2人の少女と猫 (1969)    エッチング
2人の少女と猫 (1969)    エッチング

画廊通信 Vol.162          よみがえる物語

 

 

 南桂子の作品には、数多くの少女が登場する。「数多くの」とは言っても、そのほとんどは同じような顔をしているので、「ある少女が数多く登場する」と言い換えるべきかも知れない。時には二人の少女が並んでいたりするが、そんな場合でも両者は同じような顔をしているから、もはや一人とか二人というような「数」は、問題にはならないようだ、詰まるところ彼女達は皆、作家の分身なのだろうから。丸い顔に丸い髪の毛、眉と鼻がT字を作り、その下には大きな瞳と小さな口、大方その顔は三角形に単純化された服の上で、わずかに首をかしげ

ている。見ているとその表情は、どことなく憂いを帯び

て物哀しくも感じられるけれど、具体的な喜怒哀楽は除

かれているので、一見は無表情に近い。おそらくはその

方が、見る人それぞれが自らの感情を、自由に移入出来

るが故だろう。大概は彼女達と共に、画面には小さな動

物が描かれていて、その多くは鳥である。鳥はくちばし

を持ち、それは形状的にどこかを指し示すから、その存

在は必然的に「方向性」を孕む。すると少女のこんな問

いかけが、いつしか画面の中から聞こえては来ないだろ

うか──「どこから来たの?」「どこへ行くの?」。こ

うして作品に見入る人は、どことも知れぬ異郷で密やか

に交わされる、鳥と少女の物語へと分け入るのである。

 

