画廊通信 Vol.114 闇夜の舟
本宮さんの第3回展、もっと早く実現したかったのだ
が、結局3年ぶりの開催となってしまった。今回の出品
作品の中に、「カロンテ」と題された、ひときわ目を引
く印象的な作品がある。 Caronte ── ギリシャ神話に
登場する、冥界の河で舟を操る渡し守の名前。ちなみに
イタリアでは、アフリカ性高気圧の俗称にもなっている
との事、実物は画廊でじっくり見て頂くとして、とりあ
えずは右に掲載した図版をご覧頂きたい。
今しも一艘の小舟が、暗澹と澱んだ広大な海原を越え
て、波打ち際へ密やかに打ち寄せた所だろうか。舟の積
み荷は「炎」だ。舟いっぱいに炎々と燃え盛る焰 (ほむ
ら)が、闇夜の大気を熱く焦がすかのように、真っ赤にた
ぎって狂い咲いている。それは沸騰する憤怒だろうか、
噴出する情念だろうか、抑えようのない荒ぶる激情が今、
強烈な深紅の火焔となって観る者を照らす。
今までの本宮さんの作品は、概ねは自らの内奥へ向っ
て、どこまでも深く沈潜するかのような、思索的で静謐
な世界を主としていたが、そしてそれは、今も揺るぎな
い根として変らず制作の根底を貫くものだけれど、今回
出品される作品の中には、激しい情動をダイレクトに描
き出したかのような、ある種直情的な表現も時おり顔を
見せる。その原因を探ろうとすれば、すぐにも一昨年の
あの震災が、作家の胸奥でそれ以前と以降とを分つ、明
瞭な境界を成すだろう事に思い到る。むろん本宮さんは、
遥かバルセロナに居を構える人だから、直接の被害を被
った訳ではない。しかし芸術家のたぐいまれな想像力は、
一気に海を越えて震災の地へと到っただろう。そして彼
の地の苦しみに、その魂は瞬時に共振して打ち震え、意
識せずともその溢れ出す同苦は、しんしんと画面を浸潤
して行ったに違いない。それが優れた芸術家の、望む望
まざるに関わらず持たざるを得ない、否応もなく鋭敏に
時代と交感してしまう精神の、言わば悲しい業 (わざ)
なのだろう。私には前述の「カロンテ」という作品が、
そんな苦難の時代を内包・反映した新たな表現として、
最も象徴的な一作に思えたのである。
Mail / 12.04.21 Yamaguchi
個展なかなか伺えずにいたのですが、今日の最終日に
何とか間に合って、三島まで行って来ました(昨春、三
島市のギャラリー「エクリュの森」にて、本宮健史展が
開催された)。今回は強い祈りを感じさせる作品が、特
に多かったと思います。
私事ですが、昨年の震災があってから、より「神」と
いう存在について考えざるを得なくなりました。一遍に
何万人もの人間を虐殺したこの「自然」と呼ばれるもの
に、果たして神は宿るのだろうか。もし宿るにせよ、幾
万もの人間を、そしてあらゆる生きとし生けるものを守
らなかった神とは、いったい何なのか。私の頭では、と
ても解決の出来ない難問です。
ただ一つ確かな事は、神の有無や実体がどうであれ、
私達自身の心の中には、何か大いなるものに向い、それ
を求め、仰ぎ見る、「神の意識」とでも言うようなもの
が在るという事、これだけは、疑いようのないものでは
ないかと思うのです。本宮さんの作品を見ている内に、
いつしかそんな事を考えさせられました。
あれだけの惨事を経験してなお、軽薄な無内容の作風
が未だ主流の現状にあって、魂の奥深くから、直接に浮
かび上がって来たかのような本宮さんの表現は、実に貴
重で意義あるものだと思います。素晴らしい展示を見せ
て頂き、ありがとうございました。
Mail / 12.04.22 Motomiya
千葉から関東を横断して伊豆まで、遠い道のりで大変
