[INNOCENCE]より mixed media / 2022
[INNOCENCE]より mixed media / 2022

画廊通信 Vol.234        怪物と鉱物の出会う所

 

 

 あらためて言うまでもない事だが、小林健二という特異なアーティストは、私にとって長らく憧れの的であった。以前にも記した事だが、小林さんを知ったのは新聞の書評欄においてである。四半世紀も前の話だから、まだ2000年のミレニアムを超えてない時分だ。「ぼくらの鉱石ラジオ」という新刊の紹介記事で、昭和初期に一時的な隆盛を見たものの、今や歴史の彼方に埋もれて

しまった、電源を必要としない不思議なラジオを、とこ

とんまで研究し尽くした本との事、更に興味を惹かれた

のは、以下の記事であった──「成人して美術の世界に

進み、絵画、彫刻などジャンルを超えた作品を発表して

いる。十年ほど前、個展の作品として鉱石ラジオの制作

に成功、評判をよんだ。その延長に本書がある」云々。

こうしてこの著者の本分が、実は美術表現にあった事を

知るにつけ、都市の片隅の薄暗い個展会場に、精巧に作

られたレトロな受信機がひっそりと居並び、耳を澄ませ

ば宇宙から届く無数の通信が、ヒソヒソと微小な囁きを

交わしている、そんな光景を勝手に脳裏へ作り上げて、

私はいつになく胸をときめかせたりしていたのである。

実際に同書を購入して読んだのは、それから数年後の事

だったが、かつて無類の工作少年だった作者の、遥かな

未知へ寄せる熱い思いが、ページの端々からキラキラと

溢れ出すような、我知らず心の温かくなる本であった。

 記録を遡ってみると、小林さんの展示を初めて目にし

たのは、2006年春の事である。京橋のギャラリー椿

における「XYSTUM - 怪物の始まり - 」と題された

個展で、スペース一杯に広がる小林さんの内的宇宙に、

いつしか柔らかく包まれるような展示であった。ここで

言う「怪物」とは通常の意味ではなく、作家特有の用語

なのだが、小林さんの世界を形成する重要なファクター

であり、今回の新作にも諸処に登場するものなので、作

家自身の「怪物」という言葉に含ませた思いを、この場

に引いておきたい。以下は、当時のリーフレットから。

 

怪物の始まり ──  ぼくは近視のせいか散歩の途中にふ

とビルの側帯に 隠れるようにしている巨きなものを見

ることがある よく目をこらしてみれば それらはたい

てい大きな木や小さな森 あるいはビル自身の落として

いる影であったりするのだけど… やはり一瞬何かを見

たような感覚は 忘れられないでいることが多い まだ

目が良かった幼い頃にも 曇りガラスに映る雲からの陰

影やコップの中の水のひかり あるいはマッチ箱の小さ

な暗がりに何かを見たような そんな記憶を呼び起こさ

せる とりわけ疲労した日の気怠るさの中で 沸き立つ

お湯の音などに 遠く聖堂での大合唱や 知らないはず

の村祭りのおはやしを聞いたり 大きくゆったりした風

が電線をひくくハミングのように鳴らし ちょっとぞっ

として でもワクワクするような夜に まるでそれらを

背景曲のようにして 子供たちの夢から夢へと移り住ま

う不思議な怪物たちのことを想うのだ 怪物とはいって

も それらは少しも恐くはなくて むしろやさしい影や

霧のようにつつましく 少し涙を流していることもある

気さえする そしてぼくは思わず「いつもありがとう」

と 小さく心の中でつぶやいてしまうのだ  小林健二

 