 南桂子──1911年、富山県生れ。元々加賀藩下の

大名主の家系で、数々の名士を輩出した一族であったと

言う。高等女学校時代に油彩の制作や詩作に手を染め、

卒業後も文学や美術のサロンに参加したと記録にあり、

一方でその間に結婚や出産等、世間並みの経歴もあった

らしい。年譜を見ると17歳の次は一気に34歳に飛ん

でいて、その間の経歴は綺麗に抜け落ちている事から、

たぶん家庭の雑事等で創作活動が制限され、その間は記

載に値する履歴が無いのかも知れない。あるいは、単に

研究が進まず不明なだけという事も考えられるが、いず

れにせよ記録が抜け落ちているという事は、その間の対

外的な活動は無かったと考えるべきだろう。この時期、

家庭人としての充実は有ったのかもしれないが、創作家

としては極めて不遇であったに違いない。きっと彼女の

心中には、久しく立ち止まったままどこへも行けない自

分に対して、常に「どこへ行くの?」と問い続ける、も

う一人の自分が居た事だろう。それはまた「どこかへ行

きたい」という已み難い飛翔への憧憬を、哀しく呼び起

こすものでもあったろう。後日、幾度となく描かれる事

になるあの少女は、この時期いつしか彼女の中に住み着

いた、もう一人の自分の投影であったのかも知れない。

 1945年34歳、終戦を境に離婚して上京、何が転

機となったのかは知らないが、それまでの家庭を捨てて

家を出るという、ある意味激しい行動に彼女は打って出

る。童話を壺井栄に師事、一方では油彩を森芳雄に師事

し、数々の絵画展に出品を重ねる中で、後に一生の伴侶

となる浜口陽三と出会い、その影響で銅版画にも開眼し

ている。しばらくを日本で活動した後、43歳で渡航し

てパリに浜口と居を構え、フリードランデル工房で版画

技法を学びつつ、銅版画の制作を中心とした本格的な作

家活動に入った。以降年譜をたどって行くと、46歳で

初めての二人展「浜口陽三・南桂子展」が東京画廊にて

開催され、48歳でニューヨークのバリマン・ギャラリ

ーにて初個展、国内では翌年の日動画廊における個展が

初開催となっている。浜口陽三が本格的な活動に入った

のは40代半ば頃、後の国際的な版画家としての活躍を

思えば、かなりの遅咲きと言えるが、南桂子の開花はそ

れに輪をかけて遅い。両者共々に遅々とした、と言うよ

りは悠揚としたこの歩みを思う時、年齢的な焦燥が全く

無かったとは言えないにせよ、表舞台の華やかな成果を

急ぐよりは、たとえ人知れぬ雌伏が続く事になろうと、

時間をかけて自身とじっくり向き合う事こそが、芸術家

としての雄飛の原動力となる事を、それは無言の内に語

っているように思える。所詮自分との徹底した孤独な対

話からしか、真の芸術は生まれ得ないのだろうから。

 以降、約28年にわたってパリを拠点に活動した後、

1982年71歳の時にアメリカへ渡り、前年既に移住

していた浜口と共に、サンフランシスコにアトリエを構

える。委細は不明だが、80歳の時に「浜口との婚姻届

を提出」と年譜にはあって、その4年後に長い海外生活

を終えて夫妻で帰国、89歳で夫の逝去を看取った後、

自らも2004年93歳でその生を閉じている。

 

 浜口陽三も一貫してそうだったが、南桂子も作品のタ

イトルから一切の主観を排除する。浜口で言うなら、4

つのさくらんぼが描いてあれば「4つのさくらんぼ」だ

し、同様に南桂子の場合も、木と少女と鳥が描いてあれ

ば「木と少女と鳥」という具合で、もし「この絵の言い

たい事は何でしょう」なんて問題が学校で出た日には、

子供も困ってしまうのではないか。しかし考えてみれば

これが最も純粋な絵の在り方だろう。絵に全てを表し託

したのだからそれで終り、それをどのように解釈するか

は徹底して受け手に委ねる、よって送り手の側は、何ら

かの意味を呼び起す言葉を一切発しない、実に真っ当な

姿勢ではないか。ただ、そのような絵の在り方は、作品

そのものが言葉の力を借りずとも、豊富なイメージを喚

起するものでなければ成立しない。「木と少女と鳥」と

言った時、そこから木と少女と鳥しか見えて来なかった

ら絵は成り立たない、木と少女と鳥をめぐる「物語」が

喚起されてこそ、初めて絵は受け手の心中に届くのであ

る。南桂子の特質の一つに、正にこの物語性が挙げられ

ると思う。経歴にもあったように、南桂子はその芸術活

動を、壺井栄に師事する事から始めている。とすれば、

自身でも度々童話を創り、時には作詞も手がける中で、

いつしか自分だけの物語が心奥で醸成され、やがてはそ

れが言葉のない絵を媒介として、豊かに溢れ出したので

はないか。だから彼女の作品を見る人は、絵を媒介に流

れ込んで来た物語を、今一度自らの言葉に還元して組み

立て直す。そのようにして彼女の物語は、絵を見る人の

中でそれぞれの物語としてよみがえり、密やかに何かを

語り出すのである。せっかくだから彼女の童話を一遍、

ここに載せておきたいと思う。「たつをのサジ」と題さ

れた、41歳の時の小篇である。これを読むと、かえっ

てこれを読まずとも、同じ物語は作品の至る所に生きて

いる事を、読者はありありと知る事になるだろう。

 

 たつをは一本の銀のサジを持っていました。柄の所に

珍しい魚がほってあって、目玉にはキラキラと光る赤い

石がはめてあります。夏休みに田舎へ行った時に、おば

あ様の小だんすの引出しの中で見つけて、どうしても欲

しくてもらって来たものでした。「これはね、船乗りの

久さんにもらったのだよ、外国の港の古道具屋で買って

来たのだそうだよ」とおばあ様はおっしゃったけれど、

じっと見ていると魚は目をパチパチさせて、何かを話し

出しそうに見えるのでした。たつをはそのサジを見てい

て、一つのお話を作り上げました。作り上げたのではな

くて、それは魚が宝石の目をパチパチさせながらお話し

てくれたのかも知れません。それはこんなお話でした。

 

