画廊通信 Vol.223 一枚の葉の語るもの
昨年は、ヘミングウェイの作品に関する話でこの稿を始めたので、今年は全く違う分野から攻めようと思っていたのだが、案の定何一つその端緒が思い浮かばず、万事休したもので、昨年同様文学の話題から入らせて頂こうと思う。今回は、同じアメリカの小説家ではあるけれど、全く毛色を違にする作家として、O・ヘンリーの短編から話を始めたい。私ぐらいの世代の方なら、多くの方々が読まれた作品かと思われるが、同作家の代表作に「最後の一葉」という作品がある。これを読んだ学生の時分は、まさか自分がこの話と無縁ではない仕事に就くとは、更々思ってもみなかったが、今にして振り返って
みれば、これは絵画の話なのである。登場人物は4人、
画家を夢見る若い女性が二人と、夢破れて年老いた画家
崩れが一人、それに医師というラインアップだ。舞台は
ニューヨークのダウンタウンに位置する、グリニッジ・
ヴィレッジと呼ばれる区域、この地にいつしか画家が集
まって来て、芸術家村が出現した頃、つまりは前世紀初
頭の話である。ある年の秋この良き街が、非情にも肺炎
の魔手に冒された所から、この愛すべき物語は始まる。
スウとジョンジーは、古い煉瓦造りの3階にアトリエ
を持っていた。二人共に、画家を志す若き女性である。
ある晩秋の時節、ジョンジーを肺炎の病魔が襲い、彼女
は粗末なベッドに横たわったまま、動けなくなってしま
う。医者が言うには、助かる見込みは十に一つとの事、
ジョンジーは窓の外に見える隣の建物の壁ばかりを、ベ
ッドで放心したように眺めているだけだった。その古い
煉瓦壁には、朽ちかけた蔦のつるが這っていたが、冷た
い秋風がその僅かな残り葉を、次々とはたき落としてゆ
く。ジョンジーは葉の数を数えていた──九つ、八つ、
七つ、だんだん落ちるのが早くなるの。ああ、また一つ
落ちた。あと五つしかないわ。最後の一葉が落ちたら、
私も逝ってしまうんだわ……、スウがどう励ましても、
ジョンジーの思い込みは変わらなかった。困ったスウは
その話を、階下のベアマン老人に伝える。彼は芸術村の
落伍者で、いつか傑作を描くのだと言いながら、何も描
かずに飲んだくれるばかり、ただ階上の若い画家には、
自ら守護の番人を任じている。なんじゃと、あんなくそ
面白くもない葉っぱが落ちたら自分も死ぬなんて、そん
なたわけた話があるかい。何て可哀想な娘なんだ!──
話を聞いた老人は、血走った目に涙を浮かべて嘆いた。
翌朝窓を開けると、煉瓦の壁にはまだ蔦の葉が一枚、
しっかりと残っていた。叩きつけるような風雨が一晩中
吹き荒んだのに、最後の一葉は健気にも、つるにしがみ
ついて離れない。でもジョンジーは言う、今日こそは落
ちるわ、そうしたら私も死ぬんだわ……。その日も夜に
なると、再び強い北風が吹いて、暴雨が夜通し窓を叩き
続けた。夜が開けて窓を開けると、何とあの蔦の葉は、
まだそこに残っているではないか。じっとそれを見つめ
ていたジョンジーは、スウに呼びかける──私、悪い子
だったわね。何かがあの最後の一葉を、あそこに残して
おいてくれたんだわ。死にたいと思うなんて、罰当たり
な話ね。さあ、スープを少しちょうだい! 午後になっ
て彼女を診た医者は、スウの手を取って言う、五分五分
というところだな。ところでわしは、階下のもう一人の
患者を診なきゃならん。ベアマンという男で、絵描きだ
ろうと思うがね。年をとって体も弱っているし、急激に
やられとるんで、こちらはまず恢復の見込みはないな。
翌日、医者の言うには──ジョンジーは危機を脱した
よ、もう大丈夫だ。その日スウはジョンジーを抱きしめ
ながら、こんな話をした。ねえ聞いて。ベアマンさんが
今日、肺炎で亡くなったのよ。たった二日患っただけな
