No.738   アクリル etc. / 42.0x45.5cm
No.738   アクリル etc. / 42.0x45.5cm

画廊通信 Vol.153     わたなべゆう、創作を語る

 

 

 という訳で、今回はゆうさん自らに語って頂こうと思う。以前からゆうさんには、一筆何かを書いて欲しいとお願いしていたのだが、先日お電話があって「そんなに書く事が無くて困っているのなら、俺が前に書いたエッセイを載せたらどうかな」と、親身なご提案を戴いた。随分と前のものだけど、コンセプトは何一つ変ってないからさ…。ありがたい!とにわかに身も心も軽くなった私、早速お言葉に甘える事にした次第である。論客とし

てのゆうさんも、また魅力的である。その斬新な方法論

を、広範な芸術観を、この際は存分にご堪能頂けたらと

思う。以下はゆうさんの随想2篇、全文である。 (山口)

 

───────────────── 画家とイメージ

 

 イメージは記憶だと思う。

 どこから生まれどこに流れていくのか解らない無名の

イメージが作家の内部から発生してくるだけでなく、作

家の生活を取り巻く様々なイメージの断片が作家の活性

材として画面に侵入してくる。だから生活の中で何が見

えているか、何に心を動かされているか、そしてそうい

うものをいくつ積み上げてきたか、たとえば子供とか原

始人の絵、また、トイレの落書き、映画、演劇、舞踏、

音楽などありとあらゆるものにアンテナを広げて置き、

絶えず何かとの出会いによって緊張し、生き生きとした

生活のリズムを生じさせる内面が重要になる。また、人

間の記憶というのは、ある意味なりイメージなりの一連

のつながりを形成している。選択記憶力は、ごたまぜの

記憶よりは比較にならないほど優れており、文学や美術

の場合抜群の力を発揮する。創造性は、ある意味で忘却

と表裏一体の関係にあり、忘却とは無意識的な選択で、

創造に必要な素材を整理しておくという作用を持つ。

 記憶に残っている事がまさに描かなければならない事

だ。消しても消しても出てきてしまうもの。くりかえし

くりかえし表れてくるもの。その表情から眠っている記

憶がよびさまされる様な、造りだすというよりもできご

との様におのずと生まれ落ちたものを大切にする。

 何とも説明できないが確かにそこにあるような形。形

が意味をおびるかおびないかの何にでもなりうる様な原

初的な身振りを探る。S・ベケットが言う様に、「何も

のかについて語っているのではない。その何ものか自体

なのだ」(1) 、と言える様な身振りを形にしたい。

 

 物質的平面である事をより強く意識しいかに美しく汚

すか、いかに美しく壊すかという事を考える。そして、

記憶が発酵して出てくるニオイを有形化する。原初的な

形の背後にある空気、ニオイ、自然なあるいは使用によ

る必然的な古び、汚れ、または時間の蓄積による風化、

これら日本人独特と思われる美意識が画面の中に入りこ

んでくる。これを、共有された精神風土の記憶として提

示する事は可能だろうか。たとえば、現代社会が見失い

かけている精神的な豊かさを画面に取り込む事はできる

だろうか。出口を見失ってしまった迷路からなんとか抜

け出す為には入口にまで戻るしかない。美術の発生の原

点まで戻ってあの豊かさと緊張を手に入れたいと思う。

 

 だが、見る側に私の記憶について何かを発見して欲し

いのではなく、見る人自身の内面の記憶というものに気

がつく為のきっかけとして、作品を受けとめてほしい。

 

