二日月 (2024)     Acrylic / 25x25cm
二日月 (2024)    Acrylic / 25x25cm

画廊通信 Vol.258             月夜の記号論

 

 

 新井さんの作品に初めて出会ったのは、2003年の「DOMANI・明日展」において、当時の会場は新宿のSOMPO美術館であった。同展は昨年の25回展をもって、惜しくもその活動にピリオドを打つ経緯となったが、文化庁が主催する「芸術家在外研修員制度」の成果発表の場として、長い年月を機能した展示会である。新井さんは1997年から98年にかけての2年間をアメリカに滞在し、その間ニュージャージーのシートン・ホール大学や、ニューヨークのキャスト・アイアン・ギ

ャラリーで個展を開催されており、それに続く新たな制

作発表としての展示が、上述の忘れ得ぬ出会いとなった

訳だ。当時の画廊通信に、私はこのように記している。

 

 順路を歩いてそのコーナーに足を踏み入れた瞬間、突

 如私は打ちのめされた。ブースには大作が3点のみ、

 何を使ってどう描いているのか見当も付かないが、多

 様な凹凸を見せる堅牢な茶系の地塗りが、悠久の大地

 を思わせるような圧倒的な迫力で目の前に迫る。画面

 には、葉や枝による様々なオブジェが散りばめられ、

 得体の知れない足跡や無数の不可思議な形象が刻まれ

 て、独創的な時空が形成されている。見ていると、そ

 こはかとなく響いて来る「原初」の鼓動・熱・そして

 光──そこには何か大いなるものが在った。狭い人間

 の思考領域を超えて、未知なるものと交感する芸術家

 の精神が在った。初めて体験するスケールの大きな世

 界に包まれて、生命のエネルギーを深々と放射する大

 画面を前に、私はただ絶句して佇んでいたのである。

 

 という訳で、多少大仰な物言いはご容赦頂くとして、

そのような高い完成度を持って提示された、ある種普遍

的なものを感じさせる抽象表現に心打たれ、私は後日作

家にコンタクトを取って、個展開催をお願いする経緯と

なった。それから2年を経た辺りで、当店において念願

の初回展が開催となった訳だが、実はその頃には、新井

さんは既に次のフェイズへと歩みを進められていて、以

前のSOMPO美術館における展示とは、全く異なる作

風に進化されていた。思うに優れた芸術家とは、いつも

こうなのだろう。こちらが追い付いた頃にはもう遥かな

先に居て、私達はその爽快なる裏切りにワクワクしなが

ら、またその後を追い掛ける仕儀となる。完成したスタ

イルを惜しげもなく離れ、軽々と新たな航海へ旅立つ、

たぶんそれを可能とする作家だけが、新しい歴史を拓く

に値する、真の芸術家と言えるのかも知れない。以下に

そんな新たな作風に言及した、画廊通信からの抜粋を。

 

 以前の極力に色彩を抑えた、大地のように堅牢で重厚

 な作風から、多様な色彩が幾層にも綾なす、柔らかに

 流動する時空へと、画家は大胆に歩を進めた。それは

 水のように流れ、霧のように揺蕩い、雲のように浮か

 び、風のように揺らぐ。そこには破壊も混沌も葛藤も

 全てを緩やかに孕んで融解し、茫漠と流動する領域が

 在った。見るに連れてその世界は、揺れ動くような光

 彩を、時空の切れ間より覗かせる。やがて見る人はそ

 の幾重にも堆積して、穏やかに交響する色彩の海に、

 悠揚たる航跡を描く船上の、遥かな旅人となるのだ。

 

