ジャイロスコープ (部分)        鉛筆 / 39.0x52.0cm
ジャイロスコープ (部分)        鉛筆 / 39.0x52.0cm

画廊通信 Vol.143         ルンバの掃き残し



 画廊の扉を開ける。薄暗い店内に足を踏み入れると、壁には何やら訳の分らない絵が、ひっそりと掛けられている。外界の喧噪とは隔絶された、時間の止まったような世界で、柔らかに心を解き放ち、非日常の時空に身を委ねるひと時。ふと足下に目を落すと、何処からか現れた円盤状の奇妙な器械が、ゆっくりと床を這ってこちらへと近付いて来る。静寂の異空間、その床を音もなく這い回る自動器械……「ルンバの居る画廊」というのが夢だった。言うまでもなくルンバとは、アイロボット社の

自動掃除機である。別に、掃除が面倒だからロボットに

任せようとか、金策が忙しくて掃除にまで手が回らない

とか、そんな卑賤の理由からではない。「画廊」と「ル

ンバ」という全く関連性のないファクターが、思いがけ

ない出会いを果した時、そこに或る名状し難いアトモス

フィア(雰囲気・空気感)が、忽然と喚起される故であ

る。そこからは、何か不思議な「詩」が感じられないだ

ろうか。もしそうだとしたら、それは異なるファクター

をぶつけ合せる事によって、全く新たなイメージを生み

出す、いわゆる「コラージュ」の為せる業である。


 コラージュについては、以前にも何度か書かせて頂い

たので、毎回同じ話ばかりでウンザリと言われてしまい

そうだが、何故にそう同じ話を繰り返すのかと問われれ

ば、以前に書いた事を忘れてしまうからである。今し方

も「あれ?もしかして以前にも書いたかな?」と疑わし

くなって来たので、過去の記録を引っ張り出してみたら

何の事はない、一昨年も更にその数年前も、その歴史か

ら方法論までを、詳らかに書いているではないか。考え

てみれば、同じ人間が書いているのだから同じ事しか出

て来ないのは道理で、それでも無理に絞り出そうとする

からこういう羽目になる。ならば無益な努力は已めて、

書いた自分も忘れているぐらいだから、読んでくれた方

だって忘れているだろうと開き直り、こうして飽きもせ

ずまた同じ事を書いている次第である。言い訳はこのぐ

らいにして、現在「コラージュ」と言った場合、油彩や

アクリルによる描画の中に、種々の紙片や布等を貼り込

んで、特殊な効果を狙う方法を指すのが通常だが、それ

は正確には「パピエ・コレ」と呼ぶべきもので、ピカソ

やブラックといった革命児が、キュビスムを探究する過

程から生み出した手法であった。美術史的には、確かに

コラージュはその延長線上にあり、パピエ・コレを更に

発展させたものには違いないが、当時分野を超えた革新

的な芸術潮流として、センセーションを巻き起していた

シュルレアリスムの洗礼を受けて、端緒となった技法と

は段違いの先鋭的なものへと進化を遂げるに到る。その

最も大きな立役者がご存じエルンストだが、彼の提唱・

実践した「コラージュ」とは、そもそも「技法」という

狭い枠で捉えるよりは、その根柢を成す「方法論」とし

て捉えるべきだろう。コラージュは「思想」である。


 「数日前から私の家の台所の片隅に、官吏がすわって

 いる」という、全体でただこれだけのカフカの断片が

 いくら捜しても見つからなかったことがあった。この

 断片は、いまだに見つけることができないでいる。


 上記は保坂和志「カフカ式練習帳」からの一節だが、

文中のカフカの断片には唸るほど感嘆した。たった一行

にコラージュの粋を湛え、延いてはシュルレアリスムの

髄を孕んだ、見事な一文だと思う。「数日前」という単

語、「私の家の台所の片隅」という熟語、そして「官吏

がすわっている」という単文、これら解体された幾つか

の部分は、それだけなら何の変哲もない只の分節に過ぎ

