偏愛 (2022)     Plaster / h.185mm
偏愛 (2022)     Plaster / h.185mm

画廊通信 Vol.230       書かれざる音のように

 

 

 バッハに「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」という曲集が有る。クラシック・ファンにはよく知られた作品で、タイトル通りソロ・ヴァイオリンのための曲集なのだが、4楽章形式の教会ソナタと、自由な組曲としてのパルティータを、交互に組み合わせた構成となっている。中でもパルティータ第2番の5楽章「シャコンヌ」は、単独でも演奏される有名曲として知られ、確かに曲集の中でも群を抜く名曲なのだが、のみならず他の楽章にも優れた作品が多い。中でも瞠目すべきは、ソナタの2楽章目に置かれた「フーガ」である。ご存じのようにフーガとは、単一のテーマを次々と違う声部で追走しつつ、複雑なポリフォニーを織り成してゆく形式で、言わば多声部の絡み合いを本領とする楽曲なのだが、バッハはこの多旋律を前提とする形式を、単旋律しか弾けない筈のヴァイオリンに託すという無理難題を、見事な手腕で作品化している。聴いていると、独り

で弾いているとはとても思えないような箇所もあって、

その分演奏家は高度な技巧を要求される事となり、故に

この曲集はヴァイオリニストの試金石ともなっている訳

だが、とは言え、どんなに超絶技巧を用いた所でやはり

ヴァイオリンなのだから、ピアノやオルガンのように複

数のメロディーを同時に弾く事は出来ない、言わずもが

なの事だ。つまり、単旋律楽器で多旋律楽曲を弾くとい

う行為自体が、端から矛盾を抱えた試みなのだが、さて

この不可能とも思える難題を、バッハはどう解決したの

だろうか。この曲集は第3番まで有るので、フーガも3

曲挿入されている。第1番のフーガが最も短く、5分足

らずの小曲なのだが、それでもこの曲に、バッハは3つ

の声部を割り当てている。よって奏者は独りで3声部を

弾き分けねばならず、無論それは6本の手を持つ阿修羅

像でもない限り無理な話なので、バッハの用いた解決策

は、各声部の断片を交互につないでゆくと云う、ある種

コラージュ的な手法であった。楽譜を見れば、複雑に声

部が入れ替わりながら進行してゆく様が分かるのだけれ

ど、音が重なる部分は頻繁に重音を用いつつも、それで

も楽器の特性上、奏法的に限界が有るので、結果その時

々のメインとなる声部以外の対旋律は、どうしても書か

れない部分が多出する事になる。逆に言えば、その「書

かれない」部分が有るからこそ、断片的な連結が可能と

なる訳だが、しかし聴き込んでゆく程にこの曲は、断片

的な継ぎはぎによって作られているとは思えなくなって

来る、これは実に不思議な事だ。つまり、書かれていな

い筈の声部も、何かしら聴こえて来るような気がして来

て、今目前で弾かれている声部と共に、生き生きとした

対旋律を奏でながら、複数の声部が整然と進行してゆく

ように思えて来るのである。本当は「書かれていない筈

の声部が、ありありと聴こえて来る」と書きたい所なの

だが、残念ながら私の場合、未だ「聴こえて来るような

気がする」と云う域を出ない。しかしこれが優れたヴァ

イオリニストであれば、楽譜には書かれていない声部を

正に「ありありと」脳裏に聴きながら演奏している筈で

あり、だからこそ書かれない音も聴き手に伝わるのだろ

う。その時あらためて私達は、バッハが300年も前に

仕掛けた比類なき技を、深い感嘆と共に知るのである。

 