 当店における「新井知生展」は、正にそのような新し

いスタイルから始まった訳だが、当時の作品の多くに、

新井さんは「Neutral Space」というシリーズ名を冠し

ていた。言うまでもなく多くの作家にとって、作品とは

自己の表現に他ならない。これは歴史的に見ても芸術の

根幹を成す概念であり、具象・抽象を問わず「制作」と

いう行為において、この一点だけは全てに共通する公理

と言えた。対して新井さんは、新しい手法や試みが大方

やり尽くされたような、ある種困難を極める時代状況に

おいて、更なる絵画の可能性を探求し模索する中で、こ

の根本的な考え方そのものを問い直す事から、新たなる

世界へ踏み出した人であった。自己を「表現」するので

はなく、自己を離れた世界と「交感」する事、その自己

と外界の交感する「場」が新井さんの世界であり、それ

は自己と外界の間に広がる、誰のものでもない開かれた

領域である。狭い自己を離れ、広大な外界(宇宙)と響

き合う時空、「Neutral Space」とは正にその領域を象

徴するものとして、画家が採用した言葉であり概念であ

った。よってそこに「意味付け」と言う補足は不要であ

った事から、各々の作品にタイトルが付けられる事はな

く、ただナンバーが打たれるのみであったが、2018

年の6回展の際に、突如作品の一点一点に、詩的なタイ

トルが冠される事となった。この時の新たなコンセプト

は、前回の画廊通信で既に紹介したので、繰り返す事に

なるが、以下に作家自身の言葉を再度記しておきたい。

 

 コロナ禍の中で閉じこもるように描いてきて、人間は

 ただ思い返すといった記憶だけでなく、記憶を辿りな

 がら、あったかもしれない、またはあり得たかもしれ

 ない物語や、またはその先へイメージを伸ばすという

 事をしているのではないか、と思うようになって来ま

 した。つまり物語を紡ぐという事です。たいして波瀾

 万丈な人生ではなくても、どんな平凡に見える人生に

 も、その人なりの物語があるはずです。自分なりの物

 語を紡ぐ事で、自分の人生を大切な愛おしいものとし

 て生きられるのではないか、そんな事を思いました。

 以前は、線や色が純粋に成立する抽象的な作品でした

 が、最近はランダムに描いた線や色面などが時々何か

 の形に見えるような事があり、何かが見えた時にそれ

 を頼りにイメージをたぐり寄せて、作品にするような

 描き方になりました。多くの線は直接描いたものでは

 なく、画面を引っ掻きそこに絵の具を塗り込めたもの

 で、自分が描くと言うよりは、偶然に出て来た形から

 導かれるようなやり方です。従ってそれらは脈絡のな

 いものですが、だからこそ見る方がその中から、思い

 思いの物語を紡いでくれたらいいなと思っています。

 

 以上、今世紀に入って以降の、画家の足跡を概観して

みたが、上述の手記より数年を経て今、新井さんは更な

る新たなフェイズに入られたように思える。画面に散り

ばめられた多種多様なモチーフ──そこには鳥が居て、

樹があり、枝があり、花が咲き、家屋があり、卓上には

グラスが置かれ、ビンが佇む。そして線路が敷かれ、乗

物が走り、池は水を湛え、空には月が掛かり、加えて何

らかの形を取る前のような、或いは何らかの形が崩れか

けたかのような、様々な線やフォルムが空間を埋める。

それらは正に、今回の展示会タイトルでもある「キオク

ノカケラ」達が、画家の内奥より浮かび上がって結晶化

した、言わば「記憶の刻印」とでも言うべきものだ。そ

の多彩な線や形が自在に交錯する、秘めやかに響き合う

ような画面を見ていると、私はかつてクレーやマティス

の創出した或るユニークな世界を、いつしか彷彿と思い

描く。晩年のクレー、同じく晩年のマティス、そして現

在の新井さん、それぞれは全く異質な作風でありながら

も、この三者は或る共通した手法を持つ。むろん、そこ

に到る経緯は三者三様であるにせよ、同一の類型に属す

るであろう方法論、それは即ち「記号」の登用である。

 