ないが、それが一行に連結された時、突如不思議なアト

モスフィアに満ちた文章へと変貌する。「数日前」から

「私の家の台所の片隅」に「官吏がすわっている」──

反芻するほどにここからは、一種異様と言ってもいい何

か奇怪なイメージが、じわじわと滲み出しては来ないだ

ろうか。コラージュの魔術である。あらためて定義して

みれば「無関係な要素を自由に構成して、新たなイメー

ジを作り出す事」と言えば妥当だろうか、この方法論こ

そピカソ達のパピエ・コレを端緒として、エルンストが

コラージュへと進化・発展させた狙いであった。そして

この手法は、既知の意味や理念を超えて意識外の世界を

希求するシュルレアリスムの具現に当って、正に打って

付けの方法だったと言える。上述の「単語」や「熟語」

を「モチーフ」に換えて、それらの連なった「文章」を

「画面」に換えれば、文学的コラージュは視覚的コラー

ジュへと分野を移し、よりダイレクトなイメージを強力

に放つ世界が、眼前に幕を開けるだろう。こうして私達

は河内良介の世界へと、足を踏み入れるのである。


 河内さんの隅々まで描き込まれた細密の画面は、一見

コラージュというイメージからはほど遠いものに感じら

れるが、エルンストの提唱した本来的な意味でのコラー

ジュの精神が、そこにはいきいきと脈打っている。正に

「無関係な要素を自由に構成して、新たなイメージを作

り出す」という正統派コラージュの方法論が、突き抜け

るように軽やかな遊び心で具現化されている様を、見る

人はありありと目の当りにするだろう。ただ、エルンス

トならどこかの雑誌から切り取って、ベタベタと貼り合

せればそれで完成とするものを、河内さんは10Bから

10Hにもわたる全硬度の鉛筆を総動員して、気の遠く

なるような細密画法で、丹念に描き込んで往く。結果出

来上った作品は、通常のコラージュ作品とは似ても似つ

かぬ、ある種静謐な気品を湛えたものとなり、かつての

シュルレアリスト達が作り出したようなイメージの混乱

は、最早そこには見られない。むしろそこには、コラー

ジュという方法論を突き詰めた末の、純化された一つの

到達点とでも言うべき境地が、透明な明るさの中に確固

として提示されている。言うなればそれは、現代に新し

く展開された、最も良質なシュルレアリスムの姿と言っ

ても、決して過言ではないだろう。ただし河内さんご本

人によると、ダリやマグリットといった歴史上のシュル

レアリスト達の影響は、全く受けていないそうである。

のみならずご自身の作風を「シュルレアリスム」とカテ

ゴライズされる事自体、あまり好まれないような節さえ

見受けられる。よくよくお話を聞けば、それも然りと思

える。実を言うと河内さんの原点は、もっと遥かに歴史

をさかのぼった、ルネサンス期にあるのだから。


 浅学によるとシュルレアリスムの源流は、15~16

世紀にかけてのフランドル派まで、さかのぼる事が出来

るとする見解もあるらしい。いわゆるヒエロニムス・ボ

スや、その影響を受けたピーテル・ブリューゲル等の、

特に宗教的な寓話を題材とした作品には、確かに怪奇幻

想を極めたかのような一種異様なイマジネーションが、

これでもかとばかり過剰なまでに満ち溢れている。

 5年ほど前の事になるが、渋谷の Bunkamura で「ブ

リューゲル版画の世界」展が催され、私自身は例の如く

見逃してしまったのだけれど、あるお客様に図録を戴い

たおかげで、書物の中ではあったがその世界を堪能する

事が出来た。その作品群を見て分ったのだが、おそらく

ボスやブリューゲルにとっては、宗教なんてただの名目

に過ぎなかったようである。何しろその世界は、ちっと

も宗教的じゃない。それどころか、宗教という名目の下

に彼らはおよそ考え得る限り、やりたい放題の放縦を尽

している。無数の魑魅魍魎が繰り広げる笑ってしまうほ

