CIVITA - 想い出になるまえに (2012) 油彩 / F3
CIVITA - 想い出になるまえに (2012) 油彩 / F3

画廊通信 Vol.109        今すぐに会いに来て

 

 

 以前にも何度か書かせて頂いた事で、新味のない話に

なってしまうのだが、我家には長年いそうろうを決め込

んでいる猫がいる。

 思い返せば、かつてバス停に並んでいる人の足に、見

境もなくニャアニャア体をこすり付け、毎夕けなげにク

ネクネと歩き回っていた猫がいて、その姿が「飼って下

さい、飼って下さい」と必死に営業をしているようで、

何しろ営業というものの辛さ・切なさだけは嫌と言うほ

ど味わって来た私としては、同病相憐れむという訳でも

ないのだけれど、このまま見過ごすのも何やら人倫にも

とるような気がして、ついベランダに呼んで餌をあげて

しまったのが運の尽きだった。12年前の事である。

 正直に申し上げると私はそれまで、猫なんてノミやダ

ニの発生源ぐらいの認識しかなく、そんなものを好き好

んで愛玩する人の気が知れず、ましてや野良猫なんてご

ろつきか与太者ぐらいにしか思ってなかったので、それ

を「飼う」などとは塵ほども考えてなかったのだが、猫

という生き物にとってそんな人間のプリンシプルなど、

正に風の前の塵に等しい事を知った時には後の祭りで、

許可した覚えもないのにいつの間にか平然と出入りして、

それだけならまだしも、太陽の香を一杯に吸い込んだ我

家の清潔なフトンの上で、のうのうと薄汚れたあごの下

なんざを掻きむしり、ノミやダニをまき散らす仕儀に立

ち到った頃には、ただただ唖然として追い出す気概すら

なくなっていた。しかし、以降かけられる事になった多

大なる迷惑を思い起す時、そんなものは瑣事・瑣末の部

類に過ぎなかったのである。

 

 さて、ねぐらと食い物を確保したシロ(我家に入り浸

るようになった頃には、ご近所で既にそう呼ばれていた

ので、私もその凡俗な命名に甘んじる他なかったのであ

る、言い訳ながら)が次に取り組んだ事業は、近隣一帯

の平定であった。と言えば聞こえはいいが、要するに自

分で勝手に決めたらしい領土へ、のそのそと足を踏み入

れてしまったよそ猫に、手当り次第に喧嘩を吹っかけ

事を任務としてしまい、これが朝だろうが夜中だろうが

所構わずギャオギャオ・ミャーミャーとおっぱじめるも

のだから、日々やかましい事この上ない。しかも身の程

知らずとはこの事で、自分の倍ほどもあるようなどら猫

にまで果敢に闘いを挑むのもだから、しょっちゅう血だ

らけになって帰還するのである。そうなると成り行き上

放っておく訳にもいかず、その度に病院に連れて行く事

が日常茶飯事となってしまい、さすがに元旦の夜に脳天

に穴を開けられて、顔中血みどろになって帰って来た時

には、そのあまりのたわけ加減に頭がクラクラした。

 そんな訳で、もう何度喧嘩の負傷で病院に通い、その

度に苦しい財政の中から、幾ら不毛な出費をさせられた

か判然としないが、まあそれはさておき、初めて病院に

連れて行った時に「たぶん7歳ぐらいかしらねえ」と先

生に言われたのだから、それから12年の歳月が流れた

事を考えると現在は19歳、道理でこのところ、とみに

爺むさくなった訳である。

 

 つい先日も帰路の道すがら、近所(年と共にどんどん

縄張りが狭まり、現在の領土はかつての十分の一以下、

往年の隆盛見る影もなく、本当に『近所』だけになって

しまった)をパトロールしていたらしいシロが物陰から

ふらっと出て来て、一緒に「ただいま」と帰宅したのだ

が、玄関への階段もかつては白い疾風(はやて)かと見

まがうほどの勢いで駆け抜けて行ったのが、今や老境の

侘しさをそこはかとなく漂わせて、一段ずついちいち立

ち止まりながら、ヨッコラヒョイ・ヨッコラヒョイと、

何ともみじめったらしく登って来るのである。「おい、

大丈夫かい」と声をかけつつも、そのあまりの情けなさ

に思わず笑ってしまったのだが、その内にふつふつと、

そう遠くもない明日の我が身を見ているような気がして

来て、何やら人生の悲哀を冷え冷えと感じさせられた出

来事ではあった。そんな飼主の憂愁を知ってか知らずか、

当人はムシャムシャと夕食を済ませてねぐらに直行する

と、ごろりと丸くなって数分ののちには、太平楽な寝息

を立てていたのだけれど。

 

