画廊通信 Vol.137 荒野 (あらの) の果てに
色々な出会いがある。会いたくても会えない──と云う事も多々あるけれど、ただ、本当に必要な出会いと云うものは、思い続ける事を已めさえしなければ、いつの日にか思いもかけず訪れるものらしい。この画廊を開いて、それほど多くはないにせよ、画家として生きる人達との掛けがえの無い出会いを通して、そんな思いを強く
している。藤崎さんとの出会いも、正にそうであった。
藤崎孝敏と云う画家を知ったのは、美術誌の個展案内
が契機だったかと思う。掲載されていた作品は、人物群
像の大作だったように記憶しているが、目にした瞬間、
何と救いようの無い絶望的な絵だろうと思った。今時、
これほどまでに暗いデモーニッシュな絵を、真正面から
描く画家が「居る」と云う事実が、却って新鮮な驚きを
伴ったけれど、さて、この絵を「良し」とすべきかどう
か、自分の中で一向に結論が出ない。絶望は分る、しか
し、暗い淵に何処までも深く沈みゆくその先に、果して
救いは有るのか、芸術とは詮ずる所、救済であり希望で
はないか。そうは思いつつも、一方で見る者をダイレク
トに激しく揺さぶり、否応無く惹き付けるこの強烈な磁
力は何だろう、そんなせめぎあう二項がなかなか和解へ
と到らない。往々にして優れた作家と云うものは、当然
の事ながら凡人よりも遥かに進んだ感性を備え、それ故
に、私達の何歩も先を独り歩んでいるものだ。よって紛
う方なき凡夫である私は、時折自らの常識から逸脱した
作品に出会うと、その前でうろうろと逡巡する羽目にな
る。どのみち作家はフランス在住と有るし、よって私に
は連絡の取りようも無いのだから、暫くはその作風を見
定めたいと思う内に、いつしか幾年もの歳月が流れ去っ
た。その間、個展の記事は何度か見かけたが、多くは遠
方の画廊における開催だったので、ついぞ実作品とは対
面する機会の無いままに、そのあまりにも特異な画家の
名前だけが、あたかも抜けない強靭な棘のように、いつ
までも私の中に刺さり続けた、もどかしくも解き得ない
謎として。再びの出会いは、思わぬ所からやって来た。
実は先日、藤崎孝敏と云う画家の絵を買ったんです。
随分と暗い絵なんですが、見てみますか?──あるお客
様からそんな話があって、私は久しぶりに突き刺さった
ままの棘を思い出した。私と同年輩の男性客で、好きな
作家の展示会には何度も足繁く来店され、あげくにいつ
も、出品作品中最もマニアックな一点を求められる、硬
派中の硬派である。ぜひ見せて下さい、そうお答えした
数日後、彼は10号の静物画を持参してくれた。質素な
卓上で独り黙する果実、背景は古い石壁だろうか、暗く
落とされて薄闇へと溶け込んでいる。初めて見る藤崎孝
敏は、極めて無造作で朴訥とした佇まいの中から、やは
り何かしら強力な磁場が、音もなく滲み出すようであっ
た。確かに色調は暗い。しかしながら眼を凝らす内に、
微弱な光が徐々に見えて来る。それはきっと名も知れぬ
陋巷の、寒々とした薄暗い安アパートの隅に、遅い冬の
午後ほんのひと時、小さな高窓から僥倖のように入り込
む、ささやかな温もりの光なのだろうか。やがてそれは
茫漠と画面一杯に満ちて、背景の黒い壁面を美しく浮び
上がらせる。その澄んだ黒を見ながら思った、画家はこ
の絵に光を託したのではないかと。無論それは輝かしい
光ではない、むしろ伏して沈める者に、打ちひしがれし
者に、うつむける弱き者に、望みさえ見出せない者に、
そんな暗い淵に在る者にこそ、等し並み柔らかに降り注
ぐだろう、あの許しと慈しみの光だ。いつの間に私の中
で、長年突き刺さっていた例の棘が、跡形も無く消え失
せていた。そう、闇に在ってこそ、真実の光が見える。
それから半月ほどを経て、私は初めて画家とお会いし
