画廊通信 Vol.229 コラージュ ── 異界への扉
今回の案内状に載せた文中で、その極めてユニークな作風を形容して「幻視のオブスクーラ」と記したが、これは字数の関係による無理な略語で、正確には「幻視のカメラ・オブスクーラ」と記すべきものである。邦語では「暗箱」と訳されるカメラ・オブスクーラは、例のフェルメールが制作に用いたとされる事から、近年にわか
に人口に膾炙した感があるが、これに関連した作家自身
の印象的な記述が有るので、ここにその一節を抜粋して
みたい。以下は北川健次著「デルフトの暗い部屋」から。
あれはまだ私が小学校に入る前であったから、おそら
く四、五歳の頃だったと思うが、今でも忘れられない
光景がある。それは雨戸の小さな節穴から午前の一条
の光が暗い室内にさしこみ、壁の一点に魔法のように
逆さまに映っていた庭の一隅の光景である。その小さ
な楕円の形をした光の面には、濃緑色をした棕梠の葉
と薄黄色の小花、そして大小の淡い光の珠がぼんやり
と映っていた。それを見た時、はじめは誰かが仕掛け
た何やら遠い彼方の不可思議な映像を、透かし視てい
るような気分であった。それが庭の光景であることに
気付いたのはしばらく経ってからのことである。しか
しそれとわかっても、最初に覚えた不思議な感覚は消
え去ることなく、むしろそれが既知のものであるがゆ
えに、虚と実のあわいを見るかのような捕えがたい謎
めいた印象となって、記憶の底に残っていった。その
時の体験が、今日のカメラの原型となったカメラ・オ
ブスクーラの原理であり、あのフェルメールが絵を描
く際に多用したといわれる装置の仕組みそのものであ
ることを知ったのは、さらに時が経ってからである。
北川健次──この異能の美術家を知ったのはいつの事
であったろう、今となっては最早定かではないのだが、
一つ確かな事は知り得た当初から、既に北川さんは銅版
画の急先鋒として、革新的な作品を次々と発表されてい
た事だ。フォトグラビュールを駆使したその斬新な腐蝕
銅版は、比類なき独創性と高い完成度が相俟って、当時
の版画界でも傑出したオリジナリティーを誇っていた。
その卓越した銅版表現を起点として、コラージュへ、オ
ブジェへ、写真制作へ、果ては詩作や美術評論へと、稀
有の表現者は自らの領域を自在に広げつつ、八面六臂と
も言える活動を展開されて現在に到る訳だが、そのボー
ダーを超えた幅広い表現の根底には、共通して或る特有
の「匂い」が、まるで持続低音のように流れている。謎
めいた不可解な幻妖とでも言おうか、見慣れた日常の裏
に潜むあの不条理の闇が、洗練された浪漫のあでやかな
彩りの陰で、そこはかとない怪異を醸成する、それは言
うなれば、不可思議な幻惑に満ちた「異界」の匂いなの
だ。作家の体臭とも言えるそんな背理の匂いが、何処か
ら来ているのかを推し量る時、考えるまでもなく上述の
鮮烈な原体験が、ありありとその起端を語るだろう。或
る朝に雨戸の節穴から、ゆくりなくも入り込んでいた小
宇宙、それが薄闇に怪しく浮かぶ様を目撃した少年は、
我知らず異界への扉を開いてしまったのだ。おそらくは
それから現在に到るまで、日常とは別次元としての異界
は作家と共に在り、常に創作の源泉となって来たに違い
ない。それ故か、上に「怪異」と云う言葉を使いはした
けれど、それは決して邪悪な昏冥でもなければ、陰湿な
妄念でもない、むしろ未知へのときめきに満ちた、めく
るめくような魅惑を孕むものだ。あの日少年の目覚めた
「暗い部屋」は、そのまま「カメラ・オブスクーラ」の
語源でもあるように、暗箱と云う魅惑の装置そのもので
あった。そして今、作家の手から作り出されたオブジェ
もまた、黒く塗られた箱の中の闇に、別次元の異界を映