 資料に逐一当たる暇が無いので、手元の図録や画集か

らの推論になるが、クレーは1930年代の後半に到っ

て、ほとんど記号だけで構成された作風に到達する。画

面に文字等の記号を持ち込む傾向は、以前から有ったに

しても、記号的な形象だけで構成する作画は、1940

年に死去する画家の、晩年の数年間に集中している。画

集には必ず登場する「Lu近郊の公園」や「ドゥルカマ

ラ島」といった作品は、その最も顕著な例と言えるだろ

う。黒く太い描線で記号的な形態が描かれ、その周囲を

柔らかな色彩が包むという構成、それは極限まで具象を

抽象化して行った画家の終着点であり、同時に新たな可

能性を豊かに孕んだ、具象と抽象の境界域でもあった。

 それから約10年後、1940年代も後半に差し掛か

った頃、マティスは正に記号だけで描いた連作を発表す

る。「オセアニア」と題されたシリーズだが、これはそ

れまで断続的に制作してきた切り紙絵の集大成とも言え

るもので、飛翔する鳥を暗示する記号や、南国の魚類・

植物等を思わせる記号が、空間にゆったりと散りばめら

れて、単一の淡い色調でありながら、生き生きとした伸

びやかな讃歌が、画面一杯に横溢するかのようだ。当時

マティスは70代後半であったが、驚くべき事にそこは

終着点に非ず、有名な「ジャズ」のシリーズを刊行した

その更に先、文字通りの最晩年に到って「ロザリオ礼拝

堂」という、畢生の大事業を手掛けている。ここでその

詳細を述べる余裕は無いが、設計・装飾・什器までをも

含めたその総合芸術の、最大の革新性を一つ挙げるとす

れば、それらの全てが「記号」で構成されている事だ。

例えばメインとなる祭壇画は、太い描線による記号化さ

れた聖像のみで、背景は何と、只の白いタイルである。

未だかつて、記号だけで描かれた無彩色の祭壇画が存在

しただろうか。現在もその斬新な教会の残るヴァンスに

は、例の如く足を運べずに居るけれど、私はマティスの

最晩年の仕事に触れて、革命とは何も過激な破壊を経ず

とも、至って穏やかに成され得る事を学んだのである。

 

 そもそも「記号」とは何か。それは意味を孕んだ図象

である。つまり意味を持つという側面では具象的だが、

具象を極限まで単純化したという側面では抽象に近い。

そのように考えた時「記号」の位置する場所とは、即ち

具象と抽象の狭間なのである。思うにクレーにせよマテ

ィスにせよ、具象にも執着せず、抽象にも拘泥しない、

自由に開放された領域を目指したからこそ、結果的に同

じ手法に行き着いたのではないだろうか。そして新井さ

んもまた、同様であろう。尤も、抽象を追求した末に記

号的形象に到ったというのは、前の二者とは対照的な道

筋ではあるが、以前の「Neutral Space」の時点から、

画家の指向が境界の消失した「間」の領域に在った事を

思えば、現在の作風も格別に新奇な試みというのではな

く、その延長としての帰結に過ぎないのかも知れない。

 

 記号は意味を指し示すが、説明はしない。よって見る

人は、受け取った暗示から自由にイメージを喚起し、そ

こに無限の彩りと広がりを与える。だからクレーの公園

を散策する人も、マティスの聖像に祈る人も、そして新

井さんの世界に分け入る人も、皆等し並みにそれぞれの

イメージを膨らませ、時に思っても見なかった記憶を、

自らの内に呼び覚ます。記憶の小径を何処までも辿り行

けば、やがて人は忘却の境界へと行き着くだろう。彼方

には無意識の森が広がるから、その手前は意識と無意識

の間、霧のように揺らぐ柔らかな境域だ。新井さんの描

き出す様々な記号達は、月下に密やかな交感と交錯を繰

り広げながら、いつしか私達をそんな無碍の時空へと誘

って已まない。そこでは、未だ鮮やかな記憶と遙かに霞

む記憶が、遠い鐘の音のように響き合い、気が付けば不

確かな物語の輪郭が、目前に音も無く浮かび上がる。そ

して私達は、画家の拓いた新たな地平を知るのである。

 

                     (24.08.03)