た。昨年1月末の事である。前述のお客様に連絡を取っ
て頂き、折しも個展を開催中であった中野のギャラリー
で落ち合う事になったのだが、私は少々早めに会場に赴
いて、作品をじっくりと拝見させて頂いた。男が居て女
が居て、動物があり花があり、風景があり静物があり、
全ては実存する自らの重みに、ギシギシと歪むかのよう
だ。軽いものなど一つも無い。しばし会場を廻る内に、
真っ向から対象と真率に対峙すれば、確かにこの世の有
りと有るものは、それぞれに掛けがえのない重さを担っ
ているのだと云う事を、ひしひしと納得させられる。そ
してそれが、どんなに愛おしい重さであれ、いずれはこ
とごとく滅び去り消え往くのだと云う、どうにもならな
い根源的な憂愁が、どの絵にも濃厚に湛えられている、
まるで画面の端々から溢れ出すかのように。おそらくこ
こに在るものは、通常の「美しさ」とは時に大きく隔た
るものだろう、しかし、この世に「在る」と云う事をそ
れだけで美しく思える人ならば、美醜を超えた存在への
限りない愛惜を、このように描き出すのかも知れない。
「藤崎です、初めまして」、半時ほど後に見えられて、
少し照れたような微笑みと共に、黒いコートのポケット
から差し出された画家の手は、泣く子も黙る無頼派と云
うイメージとは違って、ホッとするように温かだった。
一時間ほどギャラリーで歓談の後、最寄りの駅まで一
緒に帰ろうと云う事になり、外に出るといつの間に冷た
い雨が降り出していて、にわかに一月の寒さが身に沁み
るような夕暮れである。傘を差し、肩を並べて歩いてい
ると、ふと藤崎さんが「もう少し話しましょうか」と言
われた。「そうしましょう」「酒が飲める所がいいな」
「在るといいのですが」と云う訳で、しばし二人で駅前
の商店街を物色したのだが、どうもこれと云った店が無
い。仕方なく喫煙席のあるファミリーレストランに入っ
て、藤崎さんはビール、私はハイボール、正直申し上げ
て、初めてお会いした作家と、お会いした当日に酒を交
すと云うのは、私としても初めての経験である。藤崎さ
んはテーブルに着くと、小さな袋から煙草の葉を少量取
り出し、巻紙でクルクルと器用に包んでシガレットを作
り、フーッと紫煙をくゆらせてから「一つよろしく」、
カチンとグラスを打ち合わせた後「日本に帰ると毎日酒
浸りでね、いい加減飽きました」、そう言って笑った。
席は2階の窓際で、早くも夕闇迫る雨の雑踏を見下ろし
ながら、パリの回想や人生観をお聞きしたひと時、私は
忘れない。モンマルトルの頃?そうだなあ、実はムーラ
ン・ルージュの楽屋はフリーパスだった、あそこの女と
懇意にしてた事があってね。そう、ロートレックも入り
浸ってたあのキャバレーさ。金は無かったけど、面白い
時代だった。いや、結婚は苦手なんだ、一つ所に落ち着
けないものだから……、画家はやはり無頼派であった。
藤崎孝敏、1955年熊本県に生れる。20代初め、
郷里での学業を捨てて上京、彫塑の制作等を糧としなが
ら、都内を転々と移り住む。この頃から既に、定住への
不安を常に持っていたと言う。30歳で初個展、折しも
世情はバブル景気へと向う只中で、自分には未だ途上と
思われる絵が次々と売れて行くのを見て、却ってこれで
はいけない、画家としての成長が阻まれるとの危機感を
募らせ、渡欧への意志を固める。32歳で渡仏、パリ市
内のホテルを転々としてから南仏へ発ち、ジプシーと生
活を共にしながらイタリアやスペインを放浪した後、再
びパリに戻ってモンマルトルの安宿に落ち着く。その後
四半世紀近くに亘ってパリ市内を移り住み、日本では東
京・神戸を中心に個展活動を重ねながら、まるで息遣い
が聞えそうな荒々しいタッチと、闇を孕むが如き色彩を
特徴とした独自の画風を確立し、徐々に熱狂的なファン