 翌春、私は初めて小林さんにお会いした。当時は小石

川植物園の近くにアトリエがあって、色々な冊子や映像

等でその光景を見ていたものだから、ああ、ここがあの

小林健二のアトリエなのか……と、夢を見るような思い

だった事を覚えている。「人嫌いなもので……」と奥か

ら現れた小林さんは、以降4時間近くに亘って圧倒的に

自らの思想を語りながら、その間足下から天井までを何

千冊もの古書が、ギッシリと収納された書庫に案内して

くれたり、幾層もの棚が無数の絵具や道具や機械類で、

隙間なく埋め尽くされた工房を見せてくれたり、その謎

めいた科学実験室のような、得体の知れない秘密基地の

ような、或いは見た事もないけれど、錬金術師の仕事場

も斯くやと思われるような迷宮の中で、思えば私は作家

の驚くべき博覧と卓絶の見識に、ただ唖然としていたの

みである。そして熱意の迸るが如きお話を聞きながら、

純粋すぎるほど純粋なその精神に、絶対に揺るがないで

あろうその信念に、文字通り人生を懸けたその覚悟に、

深く心を打たれつつ思ったのである、この人はきっと私

を、ついぞ見も知らなかった場所へと導いてくれる、そ

の熱意に私も同じ熱意で応えられるのならば、私の前に

必ずや新しい地平が開けるだろうと。そしてその直感は

決して間違ってなかったと、今更ながら思うのである。

 同年の秋、当店では初めての「小林健二展」が開催と

なり、作家来廊日は狭い店内が、立錐の余地もないほど

の活況となった。この日小林さんは、制作技法から芸術

論へと話を進め、やがて宇宙論や独自の人生観へと移行

し、果ては宗教論から古代思想にまでテーマは及んで、

幸運にもこの場に居合わせた方々は、皆めくるめくよう

な知的高揚を味わわれた事と思う。外も暗くなった頃、

小林さんは突如「電気を消してみようよ」と言われた。

「土星望遠鏡」と名付けられた不思議な機械を見るため

だったが、古風な木箱に取り付けられた大きなレンズを

覗くと、その中に広がった宇宙空間の暗闇で、青く発光

する土星がゆっくりと回転している。照明を落して機械

のスイッチを入れると、レンズの奥に青い惑星がぼうっ

と浮び上がった。瞬間、暗い店内で一斉に漏れたその時

の溜息が、未だに忘れられない。この夜いつしか一つに

なった皆の心に、ある遥かな声が確かに響いた。それは

ふいに音もなく降り立った、とても美しい奇跡だった。

 