 わたくし達(そうです。わたくしは一ついに作られた

サジの片方なのです)は地球の北の果ての国で、昔々城

の双子のお姫様のために、優しいお母様が作られたもの

でした。もう片方のサジにほられた魚は、海のように青

い石の目をしていたのです。仲のよい二人のお姫様はわ

たくし達を使って、いつも楽しく食事をなさいました。

 お姫様がちょうど十五歳になられた時のことです。と

なりの大国がふいに攻めて来て、今までの平和なお城の

暮らしは壊されてしまいました。倍も大きいとなり国に

はとても勝つ見込みがないので、お年寄りの王様はみん

なの平和のために、白旗を上げて降参されたのです。そ

れで二人のお姫様のうち一人を、人質に渡さなければな

らなくなった時、妹姫様が、わたくしがゆきましょう、

と自分から言われたのです。王様もお妃様も姉姫様も、

大変な悲しみでした。そして出発の日が来ました。お城

の北側の海は大荒れで、高いがけを乗りこえるくらいの

大波の日でした。悲しみに沈んでいるお城では、泣きく

ずれるお母様やお姉様と最後のお別れをされて、妹姫様

は白い馬に乗ってとなり国へと旅立たれたのです。わた

くしも青い目のサジに別れをつげ、妹姫様の荷物と一緒

に悲しい旅をしました。となり国に着いて後も、妹姫様

はもちろんわたくしで食事をされました。そして楽しか

った昔のことを思い出されるのか、わたくしをじっと優

しい目で見つめられるのでした。夏がすぎ冬をむかえ、

淋しい月日が二年たっての冬、ものすごい吹雪の日にか

ぜで寝つかれたきり、妹姫様はたった一人、敵国で亡く

なられました。それは遠い遠い昔のことです。わたくし

はどうかして片方のサジ、青い目の兄弟に会って話をし

たいものと、世界中を長い間こうして探しているわけで

す。王様やお妃様や姉姫様のことが分からぬと同じに、

青い目のサジのことも、いまだにわたくしには分かりま

せん。でも、いつかは会えるものと思っているのです。

 

 南桂子の本質は、むろんその少女性に有るだろう。た

だ「少女性」と言った時、近年その意味する所は随分と

変質してしまった。現在のメディアやサブカルチャーに

頻出する少女のイメージは、少女と言うよりは幼女に近

い。自分自身が年を取ったからそう感じるのかも知れな

いが、精神的には幼女のままで外面だけが成長してしま

う、一種ネオテニー的な危ういアンバランスが、現代の

少女像を作り上げているように思える。南桂子の少女性

は、そんな現代のイメージとは全く異なるものである。

 今では最早死語に近いが、「純潔」「無垢」の汚れな

きイメージが確かにそこには有って、それ故に醸し出さ

れるそこはかとない哀しみが画面を漂い、ある一時期だ

け我知らず孕むだろう妖精のような神秘が、密やかに作

品の時空からにじみ出す。通常はほんの短い間、そんな

夢のようにはかない聖性を自身に宿した後、少女は一人

のたおやかな女性へと成長を遂げ、それと共に秘められ

ていた少女的なるものは、いつしか春の霞のように消え

失せる。誰もがそんな道のりをたどる中で、南桂子とい

う稀有の作家は、本来の少女性をその内に宿したまま、

ひっそりと誰に知られる事もなく、ある意味強固にそれ

を慈しみ守って来たのだと思う。その源泉があるからこ

そ、生涯を浜口陽三という大家の陰に控えつつも、一生

を懸けて尽きない独創的な少女性を、画業の中に保つ事

が出来たのだろう。伴侶と共に語られる事の多かった生

前は最早過去となり、時が経つほどに彼女は残された作

品と共に、その本領をいよいよ露わにするかに見える。

 両者共に逝きて十数年を数える現在、南桂子は一人の

銅版画家として、いよいよ自由に羽ばたくかのようだ。

いや、「羽ばたく」という形容は、彼女にはふさわしく

ないのだろう。バサバサという羽音が聞こえるイメージ

ではなく、あくまでも密やかに音もなく、翼は柔らかに

開かれる。そして今、かつて「どこへ行くの?」と問い

続けたあの哀しい少女は、作品の中に永遠の少女となっ

て刻まれ、見る者にその不可思議なささやきを、静かに

いつまでも問いかけるのである。

                     (17.01.20)