を生み出して往く。4年前の夏、住み慣れたパリを離れ
てノルマンディーへ移住、翌年には更にブルターニュへ
移転するも、どうやらその地に永住するつもりはないよ
うで、いずれまた何処かへ旅立つかも知れない。藤崎さ
んのお話を聞いて、あるいは来し方を見てつくづく思う
事は、世の圧倒的多数の農耕民族的安住指向を尻目に、
至極少数ながら、どうしても定住が出来ずに諸処をさす
らい、却って旅こそ我が住み家と安息するような、言わ
ば遊牧民族的漂泊指向の人が、こうして実在するのだと
いう事実であり、しかし顧みれば、そもそも芸術家と呼
ばれる人種は、画家に限らず詩人であれ楽師であれ、押
しなべて社会機構の本道から外れ、あらゆる境界を越え
て野路を自由に流浪する、いわゆるノマド(放浪者)で
あったと云う史実である。これは最早、持って生まれた
芸術家の性(さが)としか、言いようのないものではな
いか。彼等は、暖かい暖炉の前で睦まじく憩うぐらいな
ら、寒風の吹きすさぶ荒野へと独り旅立つだろう。満ち
足りて安閑と惰眠するぐらいなら、あえて我が身に埋め
ようのない風穴を空けるだろう。そう考えるなら藤崎孝
敏と云う画家は、正に芸術家の源流を体現して生きる、
最も芸術家らしい芸術家、現代の合理主義社会では稀有
と言ってもいい、最後の浪漫主義者なのかも知れない。
藤崎さんの世界を目の当りに見る人は、まずはその有
無を言わさず心を鷲掴みにされるような、ストレートで
ダイレクトな表現に驚くだろう。そして、画面から強力
に放射される作家の情念を、正面からまともに浴びる事
になるだろう。それは当初、あまりに癖の強い酒の如く
に思えるかも知れない。しかし酔わば酔え、虚心にその
情念に酔うてみれば、人はそこにありありと、或る切実
な魂の形を見る事になる。それはたぶん、厳しい自己と
の葛藤から否応もなく生れ出て、何の虚飾も欺瞞もなく
生(き)のままに晒された、一人の芸術家の心魂の姿な
のだ。その焦がれるような想いが、裂けるような哀しみ
が、時には絞り出すような叫びが、荒ぶる筆致の縦横な
うねりの諸処から、音もなく鬱然と起ち上がる様を、絵
の前に立つ人は必ずや目の当りにするだろう。思えばこ
の小器用な美麗ばかりが、相も変らずもてはやされる現
代において、これほど真っ向から肺腑を衝き、胸をえぐ
り、心奥に冷たく澱んでいた血潮を、今一度熱く呼び覚
まさんとする絵画が、果してどれほど有るのだろうか。
今年に入って早一月も終ろうとする頃、案内状に掲載
させて頂く作品が届いた。「聖セネンの丘」12号、彼
方に風車を望む荒れ果てた草原に、今しも風が立ってい
る。上空には、不穏な兆しを孕むかのような暗雲が掛か
り、一瞬切れ間から洩れ出た微かな陽光が、荒んだ大地
へあえかに落ちる。遥か風車の後方に僅かな青空が覗い
て、丘陵の向うは漠として見えない。今、長年に亘って
パリを彷徨したノマドは、独りブルターニュの原野にた
たずんでいる。ぼんやりと絵に見入る内に、やがて絵の
前にたたずむ私は、荒野にたたずむ画家と一つになる。
しばらく耳を澄ませていると、渺茫と広がる丘の向うか
ら、高く低く清らかな讃美歌が響いて来るようだ。──
荒野(あらの)の果てに、夕日は落ちて、妙なる調べ、
天より響く──グローリア、グローリアと復唱されるそ
の長い旋律を聞いていると、激しい情動を孕んで不穏に
揺らいでいた空へ、聖なる大気がそこはかとなく満ち満
ちて来る。この絵には、いにしえの聖なる歌が似合う。
いつか私もある無頼の画家と、この異郷の原野に立ち
たい。そして一人のノマドが流亡の末に、荒野の果てに
見たものを見たい。そしてしばし寒風に吹かれた後、く
るりときびすを返した画家の、こんな言葉を聞きたい。
「さて、少し話しましょうか。酒が飲める所がいいな」
(15.02.24)