 さて、この不滅の名作を巡る話には、実に興味深い後

日談がある。1980年代に「バッハ/トランスクリプ

ション」と題された2枚組のCDが発売された。チェン

バロによるバッハ作品の編曲集で、奏者はグスタフ・レ

オンハルト、現代クラシック界の一翼を担う「古楽」の

創始者として名高い音楽家である。周知のようにバッハ

は、鍵盤楽器のための名曲を数多く残しているが、この

CDがそのような鍵盤曲集と大きく異なる所は、元々鍵

盤楽曲ではない無伴奏ヴァイオリンや、無伴奏チェロの

ために書かれた曲目を、レオンハルトがチェンバロのた

めに、独自に編曲して書き直した点にあった。現代で言

う「リメイク」である。実はこの中に、先述の「無伴奏

ヴァイオリン・ソナタ」も収録されていて、件のフーガ

も完全な形で演奏されているのである。「完全な形」と

云うのは、つまりは「書かれていない」声部を新たに書

き加えて、バッハならこう書いたであろうと云う想定の

下に、3声部の完成形として復元したと云う意味だ。有

り体に言えば、レオンハルトがバッハの書かなかった部

分を、勝手に作曲して付け加えてしまった訳で、それは

ルール違反ではないかと云う意見も有るだろうけれど、

何せやったのが「現代のバッハ」とも呼ばれるレオンハ

ルトだ、これ以上バッハに成り切れる人間も居ないだろ

うと云う事で、特に問題もなく世の承認を受けている訳

である。聴いてみると、技術的な問題によって生じた欠

損が補われた事によって、そこには確かにあのバッハ特

有のフーガが、生き生きと再現されてはいるのだが、し

かしながら、欠損だらけのヴァイオリン版を上回るもの

が有ったかと言えば、そうとも言えない、むしろヴァイ

オリン独奏の方が良かったような気さえして来ると云う

始末、これは奇妙な体験であった。そして、この興趣の

尽きない比較から、作者が無伴奏ヴァイオリンのフーガ

に託した真意が、初めて見えたように思えたのである。

 おそらくバッハは、単旋律楽器の特性上、複数の声部

が「書けない」と云う制約を、敢えて「書かない」と云

う手法に転じたのだと思う。声部の断片を随処に挿入す

る事によって、書かれなかった旋律を暗示する、その見

事な暗示に喚起された聴き手の想像力は、遂には書かれ

なかった音を聴くだろう。もしや豊潤な感性の人であれ

ば、書かれた音を超えるようなポリフォニーを、脳裏に

描き出すかも知れない、そんな優れた機能としての想像

力を呼び覚ます仕掛けとして、バッハは「暗示」と云う

手法を用いた、即ち「書かない事によって、多旋律を暗

示する」と云う極めて高度な策略を、敢えてヴァイオリ

ンの特性である単旋律に託した、それこそがバッハの成

した比類なき作曲の、真意だったのではないだろうか。

 

