味」という読書本来の姿勢が

「古くさい」と思えるほどに、時代は安易な浮薄に弛緩

しているのだ。

 小林秀雄を読む人は、現代が忘れかけたそんな「熟読」

という書物との付き合い方を、否応なく要求される事に

なる。それを世は難解と評するのだろうが、実はそれこ

そが小林秀雄を読む妙味であり、ひいては読書という行

為が持ち合わせる、真の魅力ではないか。熟読とは立ち

止まる事、何度も立ち止まって考える事、立ち止まって

は思いをゆったりと遊ばせる事、そんな心ゆくまでの豊

かな玩味が、今あらゆる芸術の場において、忘れ去られ

てはいないだろうか。

 

 音楽を聴く、しっかり一曲の作品と対座して、繰り返

し繰り返し、胸奥へ十全に浸透し切るまで聴き尽くす。

絵画を観る、しっかり一枚の作品に対峙して、ただ虚心

に自らを解き放ち、絵の中を縦横に散策する。解説なん

て読まず、余計な知識も捨て去り、ただひたすら聴く事

・観る事に徹する、それが音楽における熟読であり、絵

画における玩味だろう。この辺りで話を絵画に絞ると、

一枚の本当に惚れ込んだ絵を熟読玩味し、とことんその

絵と付き合い尽くそうと思えば、方法はただ一つ、買っ

て生活を共にする他ないという、極めて単純な方途に帰

する。美術館廻りを趣味とする人が、一枚の絵に感動し

て何度も足を運んだ等の美談を、まことしやかに語る場

面に何度か遭遇した事があるが、しかし一枚の泰西名画

に何度か参詣したにせよ、その人はその絵と、どの程度

付き合い得たと言えるのだろう。合計しても1時間?、

あるいは2時間?、少し気張って3時間?、大いに頑張

ったとしても一日?、せいぜいそんな程度ではないだろ

うか。対して、他の誰でもない自らが「名画」と見定め、

身銭を切って我が物とした一枚の絵は、その人と一生を

共にするのである。一日と一生、それが美術館を廻って

絵を鑑賞する人と、絵を買って人生を共にする人との相

違であるのなら、一枚の絵と「付き合う」という意味が、

そこではまるで違う。おそらくは、人生を懸けて一枚の

絵と付き合い得た人だけが、付き合うほどになお尽きる

事のない、芸術の妙趣を知るのである。

 

 今春で10回目の個展となる中西さんの絵画は、正に

そんな尽きる事なき芸術の妙趣を、何を気負うでも衒う

でもなく、実にさりげない佇まいで内包している。殊更

に思想を標榜する風もない、声高に技法を顕示する風も

ない、本当はその思想も技法も、特異にして卓越のもの

ではあるのだけれど、その静かに香り立つような気韻か

ら滲み出すものは、これ見よがしな主張とは全く無縁の

ものだ。いや、無縁と言うよりはむしろ、自己主張の桎

梏を清々と離れたその地点から、画家はまさしく第一歩

を踏み出されたと言っても良い。昨年刊行された新しい

画集の中で、中西さんは自らの出発をこう語っている。

 

 春の日でした。下宿の窓からボンヤリと陽の光を眺め

ていた時でした。何を思ったのか、その資料(自ら研究

のために蒐集した書籍。当時画家は創作に思い惑い、美

学や美術史を研鑽していた)を紐で結わえて捨ててしま

ったのです。こんないい陽気に部屋の中にいるのがいや

になったのでしょうか。机に向かって本を読み耽るとい

うような性分でないと心のどこかで察していて、その機

会を窺っていたのかもしれません。

 しばらくのち、あるきっかけが又、私を絵に向かわせ

ました。「好きなものを好きな風に」描いていくしかな

いと、心せくこともなく、極めてゆっくりと歩きだしま

した。今思えば、この時が本当に絵に向かう第一歩だっ

たように思います。

 