 くりかえすが、イメージは、記憶だと思う。

 それは突然現れる。そしてそれは、曖昧なものだが画

面を汚したり壊したりしていくうちに固まってくる。描

きはじめる前に一応のアイデアなりイメージはあるが、

取りかかってすぐにそれが壊されてしまう。画面に一本

線を入れるとキャンバスの方で欲求してくる。そこで、

変えて変えて画面が何も欲求してこなくなるまで変えて

これだったらやって行けるだろうという所まで行く。

 見たことがないものが見たいのだから、最初からどう

やってやるか、どこで筆を置くかを知っていてはいけな

いと思う。ものを創るということは既成の自分との戦い

であるはずで本当の自分を発見するための方法のひとつ

だろう。実際、自分の創ろうとしているものが何である

のか私にはわかっていない。それを、どういう方法で実

現できるのか私にはさっぱりわからない。ただ、表現を

自力でいかなる範にも頼らず追いつめていくという自覚

が必要だとは思う。描く事によって何かを立ち現せる。

そして「見た事を描く」や「考えた事を描く」のではな

くて「描く事によって見る」ようになり「描く事によっ

て考える」ような思考の転換がおこり (2) 、それによっ

て自分の創ろうとしているものに少しずつ近づいていく。

そして、自分にとってこれは心地好い、または満足がい

く、あるいはそれ以上手が出せない、というものができ

あがった場合に、その作品は完成したと考える。

 そして、その作品が何かの核心に触れている、もしく

は見た人にとって心地好い、という所で作者と見る側と

の感覚とイメージによる交流が成立する。あれは特別の

出会いだった、と見る側が感じる様な作品が創れたらそ

の作家と作品は本物だろう。現代のアートに対しておも

しろいかつまらないかというレベルで語られているが、

本物か偽者かというモノサシをもたないと、ただ混沌と

したイメージが生まれ消えていくだけで終わる。消費芸

術のみで不動のものは取り残されていく。もっと、理屈

ではなく、知識でもない、全身的な感覚、根源的で総合

的なものに近づく努力をすべきだろう。

 また、本物を長い時間かけて育成していくには、現在

の日本は回転が早すぎる。だから、美術の表現内容より

も表現形式に対して敏感になっていく。もっと成熟度と

質への対応を重視すべきだろう。作家も根っ子の部分に

自分の生き方を社会に問うていく作業が必要であり、本

物が育成され残って行き成長していくシステムを作りあ

げ、美術がそれ自体で自立し解放されていく方向をめざ

すべきだろう。そして、いつか何人かの本物が出てくる

ことがまた本物が育成される土壌を生む。それが、文化

が成熟するという事だろう。      (1992年12月)

 

───────────────── 根拠のない確信

 

 人間は自分を通して自分しか表現しない。

 多くの人々が、ずっと昔から自分が誰であるのかを探

し続けてきた。モノを創る事は、自分が何者なのかとい

う永遠の問いかけの中でのひとつの表現手段なのだと思

う。社会の中で自分というものの存在を考えたいという

行為であり、方法は何でもいい。そして人は終始、社会

から拒否され続ける。ひとりの人間が自立する為にはそ

の拒否をはねかえすほどの力が要るわけで並大抵の業で

はない。つまり、打たれ強くなければ先には進めない。

そして、そこには確信が必要になる。

 絶対に表現しなければならないという確信。きっと何

かを立ち表す事ができるという確信。それらを迷わず続

けるという確信が必要になる。また、そこには自分自身

の創出したパターンのくり返し、つまり「自己の自己模

倣」が、しばしば生まれる。すべて自分の眼と感性を通

して創り出しているので避けては通れない事だ。

 そこで、自分が技術的にうまく仕上げる様なきざしが

見えてきたら次の展開を考えていかなければならない。

つまり「壊す」という作業の中から新しい自分を発見し

ていかなければならない。それには、出来上ったモノを

常に疑い、常に問い直す事。どんどん変えていっても最

終的には自分的なモノが残っていくし、消しても消して

も出てきてしまうモノがあるはずだ。そこまで問いかけ

を続けて残ったモノを確信をもって続ける。そこには、

カリモノではない確立された自己の表現が残るだろう。

 