し出す。この鮮明に浮かび上がる沈黙の映像を見る時、
私達はいつしか日常の裏側に広がる、見も知らぬ魔術の
領域へと踏み入るだろう。言わば北川さんの仕掛けるオ
ブジェとは、異界への扉を開く暗箱装置に他ならない。
北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』絶賛発
売中──この文言を作家のサイト上に見つけたのが、北
川さんと面識を得る端緒となった、ちょうど一年ほど前
の事である。以前からブログ等を拝読して、美術家にあ
らざるような文才に、常々感銘を受けていた折りでもあ
り、遂に詩集が出たかと雀躍して、早速注文を入れたと
云う訳だ。程なく届いたサイン入りの詩集(丁寧なお手
紙も添えられていた)は、正に期待通り、昨今の詰まら
ない詩人など軽く凌駕する内容であったから、過分にも
私はこんな感想をしたためて、作家宅へとお送りした。
「今回詩集を拝見して、言語表現においても、美術表現
と全く変わらない世界を展開されている事に、改めて目
を瞠る思いでした。以前からブログのエッセイは時折読
ませて頂いておりましたが、特有の謎めいた雰囲気と、
確固とした論理の相俟った文章には、いつも魅せられて
おります。絢爛たる語彙の響きと、不可解なアフォリズ
ムの綾なす世界、そこから鮮やかに喚起される『謎』そ
のものの魅力に、北川さんの視覚表現と共通する美学を
感じております。なお、遅ればせながら作品集も拝見致
しました。解体された無数のエレメントを知的に(もち
ろんその根底には鋭い詩的直観が有ると思いますが)再
構成し、そこにタイトル=詩的言語をぶつける事によっ
て生起する、濃厚な意味を帯びつつも決して解き得ない
謎、ここにはコラージュの本質を成すデペイズマンの、
磨き抜かれた究極の具現が在ると思いました。それが通
常のコンセプチュアル・アートの陥りがちな、脆弱な知
的遊戯に終わる事なく、常に豊潤な浪漫の香りを帯びて
いる事に、美術表現としての尽きない魅力を感じます」
と云う具合で、顧みれば未だ作品の一つも持たざる身で、
誠に僭越な物言いであったが、それから3週間ほどを経
た或る午後、一本の電話が入った。「北川健次です」と
云う不意の一言を耳にした驚きは、きっとお分かり頂け
る事と思うが、今度ぜひ話をしたい、と云う更なる一言
は、私にとっては最早、事件とも言えた。但し、その時
は折しも銀座の永井画廊における個展の最中で、直後に
はお茶の水のギャラリーにおける個展、更には日本橋高
島屋・美術画廊Xの個展も控えられて、作家自身多忙を
極めておられたので、実際にお会い出来たのは秋口に入
った頃である。雨の中を軽装で現れた先鋭の美術家は、
あの謎めいた作風からは意外とも思えるような、至って
快活で飾らないお人柄であった。たぶん私と会って、買
い被りを後悔された事と思うのだが、何せ私にとっては
千載一遇のチャンス、是非ともお願いしたいと展示会を
申し込んで、目出たく今回に到ると云うのが概ねの経緯
である。以降も幾度かお会いする機会があり、当店まで
お越し頂いた事もあって、その度にお話をさせて頂きつ
つ驚嘆した事は、その広範に及ぶ比類なき博覧強記と、
そこから導出される鋭利な推論の面白さである。言うま
でもなくそれは「絵画の迷宮」や「美の侵犯」と云った
著作に結晶されているのだが、その謦咳に直に触れ得た
経験は、正に至福の感興に満ちたものであった。そして
そんな豊饒の土壌が有ってこそ、あの絢爛たるイメージ
の交錯を生み出す、コラージュの鮮やかな策略が可能に
なるのだと、密かに首肯したのであった。
初期の銅版画から近年のオブジェに到るまで、多岐に