 例によって長話となってしまったが、以上の考察をこ

こに記したのは、つい先日久々に上述の曲集を聴きなが

ら、三木さんのブロンズ作品を思い出したからである。

5年ほど前になるだろうか、三木さんの個展に際して、

ルーブル美術館の「サモトラケのニケ」を巡る話を、同

じ画廊通信に書いた事があった。この時のテーマも、や

はり「欠損による暗示」である。紀元前200年頃の作

とされる「サモトラケのニケ」は、ご存じのように両腕

が無く、広げた翼も片翼が欠けて、更には頭部が丸々欠

落していると云う、誠に惨憺たる状態の石像なのだが、

これがどうした訳か、現代彫刻と見紛うような斬新性を

放って見る者を魅了する。言うまでもなくこの所以は大

胆な欠損にあり、この欠損こそが見る者に強い暗示を齎

すのである。これは先述したフーガの例と同様であり、

こうして時代も分野もかけ離れた表現が、同じ方法論を

基底に持つと云う事実は、この「欠損は暗示を齎す」と

云う現象が、表現における一つの原理と言っても過言で

はない事を、明確に物語るものだ。むろん欠けていれば

何でも良い、と云う訳ではない、明示に勝る暗示を喚起

させてこそ、欠損は卓越の手法として生きるのである。

 思うに三木さんの表現もまた、上記の事例と共通した

原理の下にある。バッハが旋律を書かなかったように、

時の風化がサモトラケのニケを大胆に破損したように、

三木さんも敢えて造らず、或いは造っても削り落とす。

両腕の欠除は元より、人体における諸処の欠損などはま

だ良い方で、時にはそれが顔面や頭部にも及んで、せっ

かくの美しい顔が無惨にも削ぎ落とされていたり、頭の

半分が青銅の中に埋まっていたり、場合によっては一見

不可解な塊にしか見えないような事もあって、暫し戸惑

ってしまうような作品も有るのだが、急がず根気よく付

き合っていると、不意に思いも寄らぬ姿容が浮かび上が

って来たりする、その瞬間がいつか快感となったら占め

たもので、その人は既に作家の術中に嵌められているの

である。造られた部分=明示の限りない延長としての暗

示、それは人間の特性である無限の想像力を揺さぶり、

遂には造られなかったフォルムをも生起させるだろう。

 

「欠損」と共に、三木さんの彫刻表現において、大きな

要を成すと思われるもう一つの特質は「変容」である。

それが妥当な命名であるかどうかはさて措き、例えばあ

る高密度の塊をここに思い浮べてみたい。それは何かの

岩石塊でもいいし、或いは何かの金属塊でもいい、突飛

ながらそれが「生きて」いると仮定して、その動きを何

らかの方法で記録したとしよう。初めは微動だにしなか

った表面が、次第に軟体の如く柔らかに隆起して、何か

茫漠としたフォルムを徐々に形成し、やがて麗しい女性

像へと結実する。そのしなやかな肢体が暫時静態をとっ

た後、それは明確な輪郭を次第に失い始め、気が付くと

また漠とした形象へと溶解し、やがて元の量塊の中へと

消滅して往く。その不可思議な変容の或る時点、つまり

は塊から何かの形象が現出する途中、或いはその形象が

再び塊へと消失し往く途中、その生成と消滅の狭間をイ

メージした時、そこにこそ三木俊博という彫刻家の領域

が在ると言えば、その極めて独創的な表現に、少しは近

付き得た事になるだろうか。大胆な欠損に加えて、その

ような更なる変容を施された形象、それは何から何まで

が過剰にお膳立てされ、全てが懇切丁寧に説明され尽く

した視覚表現に、いつしかどっぷりと侵蝕されてしまっ

た現代人にとっては、少々の視覚的な努力が要求される

ものかも知れない。但し、努力とは言っても為すべきは

たった一つの行為、即ち「目を凝らす事」、それだけで

ある。思えばそれは、かつては生活の中でごく普通に為

されていた行為だが、翻って今、何かを前に真剣に目を

凝らすと云う経験が有るだろうか。プロジェクション・

マッピング等のCG映像に顕著なように、目前で絢爛と

展開される豪奢なイリュージョンは、見る者の想像力を

全く必要としない。想像力で思い描く領域までをも映像

化してしまうのだから、それは至極当然の事だ。言うな

れば、そこに有るものは100%の明示であり、暗示の

潜む領域は皆無である。それを頭から否定するつもりは

ない、ただこの状況に思うのは、そのような映像を創る

方も見る方も、人間の想像力が如何なるCG映像にも勝

ると云う原理を、忘れているのではないかと云う事だ。

 欠損の齎す暗示、そして変容の生み出す暗示、その普

遍の強度を、今一度私達は思い出す必要があるだろう。

三木さんの彫刻に真摯に目を凝らした時、必ずそこから

は何かが浮び上がる。その多様な表情を見せる形象は、

単一の具象的な完成形を拒否しつつ、見る者に自由な想

像を喚起して已まない。上述の如く、変容する生成と消

滅の狭間に、三木さんの人物像は生きている。故に彼ら

は変容によるデフォルマシオンの過程で、諸処を削り取

られて亡失し、或いは再び量塊の中へと呑み込まれ、静

止した完成形と云う様態には決して到る事なく、その周

縁をあたかも螺旋を描くように、未知なる一点に向けて

収斂してゆく。やがてそれが集束へと到る帰着点は、正

しく私達の想像力が呼び覚ました、豊かなイメージの領

域にこそあるのだ。きっと彼らと私達の奥底には、必ず

や何処かで繋がるだろう流れが在る、顧みれば私達もま

た、生と死の狭間を生きる存在に他ならないのだから。

 

                    (22.06.10)