どのナンセンス、その果てるとも知れない乱痴気騒ぎを

見ていると「教会のお墨付きさえあれば、何をやっても

いいんだもんね」という画家の喜びの声が、画面の端々

から溢れ出すかのようだ。これはどう考えても宗教画な

んてものじゃない、極めて悪趣味な(誉め言葉である、

念のため)シュルレアリスムとでも言うべきか。

 ご本人のお話によると、かつてこのブリューゲルの銅

版画を見た事が、絵画を志す契機となったのだそうだ。

中学生の頃だったと言う。近代のシュルレアリスムを更

にさかのぼり、その源流が遥かルネサンス期にあった事

を考える時、あれだけモダンな河内さんの芸術も、実は

西洋の幻想芸術の系譜に、しっかりと根ざすものであっ

た事が分かる。しかしながら悪趣味はユーモアへ、怪奇

はファンタジーへと上質に転化し、ここ東洋の末裔はし

なやかに闇を抜けて、陽性の開かれた世界へと到ってい

る。加えて言うのなら、シュルレアリストの指向に顕著

な、無意識へと下降するフロイト的な暗さもそこにはな

い。白昼の幻想芸術とでも言おうか、斬新にして洒落た

不条理に、その世界は軽やかに解き放たれている。


 先日、ルンバが画廊に来た。言い訳ではないけれど、

珍しく金が余ってしまったとか、そういう事ではない。

何かの会員特典で、妻が格安で仕入れて来たのである。

早速掃除をしてみた。と言うよりも「させて」みた。充

電を終えてスイッチボタンを押すと、俄にギュイーンと

走り出し、直ぐにゴツンと壁にぶち当って方向転換をし

て、またゴツンとぶち当っては他の方向へと走り出す。

奥の事務室で聞いていると、ギュイーン、ゴツン、ギュ

イーン、ゴツンと結構騒がしい。これで「画廊の床を音

もなく這い回る自動器械」というコラージュ的夢想は呆

気なく潰(つい)えたが、飽かず掃除に専心している姿

を見ると、以外に真面目な性格らしい。ただ、何を考え

ているのかが皆目分らない。同じ所ばかりを何度も往復

してみたり、やっと向うに行ったかと思いきや、どうし

た事かクルリと向き直って戻って来たり、その途中で何

を思ったか急にあらぬ方角に曲ってみたりと、実に不可

解な動きをするのである。まあ、これもシュールの一形

態ならと許容しつつ、それにしても良く働くなあと、そ

の健気な仕事ぶりに感心していたら何の事はない、突然

「バッテリーが切れました」と高らかに宣言し、止まっ

てしまった。馬、馬鹿野郎、「掃除が終ると自動的に充

電器まで戻ります」と、マニュアルに書いてあったじゃ

ないか。だから密かに期待してその瞬間を待っていたの

に、勝手に力尽きるとは何事か!と、思わず怒髪天を衝

きそうになったが、まあ、ロボット相手に怒っても仕方

ないかと諦めて、重たい円盤をよっこらせと持ち上げ、

すごすごと充電器まで運んであげたという顛末、しかも

掃除の後を点検してみたら、真面目な割にはちらほらと

ゴミが落ちている。ルンバも、掃き残すのであった。


 ガムテープを丸めて、床のゴミを拾いながら考えた。

最先端テクノロジーを誇る掃除機も、決して完全ではな

い。敷衍して思うに、これから先文明がどんなに発展し

ようと、それを推進する科学も技術も工学も、延いては

有りと有る知性も、必ずや何かを掃き残すだろう。それ

は良い事だ。ルンバの掃き残しはゴミに過ぎないが、文

明の掃き残した物の中には往々にして宝がある。きっと

本当に大切な物は、そんな掃き残しの中にこそ潜んでい

るものだ。よって人智が進化するほどに心豊かな人は、

掃き残された知性の及ばない領域に、なお生きる糧を希

求して止まない。そこには直観と感性の大地が広がり、

無数の芸術の種子が風に舞っている。それを誰もが心に

育んだ時、初めて文明はその有るべき姿を現すだろう。


                    (15.08.05)