の。一昨日の朝管理人さんが訪ねたら、一人で苦しがっ
ていたんですって。靴も服もぐしょ濡れで、氷みたいに
冷え切っていたそうよ。あんなひどい晩に何処へ行って
たのか、誰も見当が付かなかった。その内にカンテラと
ハシゴと絵筆が数本、それに黄色と緑の絵具を溶いたパ
レットが見つかったの。ねえ、ちょっと窓の外を見てご
らんなさい、壁に残っている、あの最後の蔦の葉を。ほ
ら、風が吹いてもちっとも動かないでしょう? そうな
のジョンジー、あれがベアマンさんの傑作だったのよ。
という訳でこの著名な一作は、自己犠牲による無償の
愛を描いた物語である。読者は画家崩れの老人の、若い
命を救わんとする行為に、精神の高貴な有り様を見るだ
ろう。そして、ある種爽やかな読後感をしばし味わった
のち、このお話との付き合いも終局となるのだろうけれ
ど、しかしながら私たち絵を愛する者は、この話を単な
る人情譚で終わらせるには忍びず、もう少しその先まで
分け入ってみたくなる。そもそも、ベアマン老は人生の
最後に、どんな絵を描いたのだろう。O・ヘンリーは、
このように描写している──それは、つるにしがみつい
ている最後の一葉だった。葉柄の近くはまだ濃い緑色だ
が、鋸の歯のような縁は黄色く朽ちて、健気にも地面か
ら20フィートほどの枝にぶら下がっていた──20フ
ィートと言えば、6メートルを超える高さである。ベア
マン老は最後の一葉が落ちた嵐の夜更け、古い煉瓦壁に
ハシゴを架けて6メートルの高さまでよじ登り、壁をカ
ンテラで照らしつつ、間断なく吹き付ける激しい風雨を
避けながら、パレットと絵筆を巧みに操って、一世一代
の枯葉を描き上げたのだ。それが、現実に可能かどうか
はさて措き、それは一人の病める女性を蘇生に導くほど
の、正に迫真の気概を湛える表現であった筈だ。見る側
の立場に立ってみると、ベッドに力なく横たわるジョン
ジーにとっては、窓の外の風景そのものが、窓枠を額縁
とした一枚の絵画であったろう。つまり、それは晩秋の
北風が吹き荒ぶ中、煉瓦の壁を這う古い蔦のつるに、残
った僅かな葉がしがみ付いているという、どうにも寒々
とした感傷を呼び起こす絵である。しかもこの絵は刻々
と葉の数を減らし、仕舞いにはか弱い一葉が残るのみと
なり、正に命は風前の灯という状況だ。この厭世的な悲
愴感に満ちた絵を、ベアマン老はたった一枚の葉を描き
変える事によって、あらゆる困難を克服しゆく希望の絵
画へと、その本質を転換させた訳である。この絵を描き
上げて翌朝、ベアマン老がずぶ濡れで苦しんでいるその
時に、ジョンジーはベッドからその傑作を目にするのだ
が、心まで病いに冒された彼女の目には、残念ながら何
も映らない。と言うよりは、その目は何も見てはいなか
ったのだろう。更に風雨の吹き荒れた一夜を挟み、翌々
朝になって初めて、彼女の目は老画家の描いた一葉を捉
える。そして昨日まで見ていた窓枠の中の、絶望の淵に
沈むばかりだった絵画が、今やみずみずしい希望の光を
放って、自らを照らしてくれている事を知るのである。
さて、今一度自問してみよう、ベアマン老が人生の最
後に成し遂げた表現の意義は、果たして何であったのか
と。表面上の事実だけを顧みれば、彼は葉っぱを一枚描
いただけだ。しかし私たち絵を愛する者は、もう少し穿
った見方をする。即ち、彼は一枚の葉を加筆するという
それだけの行為によって、窓枠の中の絵画全体を180
度転換させ、全く別種の存在に塗り換えたのだと。おそ
らく、彼の描いた一葉の真髄はそこに有った。言うなれ
ばベアマン老の成した眼目は、最後の一葉を描き足した
事よりも、それを描く事によって、絵画そのものを変換
させた事に有ったのだと言える。どうしてそれが可能だ
ったのか──彼の描いた一枚の葉が、それだけの「力」