 さて、そんな初回展から15年、当店で4度目となる

今回の企画は、全点新たな描き下ろしによる油彩展であ

る。様々な樹脂を用いたレリーフ的な作品、多種多様な

素材から自在に成形されたオブジェ、場合によってはそ

れらに電気回路を組み込んだ作品、或いはボックスアー

ト的な作品、鉱石や結晶を用いた作品、高度な科学技術

を駆使した独創的な機械類等々、驚くほど多岐に亘るそ

の表現形態の中で、純粋な「絵画」表現のみに徹した今

回の制作は、正に画家・小林健二の実力を、存分に堪能

できる展示となるだろう。言うまでもなく、様々な側面

を持つ小林健二というクリエイターの根底には、やはり

「画家」という揺るぎない軸が貫かれている。今回の展

示はそんな表現者の根幹を、最も純粋な形で提示したも

のと言っても過言ではない。これは、昨年当店における

個展の直前に開催された、虎ノ門のCURATOR’S CUBE

においての展示に、系列としてはダイレクトにつながる

ものだろうから、その時に見た画家・小林健二の絵画表

現について、私見ながら以下に記しておきたいと思う。

 CURATOR’S CUBEは、虎ノ門ヒルズの道を隔てた真

ん前に位置するギャラリーである。店内に足を踏み入れ

ると、窓からの採光を受けて奥深い輝きを放つ小林さん

の大作が、広やかなスペースを取って掛けられていた。

この日あらためて感じたのは、小林さんの絵画が一様に

湛える、その「輝き」である。より正確には、小林さん

が用いる絵具の「発色」と言うべきか、これはこの日に

限った事ではなく、以前にも様々な機会に小林さんの平

面作品を見て、その度に強く印象に残っていた事なのだ

が、通常の油彩作家と比較すれば一目瞭然、明らかに絵

具の発色が違うのである。その事実を、あらためて目前

にまざまざと目撃して、絵具が絵具自体でこれほどまで

に美しい例を、私は未だ知らないと思った。むろん他作

家の表現においても、画面の中にハッとするような色彩

を見つける事は、特に珍しい事ではない。ただ、それは

色の置かれた位置や、周囲の色との対比からそのように

「見せて」いるのであって、決して絵具そのものが特別

な発色をしている訳ではない。対して小林さんの場合は

そう「見せて」いるのではなく、事実として絵具そのも

のが、えも言われぬ発色を見せるのである。それは青で

あれ赤であれ、自らが津々と発光するかの如く、まるで

絵具に何らかの鉱石を混入したかのような、美しい光輝

を湛える。それが画家の描き出すユニークなフォルムと

相俟って、正に小林さんならではの密やかな宇宙の響き

を、いつまでも尽きる事なく放って止まないのだった。

 

 ファンの間ではよく知られている事だが、小林さんは

絵具を自製する。大理石の板上で、鉱物性の顔料と独自

に調合した展色剤を、ガラス製の練り棒で混合するとい

う、言わば数百年前の古典技法と同じ製法をあえて用い

る。おそらくこの時、小林さんは顔料を、もしくはその

原料となる鉱物を、単なる絵具の「素材」とは考えてな

いだろう。既成の絵具を用いず、あえて自製するという

手法には、むろん制作上の技術的な理由もあるに違いな

い。しかし小林さんにとって鉱物とは、もっともっと大

きな意味を持つ存在なのではないだろうか。これは憶測

に過ぎないが、たぶん小林さんの考える鉱物とは、何億

年もかけて生成された地球の欠片であり、敷衍すれば、

気の遠くなるような時間をかけて齎された宇宙の欠片な

のである──小林さんの鉱石や結晶に寄せる偏愛を見て

いると、そう思わずにはいられない。極言すれば、天然

(小林さん特有の用語・遥かなる宇宙をも含めた大自然

の総称)への愛が結晶化したものが、小林さんにとって

の鉱物であり、ならばそれを原料として精製された絵具

は、画材という意味を遥かに超えた、より神聖な意味を

孕むものなのかも知れない。宇宙から齎された物質を用

いて、自らの夢見る宇宙を顕現する、この時鉱物という

存在を媒介に、宇宙は大いなるループを結ぶのである。

 そろそろ、前述した「発色」の秘密が見えて来ないだ

ろうか。おそらく画家の鉱物への愛は、鉱物が本来的に

含有する美を、最大限に引き出す事に向けられる。むし

ろ小林さんは、そのためにこそ絵具を自製すると言って

も良い。むろんそれには、鉱物学や化学への通暁が必須

となる訳だが、その辺りは周知の如く、小林さんの独壇

場であろう。まだ実際に見てはないのだけれど、送られ

て来た新作画像には、あの「怪物」たちが至る所に顔を

覗かせている。それらは概ね漏斗状のフォルムであった

り、それを逆さにした形状であったりするのだが、画像

では限界があるにせよ、そこに映し出された絵具のマチ

エールは、確かな強度でその発色を予感させる。宇宙の

美しき欠片たちが集合して「怪物」の形状を成した時、

彼らは未知からの言葉を、密やかに語り始めるだろう。

 

 案内状にもあるように、今回は西千葉駅を挟んだギャ

ラリー「くじらのほね」との合同企画となる。そちらが

どんな展示となるのかは、今のところ皆目分からない。

ただ小林さんの事だから、当店とはまた違った展示を考

えられている事だろう。ぜひ、併せてご高覧頂きたい。

 冒頭に、私にとって小林さんが「長らく憧れの的であ

った」と書いたが、それは文脈上過去形を使っただけの

話で、現在もその気持ちは変わらない。だから今でも、

こうして小林健二展を開催し、合同企画まで実現されよ

うとしている事が、ふと夢の如くに思えてしまう。たぶ

んこれから何度個展が重なろうと、この思いは消える事

がないだろう。故に四半世紀前から今に到るまで、小林

健二という名が浮かぶ度毎に、私は遥かな憧憬と共に待

ち望むのである、あの心ときめくような奇跡の到来を。

 

                     (22.09.24)