亘る表現を展開しつつも、一貫して作家が自らの手法と
して来たのが、即ち「コラージュ」である。換言すれば
北川さんの創作とは、コラージュの多彩なヴァリエーシ
ョンであると言っても過言ではない。現在は、画面に何
かを貼り付ければ何でもコラージュと称しているが、こ
れはむしろパピエ・コレに近いもので、本来のコラージ
ュとは似て非なるものだ。その歴史を遡れば、90数年
前に刊行された一冊の奇書に辿り着くのだが、これが当
時としては実に奇妙な絵本で、古い挿絵本や博物図鑑か
ら切り取った図版を、何の脈絡も無しに貼り合わせて作
られたものであった。タイトルは「百頭女」、作者は気
鋭のシュルレアリストとして名を馳せていたマックス・
エルンストである。この面妖な書物に付けられた「コラ
ージュ・ロマン」と云う副題から、その魅惑に満ちた歴
史が始まった訳だが、同様に前掲の手紙に記した「デペ
イズマン」と云う言葉も、アンドレ・ブルトン(『シュ
ルレアリスム宣言』の著者)が同書に寄せた緒言で用い
たことから、美術用語として定着したものだ。この発端
から見ても、コラージュとデペイズマンは切り離せない
概念である事が分かるのだが、試みにデペイズマンを定
義すれば、このようになるだろうか──無関係な要素を
自由に組み合わせる事によって、思いも寄らない意外性
を生み出し、受け手に混乱・困惑を齎す方法。即ちコラ
ージュとは、デペイズマンの実践に他ならない。以降コ
ラージュは「アッサンブラージュ」や「フォトモンター
ジュ」、更には「ボックスアート」へと派生してゆく事
になるのだが、北川さんは長年に亘る創作過程の中で、
それら全てを自家薬籠中の物とされているので、ここで
は「コラージュ」と云う言葉のみで統一したい。思えば
この「本来の」コラージュを、北川健次と云う作家ほど
純粋に追求し、徹底してその可能性を拓き続けた人は居
ないだろう。今一度繰り返せば、先の手紙に「ここには
コラージュの本質を成すデペイズマンの、磨き抜かれた
究極の具現が在る」と記したのだけれど、これは決して
大仰な物言いではなく、むしろ「磨き抜かれた」の前に
「生涯を懸けて」と入れるべきだったと、今はそう考え
ている。かつて偶然に作られた暗箱の闇で異界に遭遇し
た少年は、後年「コラージュ」と云う幻惑の魔術を駆使
して、日常に慣れ親しんだイメージを大胆に錯乱し、あ
たかも金属を自在に変成させるあの錬金術のように、世
界の要素をことごとく組み換えて、新たな奇想に満ちた
異界を現出させる、類例なきカメラ・オブスクーラの製
作者となった、この正に「生涯を懸けた」一人の美術家
の足跡こそが、そのままコラージュの行き着いた究極の
地を提示するのである。以下は北川さんのブログから。
それにしてもコラ―ジュという技法は、尽きない不思
議に充ちた技法であると、あらためて実感している。
ピカソやエルンスト達が多用したこのコラ―ジュは、
20世紀美術が生んだ、エスプリと謎を孕んだミステ
リアスな技法である。異なったイメ―ジの断片を、同
一空間に配置転換する事で立ち上がる、イメ―ジの化
学反応。それは夜に視る夢のように、何処か懐かしい
ノスタルジアをも秘めている。(中略)……コラージ
ュこそが私の紛れもない原点であり、これこそが表現
における最深の秘法、イメ―ジの錬金術なのである。
まだまだ語りたい事はある。北川さんの詩や評論につ
いて、ボックスアートについて、錬金術について等々。
しかし、もう紙面も尽きるようである。それに、意味の
撹乱を第一義とするコラージュを前に、これ以上の長広
舌も不用であろう。後は暗箱の中に仕掛けられた、絢爛
たる魅惑の魔術に、存分に身を委ねて頂くのみである。
(22.05.08)