を孕んでいたからだ。それは、ただの取るに足らない枯
葉であるにも拘らず、激しく吹き荒れる風雨に耐えて、
満身創痍になりながらも、不屈の気概と不撓の尊厳を秘
めた、強靭な精神を感じさせるものでなければならなか
った、だからこそ絵画全体の時空間を、対極の本質へと
変換させる事が可能となったのである。思うに、それは
見事な一葉であったろう。実はこの時、ベアマン老の放
った矢は、見る者の「想像力」を直撃したのである。よ
ってその絵画を、仮に夜半の嵐を知らない第三者が見た
としても、やはり何かしらの困難と凛々しく対峙する、
不屈の魂を感じさせるものであった筈だ。斯様に、受け
取る側の「想像力」を用いる事、これこそ絵画表現にお
ける、最も高度な手法と言っても過言ではないだろう。
今回も前置きが長すぎて、本題に辿り着くのが遅くな
ってしまった。昨年は全点「雨の情景」という、舟山さ
んの意欲的な挑戦であったが、今年は送られて来た新作
群に、画家のこんな言葉が添えられていた──またサー
カスの絵が、無性に描きたくなりました。人生も終盤と
なり、初心に戻れという事かなと、考えたりしました。
そんな訳で、今回は「サーカス」である。全18点、
梱包を解いて作品を取り出していると、それだけで舟山
さん特有の物語が立ち上がる──クリスマス・キャロル
の流れる頃、異国の寒村に、サーカスの一座がやって来
た。村外れに天幕が張られ、一夜にしてそこは夢の王国
となる。綱渡りの少年、若い踊り娘、道化師、手品師、
そして動物達、彼ら魅惑の俳優達が交錯して、天幕の中
に一つの「世界」が現出する。そこに画家は、人生の縮
図を見た。喜怒哀楽から愛憎に到るまで、世の有りと有
る哀歓が描き出されてゆくが、大方は時を止められた小
さな画面の中で、それは様々な表情を見せる人物像とし
て表される。しかも彼らは、何らかの振る舞いをするの
でもなければ、明確な感情を露わに見せるのでもない、
極力に抑制された物静かな姿容で、額縁という窓の奥に
ひたすらに佇んでいる。言わば舟山さんの表現は、この
言い難い表情の描写に極まるだろう。ある種不可思議な
印象をもたらすその表情に魅入る内に、いつしか見る者
は多種多彩なイメージを、我知らず脳裏に醸成する事に
なる。サーカスの華麗な舞台、それとは対照的な侘しい
舞台裏、若い男女の愛憎劇、未だ見ぬ世界への遥かな憧
憬、置いて来てしまった哀しき追憶、もはや取り戻せな
い遠い日の慕情、それら多様なイメージに心を遊ばせる
内に、見る者はいつか「サーカス」という限定を離れ、
そこが「世界」そのものであった事を知るのである。お
そらく、舟山さんの描く肖像の真髄もそこに有る。言う
なれば舟山芸術の眼目は、様々な人物像を描く事に留ま
らず、寧ろそれらを描く事によって、様々な人生が綾な
す世界そのものを、喚起させる事に有るのではないだろ
うか。ここで再度、前頁と同じ問いを発してみよう、即
ち、どうしてそれが可能なのかと。そして私は、やはり
前頁と同じように答える、小さな窓枠の中に描き込まれ
た人物像が、それだけの「力」を孕んでいたからだと。
現在、美形の女性像が巷に溢れている。概してそれら
は過剰に演出された表現で、画面の全てが説明し尽くさ
れ、見る者の想像力は働く余地がない。総じて良き芸術
は、私達の想像力に働きかける。感性を土壌とするその
優れた力は、直接には描かれてないものを見て、聞こえ
ない声を聞く事さえ可能にする。最早その例を挙げる紙
面は無いが、しかし、その必要も無いのだろう、ここに
その最良の事例が在るのだから。是非ご覧頂ければと思
う、舟山さんの描き出すたった一人の肖像が、未だ見ぬ
世界を有り有りと喚起する様を。それはかつてあの老画
家が描き残した、最後の一葉の力を語ってくれる筈だ。
(21.11.27)