 今回で9回めを数える平澤さんの案内状には、久々に

猫の作品を使わせて頂いた。「あしたの約束」M6号、

どこからともなく不敵な面構えの野良猫がふっと現れ、

こちらを睥睨(へいげい)するかのように見据える図で

ある。下方には一軒の小さな家、そこに向おうとしてい

るのか、そもそも向うべき家など持たないのか、その行

き先は杳(よう)として知れないが、生きる孤独とした

たかさを確固とにじませながら、彼は枯葉色に染まる時

空にたたずむ。そのどう仕様もない目つきの悪さが、う

ちのシロにそっくりだからと、一方的な身びいきをする

訳ではないのだが、「どうせ脛にきず持つ身ですが」と

語りかけて来るような、その見事にやさぐれた風貌が良

い。よく見ると、幾重にも絵具の重ねられた地肌が、得

も言われぬ風合いをかもし出して、そこから様々なイメ

ージのかけらが、密やかに湧き上がるかのようだ。

 ぼうっと見ている内に、実はこの絵の主人公は猫でも

家でもないんじゃないか、平澤さんが本当に描き出した

かったものはこの絵のどこにも描かれていない、しかし

確かに感じられるある雰囲気なのではないか、そんな思

いが茫漠と立ち上がって来る。アトモスフィア──と言

えば妥当なのだろうか、画家はむしろそれを表したいが

ためにこそ、色々なキャラクターを描いて組み合わせる

のではないか、そんな考えさえ湧いて来てしまうのだ。

 私は今こうして書きつづりながら、ある美術誌の中で

初めて平澤さんの絵に出会った時の、あの「感じ」を思

い出している。それは私の中でいつも鮮明に顕在化し、

今もその世界を思い描く時、色あせる事なくある雰囲気

を喚起する。もともと言葉にはならない「感じ」なのだ

から、さて何と言ったら良いのだろう、どことなくもの

哀しいような、うら淋しいような、しかしどこかしら軽

やかで柔らかな、懐かしく澄んだ風の吹くような、そこ

では全てが解き放たれて、どこへでも自由に行けるのだ

けれど、もう少しの間立ち止まったまま、その微細な大

気に心遊ばせていたくなるような……と書いていると、

やはり言葉では届き得ない事を思い知らされてしまう、

そんなどうにもつかみ難い不思議なアトモスフィアを。

 そこにタイトルという「言葉」が添えられた時(と言

うよりは『ぶつけられた時』と言うべきか)、相乗する

イメージは見る者の中で更に広がって、あのユニークな

「平澤ワールド」が完成するのである。

 

 ひとりの午后に

 NEKOはまだ帰れない 

 あなたには私が分らないのね

 それでも「ただいま」と言ってみる

 

 今すぐに会いに来て

 想い出になるまえに

 やさしい微笑をもういちど

 さようならだけは言わないで

 

 思い出してはいけない

 いつもそしていつまでも

 答えのない旅はつづく

 それでいい

 

 少し遊んでみたのだが、お分りだろうか。この詩は私

が考えたものではなく、実は今回の出品作品のタイトル

を、適当に並べてみただけのものである。つまりは詩の

一行一行が、全て作品に付けられたタイトルなのだが、

こうしていい加減に組み合せただけでも、そこには一篇

の詩が立ち上がる。おそらくは平澤さんの今までに用い

たタイトルだけで、一冊の詩集が出来上がるだろう。

 平澤さんは、言葉と格闘する人だ。アトリエに伺った

際などに、そのノートやメモをかいま見ると、そこには

様々な言葉の断片が、びっしりと書き連ねてある。言葉

に出来ない世界を知る人だからこそ、なお言葉を選ぶと

いう行為には厳しいのだろうか、そんな格闘の末に書き

込まれた一行のタイトルを見る時、あの詩的時空が密や

かに、そして軽やかに立ち上がる様を、人はありありと

感じる事が出来るだろう。だから、ぜひ会いに来て頂き

たい、「NEKOはまだ帰れない」に、「やさしい微笑を

もういちど」に、「いつもそしていつまでも」に、文字

通り「想い出になるまえに」。

 以前、何かの折に書かれた平澤さんのメッセージを、

ここに抜粋しておきたいと思う。

 

 日常の忙しさに追われ、どこかに置き忘れてしまった

 ささやかだけど大切な感情や、本来なら在ることを示

 唆するようなものや、小さな行き違いとか、すれ違い

 から、私の絵は生れています。

 何を描き、何を描かないか、どこまでを描き、どこま

 でを描かないのか、それらのはざまを行きつ戻りつし

 ているうちに、自分では意識していないもの・理解で

 きないものを絵の中にあらわすことが出来たら、心の

 中のモヤモヤが少しは晴れるような気がします。すぐ

 に理解できないものを切り捨ててしまうのではなく、

 立ち止まって想像力を膨らませてください。絵の有り

 ようが、見る人のものになってくれればと思います。

 

 昨夜、いつものように帰宅して玄関のドアを開けた刹

那、階段の下から白い疾風が音もなく駆け上がって来て、

一瞬の内に家の中へと消えた。と思いきや、台所から勢

いよくすっ飛んで来て私の部屋へ向ったが早いか、あっ

という間に舞い戻って瞬時に居間を横切り、寝室へ駆け

込んだと思ったらガリガリと爪研ぎを始め、ひとしきり

カーペットを掻きむしったのち脱兎の如く部屋を駆け抜

け、瞬く間にベランダの外の夜陰へと走り去った。

 かねがね猫の思考回路というものが理解出来ず、わず

かな脳味噌の中で勝手に混線しているのだろうぐらいに

しか思ってなかったので、その面妖な走りが何を意味す

るものかは、謎のままで仕方ないと思ったのだが、一つ

必然的に判明してしまった事は、動こうと思えば未だ敏

速に動けるという事実である。ならば先日の爺むさい姿

は何だったのだろう、あれは巧みな「演技」だったのだ

ろうか、12年の長きにわたって衣食を共にしながら、

何を考えているのやらさっぱり分らねえや……と慨嘆し

ていたら、さっきマタタビをあげたのよ、と妻が言う。

どうやら一時的に気が大きくなって、得意げに走り回っ

ていただけらしい。たぶん、俺はまだまだいけるぞと、

錯覚でも起したのだろう。何の事はない、酒を飲んだ時

の私と同じではないか。猫の思考回路をあなどっている

暇があったら、自らの猫並みの回路をこそ危惧すべし。

 しかし私は今、あえて猫並みの思考のままに思うので

ある。シロともいずれ別れが来るだろう、19歳ならば

そう先の事でもあるまい。いずれ、かく言う私だって。

ならば君、生きている間ぐらい、お互い大いに錯覚をし

続けようじゃないか、呉越同舟を共々に謳歌しながら。

 

                     (12.10.26)