『美しいものよりももっと美しいのは、美しいものの廃

墟である』と言ったのは、ロダンだそうだ。ただの表面

的な美しさは、まだ本質をあらわにしてはいない。たと

えば見なれた風景がある日突然雪におおわれた時、また

火山灰ですべてのものが灰におおわれた時、火災で焼け

落ち、廃墟となった建物。そして、まっ白に塗られた自

分の顔。そこには、今まで余分な要素、つまり色や形、

装飾によって見えなくなっていた事物の本当の表情が見

えてくる。また、美しいものは自然で無理がない。たと

えば人工で作った川の音は、石までも人間の手で置かれ

るので最初はぎこちない。何年かたって、川が自分の気

に入った位置まで石を運んで行ってそこで本当に自然な

音を出す様になるという。つまり、無理なく流れている

し無理なく汚れているからだろう。これは、使用する事

によってひき出された美、または無意識の美に通ずる。

 画面も何年か、絵の方が欲求してくるまで続けている

と自然に置かれるべき位置におさまる。だが、最近の表

現は自然に生まれ落ちたものより、情報としての、また

知識としての形式が目につく。それを超えていく為には

自分が何を表現し、何を主張したいのかを知る事。それ

は、モノを創る前に何が見えているかと言う事。

 物質としての平面が、絵画としての平面になる為の最

小限のイメージを消しさらずに、互いに競いあいながら

強い画面をつくる。いいかえれば、目に見えるものと目

に見えないもののあい重なる領域。「強い平面に豊かな

精神をとじこめる」という事か。

 

 日本人は「内なるものを、直観的な姿においてあらわ

にするという能力には、優れた国民である。ギリシャ人

が、見ることにおいて感じたのに対して、日本人が感ず

ることにおいて見たという相違」がある (3)

 感覚的に了解し、受け入れる潜在能力が優れている。

また、無秩序な自然の中から秩序やまとまりと作り出し

たのが、日本の造園の美だろう。単純なものの中に深い

精神性をみい出す、余分なものを省いて本質を目に見え

る様にする。庭造りは、美術の創作ににている。

 こんな話がある。「十六世紀には朝顔はまだ珍しかっ

た。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精こめて培養

した。利休の朝顔を太閤が見たいと仰せられたので、朝

の茶の湯へお招きした。太閤は庭じゅうを歩いたが、ど

こを見ても朝顔のあとかたも見えない。暴君はむっとし

て茶室へ入った。するとそこには見事なものが待ってい

て、彼の機嫌は直ったと言う。床の間には宗細工の青銅

の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった」(4)

 このいさぎよさを学ぶべきだ。我々は、ついつい色々

な説明を加えて、本質を弱めてしまう表現になる事が多

い。たったひとつのモノを目に見える様にし、見るに耐

えるものにするのが本当の表現だろう。

 また、作者の創る喜びとか、おどろきが伝わって来る

様なモノを創っていかなくてはいけない。幼児の作品は

そのエネルギーの塊だ。いさぎよく迷いがない。出来た

モノへの執着もないし、すぐ次の事に夢中になる。だか

ら幼児とか、原始人の創り出したモノに学びながら、作

品をもっと荒けずりで、自由な広がりをもち、美術が本

来持っている原初的なエネルギーを持つ作品にしたい。

自分がそうしたいと思っているのだから、そのうち一枚

位は納得できるモノが出て来るかもしれない。

 

 この様にどこから来るのかわからない根拠のない確信

によって、また展開すべき道を追求していく事になる。

 

  答えは無い。             (1996年5月)

 

 

注(1) イノック・ブレイター著、安達まみ訳

   「なぜベケットか」

    白水社・1990年、26頁

注(2) 中村英樹著

   「表現の後から自己はつくられる」 

    美術出版社・1987年、29頁

注(3) 和辻哲郎著 「風土」

    岩波書店・1979年、233頁

注(4) 岡倉覚三著 「茶の本」

    岩波書店・1961年(改訂版)、81頁