恐縮です。お忙しい中を有り難うございました。今回の
作品は震災後の制作でしたので、「祈り」や「鎮魂」、
「希望」を込めた作品になったのかも知れません。
神について、僕もそう思います。神が本当に存在する
のなら、天災で沢山の命が奪われたり、数えきれない子
供達が餓死したりと、全てが救われないのはどうしてな
のでしょう。神にはその力がないのでしょうか。
きっと神は信じる人の中にも、信じない人の中にも、
全ての生きとし生けるものの中に、存在するのだと思い
ます。生まれた時から死ぬ時まで、もしかしたらその後
まで、唯一我々に付き添ってくれる存在が、言うなれば
「神」なのではないでしょうか。宗教は地獄や天国を説
きますが、実際には今生きている「この世」こそ、人に
よっては地獄となり、天国にも成り得るのでしょう。な
らばこの世が地獄ではなく、少しでも居心地を良くする
ための助けとして、神は存在するのかも知れません。僕
の勝手な考えに過ぎないのですが……。
以前にも書いた事だが、2001年の春──と言えば
ちょうど12年前に、東京国際フォーラムのアートフェ
アで、私は本宮さんの作品と出会った。その時私はある
画廊を退社したばかりで、職がなかった。つまり、悠長
に展示会など覗いている場合ではなかったのだけれど、
とりあえずは何かのキッカケでもあればという、かなり
いい加減な思いで、同展を訪ねたように記憶している。
本当は、じっとしていられなかったのだ。この先、どう
やって食べて行けば良いのか、どうすればこの仕事で生
きて行けるのか、そんな底知れない不安で居ても立って
もいられず、電車に飛び乗って辿り着いた会場だった。
しかし、見渡す限り、見事に詰らないどうでもいいよう
な展示ばかりで、失意がいよいよ絶望に変りかけた時、
私はふいに「光」を見つけたのである。
騒々しい会場の片隅で、それは人知れず真実の光を、
どこまでも深く透明な画面から、密やかにしかし強靭に
放っていた。それにしても、深い深い青だった。時の止
まった深海の闇で、しんしんと神秘の慈光を放つかのよ
うな、その祈りにも似た静かなる灯火 (ともしび) に、
私はただただ魅せられて、立ち尽くすばかりである。人
が見ていようがいまいが、そんな事はまるで瑣事 (さじ)
であるかの如く、ただひたすらに己の信ずる美を湛えて、
さながらそれは発光するコバルトの湖であった。
優れた絵というものは、必ずや何かを、見る者に語り
かけて来るものだ。おそらくそれは描いた当人もあずか
り知らぬ声であり、見る者の恣意的な解釈に過ぎないの
かも知れないが、そうであったにせよ、優れた一枚の絵
が見る者の心に、決して間違った声を響かせる事はない
だろう。感動を言葉で表す事は出来ないが、時に人は感
動の中で、自らに語りかける言葉を聞く。
「己の良しとする道を、ただ真摯に歩め」、いつしか寡
黙な画面の彼方から、そんな声が聞こえたような気がし
た。それはまた「己の良しとする道を、ただ真摯に歩み
来た」画家だからこそ発し得る、真実の言葉であると私
には思えた。
帰りの電車の中で、私は不思議に満ち足りていた。朝
の失意と不安はいつの間に消えて、だからと言って何か
の展望が開けた訳でもなかったが、「大丈夫だ」という
内声が私の心を、あるべき所にしっかりと定めている。
本宮健史──私と同年齢のこの芸術家に、私は深く癒さ
れ、救われていた。この時の体験、決して忘れない。
この時から5年の後、縁あって本宮さんの個展を開催
させて頂く事が出来たのだが、その折私はこの画廊通信
に、「届かない手紙」と題した手記を書かせて頂いた。
誰もが持つだろう届かない思いを、優れた芸術はきっと