 芸術表現とは、個性の発露に他ならないと信じる創作

家は多いが、実はその個性という曖昧な概念の大半は、

狭隘な我執に過ぎない事を知る者は少ない。中西さんは、

そのやっかいな我慢偏執という煩悩を、ある日さっぱり

と捨て去った作家だ。正にその地点から、中西さんの世

界は始まっている。個性から解き放たれた個性、言うな

ればこの背理こそが、中西和という画家の根幹を成すよ

うに思えてならない。そこには、対象を徹底して虚心の

眼差しで見つめ、おそらくはその寂静の所為の彼方に、

いつしか自ずと立ち現れるのだろう、あの言い難い精神

が遍満している。物(生物・無生物を問わず)に宿る魂

とでも言うべきか、むろんそのような実在の有無は手に

余るにしても、しかし何を描いた作品であれ、その絵と

静かに向き合う人は、画面からしんしんと滲み出すよう

なある確かな魂を、はっきりと感じざるを得ない。それ

が何かは分らないにせよ、それは紛れもなく目前にある、

その不可思議に否応もなく打たれて見入る内に、知らず

知らずその人は熟読に遊び、玩味を享受している。そし

てふと我に返った時、いつの間に自らの中で、物の見方

が一変してしまっている事を、快い驚きと共にその人は

知る事になるだろう。

 

 少々の脱線をお許し頂ければ、以前に佐倉の川村美術

館において、ジャコメッティの個展を観た事があった。

それまでにも何度か、折々にその作品を目にした事はあ

ったが、一作家のみの展覧はその時が初めてである。

 今正直に申し上げれば、会場を廻れば廻るほどに、私

はその世界を持て余すようであった。観れば観るほど不

可解である。どの作品も同じ鶏ガラのような、もしくは

肉も骨もない干涸びたミイラのような、そんな形象を飽

く事もなく創り続けたこの作家は、一体何を考え何を求

めていたのだろう。首を傾げながら行きつ戻りつし、遂

に答えの出ないままに会場を後にしたのだったが、ふと

展示してあった他作家の彫刻を目にした時、私は初めて

ジャコメッティという芸術家を知る思いがした。

 屋内には美術館所蔵のブールデル、屋外には佐藤忠良

のブロンズが設置されていたのだが、何とそのいずれの

人物像も、不必要な贅肉がダブダブとまとわり付いた、

鈍重な肥満体に見えてしまうのである。いつの間に私の

従来の視覚は、ジャコメッティという作家の放つ特異な

磁力によって、一変させられていたのだった。その性質

は全く異なるけれど、私は中西さんの芸術もその静謐な

佇まいの影に、それと同じ強力な磁場を感じるのである。

 例えば画家の描く葱を見た人は、以降今までのように

はそれを見られなくなるだろう。それまではその人の中

で、単なる「食材」に過ぎなかった葉菜が、中西さんの

作品に触れてしまったが最後、かけがえのない「存在」

へと昇格してしまうのである。前述した画集にも「九条

葱」という作品が掲載されているが、それにしてもその

葱は、何と清々しくもみずみずしい、溌剌たる生気に満

ち溢れていた事か。目前の不可思議な生命に目を見張り、

その爽やかで清らかな姿に、限りない讃嘆と敬意を捧げ

る柔らかな精神が、そこからは音もなく滲み出すようだ。

そして観る人の誰もが、そこはかとなく香る慈しみの中

に、ある尊い魂を見る事になるだろう。そこには最早主

張も我執もない、明鏡止水とでも言うべき清らかな風景

が、澄み渡るような気韻を湛えて広がっている。

 

 人間は、一枚の紅葉の葉が色づく事をどうしようもな

い。先ず人間の力でどうしようもない自然の美しさがな

ければ、どうして自然を模倣する芸術の美しさがありま

しょうか。言葉も又紅葉の葉の様に自ら色づくものであ

ります。ある文章が美しいより前に、先ず材料の言葉が

美しいのである。例えば人情という言葉は美しくないか、

道徳という言葉は美しくないか。長い歴史が、これらの

言葉を紅葉させたからであります。

 

 以上は、冒頭の芸術新潮に掲載されていた小林秀雄の

言葉(「文学と自分」より)だが、私はこんな文章を書

ける人間を信ずる。このひそみに倣えば、先述の葱もま

た、自ら色づいたモチーフとは言えまいか。葱だけに非

ず、画家の好んで描く独活にせよ稲穂にせよ、あるいは

炭にせよ碗にせよ、その色づきは正に盛秋の紅葉に例え

られる。長い歳月に亘る画業の中で、幾度も幾度も繰り

返し繰り返し、ゆったりと熟読玩味されながら、おそら

くは一度の飽く事もないままに、坦々と描かれて来たで

あろうそれらのモチーフは、今や鮮麗な錦繍をまとうか

のように、豊かな光を放って止まない。

 紅葉が熟成の謂であるのなら、中西さんはあらゆる対

象を熟成させる。熟成の玩味には、やはり熟読が似合う

だろう。そして人は熟読を重ねる程に、真の熟成とは褪

せる事なき鮮度に他ならない旨を、密やかな感嘆の内に

覚るのである。

                      (13.02.22)