受け止めてくれるだろう、そんな私なりの感慨を記した
ものだったが、それから更に7年を経た今、本宮さんの
芸術に捧げる精一杯の言葉として、再度の登用をお許し
頂きたく思う。以下、同手記の末尾から。
思うに人は、誰もが届かない手紙を出している。希望
・憧憬・恋慕・憂愁、人それぞれ切々と綴られた宛名の
ない手紙は、届かない事を知りながら夢のポストへと旅
立つ。苦しみを優しく包むもの、悲しみを癒す大いなる
もの、それらには名前も住所もないのだから、出した手
紙は届きようもなく、届かない手紙に返事の来る筈もな
い。それでも人は出し続けるだろう、届かない手紙に何
かを託すのが、きっと人というものだから。
しかし私は知っている。そんなさまよえる手紙に込め
られた声を、本当の芸術だけは密やかに受け取ってくれ
る事を。受けるその手は見えずとも、彼方より聞こえ来
るその返事から、人は手紙が確かに届いた事を知る。
願わくば何かを探し続ける人、何かを求めて歩み続け
る人、この魂の芸術をご覧あれ。ここには思索がある、
祈りがある、そして何よりも、出会い難き真実の美があ
る。静寂の画面より放たれる奥深い慈光の中から、人は
きっと遥かなる声を聞く。
この手記が私の下を離れる頃、画家も炎熱のバルセロ
ナを発つだろう。そして機翼は東へと向い、やがて画家
は懐かしき故郷に降り立つ、未だ見ぬ内なる手紙への、
美しき返事を抱えて。
Mail / 13.03.04 Yamaguchi
現在、本宮さんのような求道的な姿勢で抽象表現を追
求している作家は、極めて少ないと思います。私の見て
来た限りでは、その9割以上は「安易な反復」に過ぎま
せん。ほとんどの抽象作家は、一旦自分のパターンが決
まると、以降は延々と同じ事を繰り返しているだけで、
ある意味彼らのやっている事は、安直な具象作家よりも
更に、安直で簡易だと思います。
そんな中で本宮さんの奥深い抽象表現は、他作家とは
一線を画するものでしょう。具象よりも安易な抽象に逃
げるのではなく、あえて安易な具象を離れて、困難な抽
象に手探りで挑むその姿勢は、現在のたるみ切った抽象
芸術界に、鋭い一石を投じるものと信じて疑いません。
Mail / 13.03.05 Motomiya
具象にしろ抽象にしろ、空っぽで外見だけ繕ってある
絵画は、鑑賞者の心に伝わるものもなく、そこには動揺
も感動も発生しないでしょう。求道など、そんな大それ
た態度で制作している訳ではありませんが、空っぽの絵
を描かない位は考えているかも知れません。作品が次々
と出来ないのも、その為でしょうか。
「闇にまよひて」その通りで、追求すればするほど、試
みれば試みるほど、先が見えなくなるものです。「出口」
や「明り」を探すのではなく、いっそ考え方を変えて、
暗闇の中を手探りででも歩いてゆくしかないのでしょう。
それが自分に課せられた、この世での生き方なのでしょ
うか……。
画家は、どこまでも謙虚な人であった。自分は光を求
めるよりも、むしろ闇に迷いながら、手探りで歩き続け
るしかないと言う。しかし私は今一度、先述したあの
「カロンテ」を見て思うのである。光など求めずとも、
ここに光はあるではないか。もう疾うに、赤々と燎火を
掲げているではないか。憤怒を燃やし、情念を燃やし、
やがて悲嘆も絶望もことごとくを焼き付くし、いつしか
それは暗闇を照らす灯火となる。
闇夜の舟、貴方こそが光だ。星なき暗雲の下、暗黒の
海洋を越えて、それは今暗い心の汀 (みぎわ) に辿り着い
た。もうここに失意はない。あらゆる悪しきものを燃や
し尽くすため、荒ぶる神は真っ赤に燃えたぎっている。
(13.03.18)